2019年08月03日(土) 

 

 

>義和団事件までは整然としていた日本の軍隊も、無学な山県有朋より酷い、陸士出身の司令官に指揮されるようになり、政治も東大卒官僚によって運営される時代に入っていました。

 

恣意の横行ですね。意思の無い人には、責任がない。ちょうど死刑執行人のようなものである。人は死んでも、彼らは殺人罪には問われない。彼らには殺意というものがないからである。意思の無い人間は、責任者・指導者としては欠格である。それらがのさばるのでは、国は破滅しますね。

意思の無い社会には、責任者を探すのが難しい。

カレル・ヴァン・ウォルフレンは、<日本/権力構造の謎>の中の <とらえどころのない国家> で、次の段落のように述べています。

国会両院以外に、国家の中核として権力を持っているらしく見える組織は、官僚と大企業である。だが、この両者のどちらにも、究極的な権力はない。ボスはたくさんいるが、ボス中のボスといえる存在はないし、他を統率するだけの支配力のあるボス集団があるわけでもない。首都が国の経済、文化の中心だという意味では、日本は高度に中央集中型の国と言える。東京は、パリやロンドンに負けず劣らず、”すべてのものがある”大都市である。大企業は、中央官庁の役人から離れないよう、本社あるいは重要な支社を東京に構える。主要教育機関も、ここに集中している。予算陳情のためには、地方自治体も国の中央官僚に取り入らなければならない。東京以外には、重要な出版産業も娯楽産業もほとんど存在しない。ところが、この地理的中心地には、政治の中核がないのである。どの国についても、国家の実態をとらえるのは容易ではないが、日本の場合はとくに、バケツの中のウナギを素手でつかまえる、ということわざのたとえそのものである。指令の流れる経路、責任の中心、見え隠れする政策決定上の実際の動きなどが、すべて気が変になるほど、とらえどころがない。(引用終り)

 

>加藤内閣の後継でもある浜口雄幸内閣で大蔵大臣を務めた井上準之助も東大卒ですが、この内閣が強引に推し進めた金本位制の解禁では内外で論争がありました。>井上も加藤に劣らず傲岸不遜な人間で、石橋湛山などの平価切下げ金解禁論を一蹴しました。>早稲田や一橋出身者の意見には耳を貸さない傲慢さで、満州事変へつながる国家経済破綻のデフレを引き起こす大失策を犯した人物でした。

 

序列メンタリティ万能の時代であったのですね。’上意下達’ 万能の時代でしたね。

東大卒の本人もそれ以外の周りの人々も批判精神を持っていなかったのですね。批判を渇望する民衆もいなかった。

英文法には、時制 (tense) というものがある。時制のある文章内容は、互いに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容を表すことができる。各世界の内容は、果てしなく展開が可能である。初めは、各人の世界観が白紙の状態にある。めいめいにその内容を埋めていくことになる。思春期になると言語能力が急速に発達するので、’各人に哲学が必要である’ (Everyone needs a philosophy.) ということになる。それで、彼らには、高等教育が必要になる。’あるべき姿’ の内容は、未来時制の文章内容になっている。自己の基準を基にして現実の内容を批判すれば、彼は批判精神を示したことになる。だが、日本語には時制がないので、日本人には世界観がない。自己の基準を確立させることができない。それで、日本人は、批判精神を示すこともできない。

 

>浜口自身は日本経済の政商・財閥もたれあい体質を改善する意味があると信じ、「玉砕するとも男子の本懐」という名台詞で有名ですが、この政策は金貸し財閥の三井銀行などが円買いドル売りで大儲けしただけで、アメリカの大恐慌の煽りを喰らって日本の外貨準備は底をつき、昭和の大恐慌を招いたのです。

 

それは、残念なことでしたね。

 

> 東大卒の官僚が政治の世界に進出してその実像を現した所見は、雑多な出身者が多い政界や官界或いは実業界の中で、傲岸不遜や慇懃無礼が飛びぬけて顕著であったことです。

 

東大卒の官僚は、わが国の序列信仰に深い信頼寄せていたのですね。日本の常識は、世界の非常識か。

 

>若槻礼次郎は線が細いと言われた人物でも慇懃無礼な人物でした。

 

彼は、序列メンタリティの虜になっていたのですね。’序列なきところに礼儀なし’ となりますかね。

 

>「ああ玉杯に花うけて」の天下の秀才達は、欧米に向かっては劣等感を、内にあっては「人民ばかりでなく、元勲や貴族までをも見下す」集団でもありました。

 

‘上と見るか・下と見るか’ の序列メンタリティを抱えていては、そうなることは必然ですね。大きくなったり小さくなったりして見せるのは、日本人の得意技でしたね。無哲学・能天気の社会の常識では、どうにもなりませんね。

自己の世界観が持てなくて、批判精神を発揮できない。常に時流に流されている。そのやるせなさが浪花節のテーマになる。昔ながらの山桜かな。

我々日本人は、日本語と英語の両言語を良く学び、時制の大切さを十分に理解すべきでしょうね。さすれば、自己の世界観を持つことも可能になり、自己の意思を表明することも可能になります。日本語オンリーの世界にある閉塞感からも逃れられます。考え方は、まだ他にもあるということです。自己の世界観と意思の内容を広く公表して、国際社会から未来社会の建設のための協力者を得よう。

 

 

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閲覧数517 カテゴリアルバム コメント0 投稿日時2019/08/03 14:09
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