>未来の世界における日本の役割を考えると、次のようなことがわかります。 >第一に、軍事力ではアメリカがトップの位置を占め続けるでしょう。 >第二に、経済力では、工業生産の分野での覇権は次第に中国やインドに移行するでしょう。 >また、金融の分野では、欧米に一日の長があるという状態が今後も続くでしょう。 >このような中で日本が優位に立てる分野は、知力、技術力、精神力など文化力といわれるもので、この文化力が政治力や経済力に波及する未来というものを考えることができます。
未来社会において、日本が文化力を発揮できると良いですね。
>日本文化のすぐれている点としてよく取り上げられるものに次のようなものがあります。 >江戸時代の識字率は当時の世界の最高水準の70-80%を達成していました。
‘人のふり見て、我がふり直せ’ ですかね。
>戦後、世界でもまれな一億総中流化という経済文化状況が生まれました。
とにかく、個性的なことは、嫌われる国柄ですからね。
>現在、格差は拡大したと言われながら大衆の知的水準の高さは世界の中でも際立っています。 >それは例えば、ごみ収集の方法の徹底などというところに表れています。
知識水準は、低水準に切って揃えられているようですね。 ‘(略) しかしいったん、大学に入れば、控えめに表現しても、成績と出席の基準はたるんでいる。大学を含め、日本の子供たちが習うものごとの中核は、主として十八歳までに吸収される。’ (フランク・ギブニー)
>また、世界の先進国の中で最も治安がよいというのも日本の長所としてよく言われるところです。
そうですね。生き物には、安全が第一ですからね。命あっての物種です。
>一言で言えば、すぐれた庶民、一般大衆がいるというのが日本文化の特徴なのです。
そういう風にも言えますね。
>この原因は、実は日本語にあります。 >よく言われる例ですが、日本語の特徴として左脳で自然の音を聞くということが挙げられます。 >このため日本語では擬声語や擬態語が発達し、自然を人間化して見るという見方が生まれました。 >この自然の人間化が、自然との一体感や自然を大切にする気持ちを生み出したと考えられます。
そうですね。わが国においては、人と自然が一体化していますね。それは、人間が意思を示さないからであります。 意思 (will) は、未来時制の文章内容である。しかるに、日本語の文法には、時制 (tense) というものが存在しない。だから、日本語の脳裏には未来時制はなく、日本人には意思がない。
>しかしそれ以上に大事なのが、漢字とかなが混在している日本語という特徴です。 >漢字が表意文字で主に絵として描けるような名詞を表すのに対し、かなは表音文字で主に動きや関係を示す助詞や助動詞を表すという役割分担が日本語では自然に行われています。 >このことは一方では、日本語の複雑さの大きな要因になっています。
日本語は、表記法が複雑ですね。
>一つの言葉に音読みと訓読みの両方があり、その音読みと訓読みにもまた多様な読み方があります。>例えば「下」という一つの文字でも、「か」「げ」「した」「しも」「さ(がる)」など多くの読み方があります。 >しかし、他方では、この漢字かな混じりで多様な音読み訓読みという性格が、あとに述べるように日本語のすぐれた特徴にもなっているのです。
漢字の字形と音訓に貴重な月日を費やし、勉学の成果が出るのが遅れています。
>世界中のほとんどの言語は、英語に代表されるような表音文字の言語です。 >表音文字では、言葉が意味を示さないので、視覚の助けを借りて一目で理解するというようなことが得意ではありません。>そのため、表音文字では論理の展開で物事を理解するという方法が主流になりました。 >欧米流の三段論法では、A→BでB→CならばA→Cである、という理解の仕方をします。 >しかし、視覚の助けを借りられる表意文字の日本語では、A即Cというような見方を一瞬ですることができます。
表意文字は、国際連合の道路標識のようなものですね。見ればわかる。
>「武士道とは死ぬことと見つけたり」(葉隠)というような言い方は、日本人ならば、その意見に対する同意不同意を別にすればそのまま理解することができます。 >しかし、表音文字の欧米人は、その意見に対して「WHY」という質問をするでしょう。 >デカルトは、「我思う故に我あり」と言いました。 >葉隠の著者は、「武士道とは」に「WHY」と聞かれても途方に暮れるでしょう。 >「見つけたり」と言っているものに「WHY」と聞かれても答えようがないからです。
そうですね。現実の内容は、頭の外に存在する。見ることができる。見ればわかる。 非現実 (考え) の内容は、頭の中に存在する。見ることができない。ただの話である。筋がわかる為には、文章の理解が必要である。
