>(略) > 〇いい子症候群の特徴 > 教育カウンセラーの諸富祥彦先生によると、親に褒めてもらいたくて自らが頑張る力を発揮する「一般的な良い子」と、親の期待に過剰に応えようとするいわゆる「いい子症候群」には決定的な違いがあるといいます。
そうでしょうね。’いい子症候群’ の症状は、政府首脳の忖度 (推察) を事とする高級官僚の態度に似ていますね。親子共通の問題でしょうね。
>子どもはみんな、お父さんやお母さんから褒めてもらいたいもの。>それは当然の感情であり、褒めてもらうことを目的に良い行いをするのはごく一般的な子どもの特徴です。
そうですね。子供の時は、親に褒めてもらうとうれしいものですからね。生物の本能ですね。野生動物の場合だと、親子絆からの脱落は子供自身の命を落とすことを意味しますね。
>しかし「いい子症候群」に当てはまる子どもは、褒められることよりも、親が不機嫌になることを恐れ、どうしたら親が喜ぶのかを常に考えてしまうのです。
そうですね。感情的な日本人の始まりですね。
>その特徴とは一体どのようなものなのでしょうか?
‘いい子症候群’ は、日本人そのものの性質とよく似ていますね。
>■言動が受け身
日本人には、意思がない。だから、能動的な行動はとれない。それで、受動的な態度に出る。言動が、どうしても受け身になる。意思の能動はできないが、恣意の能動にも無理がある。 意思は、未来時制の文章内容である。しかし、日本語文法には、時制 (tense) というものがない。だから、日本語脳裏には未来時制は無く、日本人には意思がない。 能動的な行動がとれないから、他への追従を余儀なくされている。日米安保のようなものか。
>■自己主張が苦手
考えがあれば、自己主張ができる。しかし、無哲学・能天気な日本人には、自分自身の考えというものがない。だから、自己主張は苦手である。 現実の内容は、頭の外にある。それは、見ることができる。見ればわかる。 非現実 (考え) の内容は、頭の中にある。それは、見ることができない。ただの話である。話の筋がわかる為には、その文章の理解が必要になる。 非現実の内容は、時制のある文章内容として表される。非現実の世界は、独立した三世界 (過去・現在・未来) からなる。それぞれの内容は、現実の内容とは区別されて、個人の世界観 (world view) となる。 全ての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではない。 矛盾を含まない全ての文章は、正しい考えを表している。そして、その考えの内容は、人人により違っている。だから、正解は、一つではない。幾らでもある。 矛盾を含む文章も、その矛盾を取り除けば正しい考えに変わる。だから、相手と対話をすることによって、自分の考えを正しくすることが可能である。
>■感情表現が乏しい
日本人には、空気を読む習慣がある。だから、自分の感情を空気として読み取られまいとして、平静をよそおう。自己の感情をあけっぴろげにしないので、感情表現に乏しい。
>■親の指示がないと不安になる
そうですね。序列社会は権威主義の制度の下にある。だから、個人は目上の許可がないと動けない。
>■小さな決断も自分ではできない
日本人には意思がないので、意思決定は不可能である。さりとて、恣意決定も難しい。恣意 (私意・我儘・身勝手) の自由は ‘自由の履き違え’ となり、社会に認められていない。だから、小さな恣意の決断もできない。’不自由を常と思えば不足なし’ ということになるのでしょうね。
>おとなしい子、内気な子、優等生タイプの子とは少し違う「いい子症候群」は、親がどう思うか、親からどう思われるかが何よりも大事なのです。
大人についていえば、’見栄と外聞’ を気にするようなものですね。
>親の期待に応えられなければ自分の存在価値を認められないので、自分の意思を主張できなくなります。
そうですね。周囲の期待に応えられない皇軍兵士のようなものになるのでしょう。’恥ずかしながら、、、、’ といって穴から出てくるのか。
>また、一見素直で従順ですが、実は自分を押さえ込んでいるため、突然感情を爆発させることもあるので注意が必要です。
忖度の世界において、突然反旗を翻す次官が出てくるようなものですね。注意が必要ですね。
>つまり「いい子症候群」とは、「大人の顔色をうかがい、先回りして親の期待に応えようとする自主性のない状態」であるといえます。
閣僚の顔色をうかがいながら必要書類の作成に専念する官僚のようなものですね。日米交渉も、そのようなものになるでしょうかね。
>問題は、期待されている「答え」(=正しい言動)を先取りするうちに、それが自分の意思であるかのように錯覚してしまうこと。
そうですね。忖度が主題では、国会に浮いても議論はできませんね。忖度は聞き手の勝手な解釈によるもので、話し手には何の責任もありませんから。
>いい子を演じている自覚がないまま成長すると、どのようになってしまうのでしょうか。 (略)
それは、高級官僚の国会答弁を聞いたらわかります。 司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調しています。 「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」
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