>しかし、デカルトは、「我思う」に「WHY」と聞かれれば、その理由をこと細かに説明したはずです。 >その説明が「方法序説」という著書でもあったのです。
‘Why?’ と尋ねられたら、’reason: 理性・理由・適当‘ で答えなくてはならない。 全ての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではない。 矛盾を含んでいない文章は、すべて正しい考えを示している。だから、正解は、唯一ではない。人さまざまてあるから、多数ある。 矛盾を含んでいる文章も、その矛盾を除去すれば、正しい考えになる。だから、自分の考えを正しくするためには、相手との会話が役に立つ。
>物事を論理の展開を通してでなければ理解できない表音文字に対して、表意文字は物事を視覚的、空間的に一目で理解するという長所を持っています。
表音文字は、非現実・考えを理解するために適した表記法です。 表意文字は、現実を描写するのに適した表記法です。日本語は、写生画の言語です。非現実の内容がない。
>これが、日本人が、理解力の点で欧米人よりもすぐれていたという一つの背景になっていたのです。
非現実 (考え) の内容には、理解で対応する。 欧米式である。 現実の内容には、忖度 (推察) で対応する。 日本式である。
>更に、世界の他の言語に比べて音素数が少ない日本語は同音異義語が多く、耳で話を聞いているときでも常に視覚的に言葉を思い浮かべなければなりません。 >それが日本人の視覚的発想の訓練にもなりました。 >言葉そのものではなく、思いやりや察し合いという文脈の中で言葉を理解することが得意なのも、この日本語の特徴によるものだと考えられます。
非言語の世界に対して、日本人は忖度 (推察) で対応している。忖度は、受け手の勝手な解釈であるから、当人には何の責任もありません。議論の対象から外れています。かくして、孤高の人になる。
>では、表意文字の本家である中国語はどうなのでしょうか。>中国語は、全部が漢字なので、かなのような表音文字のある日本語に比べて漢字を操作しにくいという面があります。
それは、日本流の解釈の仕方でしょうね。
>日本語では、助詞や助動詞のかながニュアンスの違いを表します。 >「国破れて山河あり」は、中国語では「国破山河在」です。 >これをもっと日本語的に言うならば、「国は破れてしまって山河がある」と詠嘆調に言うこともできますし、「国が破れても山河はある」と意志的に言うこともできます。
日本語は、曖昧な言語ですね。
>日本語が、かなという水の上に漢字というタイルを浮かべているような水性の言語だとすると、中国語は、漢字のタイルがびっしりと敷き詰められた土性の言語だと言うことができます。 >このため、中国語はタイルを操作することが難しく、自由な発想を広げることが日本語に比べて行いにくいのです。
そうですね。国際連合の道路標識のようなものですね。
>このことは、中国語でダジャレというものがあまりないというところにも表れています。
道路標識にダジャレはありませんね。
>日本語は、全部が表意文字の中国語に比べると、想像力に富んでいるということが特徴になっているのです。
日本語は、曖昧な言語ということにもなりますかね。
>日本語は、すべてが表意文字の欧米語に比べると理解力の点ですぐれていて、すべて表意文字の中国語に比べると想像力の点ですぐれている。 >これがこれまでだれも指摘しなかった日本語の秘密です。
日本語では、考えの内容が表せない。だから、日本人は文章の理解力も良くない。 想像力は、忖度ですね。歌詠みのようなもの。独りよがりで、議論の対象にはならないでしょう。
>理解力と想像力ですぐれているという日本語の特徴は、逆に言えば、漢字かなまじり文という複雑さと裏腹の関係にあります。
日本語を世界に普及させる必要がありますね。日本語は、非言語の領域で力を発揮します。ですから、国際貢献ができます。 言語の習得には、音読が効果的です。ですから、言語の表記法に着目しなくてはなりません。日本語の表記法を現在の仮名漢字表記からローマ字 (alphabet) 表記するのが良いでしょう。 さすれば、非漢字圏の初学者も、たちどころに日本語の音読が可能になります。日本語会話の普及が、日本人の独りよがりを防ぐことになります。現在の表記法では、漢字の字形と音訓に貴重な月日を費やすばかりです。勉学の成果が遅れます。
>漢字かなまじりの複雑さをわかりやすく整理して、日本語を世界の人にとって学びやすい言語にすれば、それは、世界の文化にとって大きな朗報となるに違いありません。
そうですね。日本語の音読普及に全力をあげましょう。
.
|