2019年08月07日(水) 

 

 

>小澤紀夫 ( 40代 営業、企画 )  13/09/12 PM07 【印刷用へ】  >泉田裕彦新潟県知事の原子力行政のあり方についての意見を紹介します。

>2013/09/07 「福島ではどこが問題だったのか、社会的な意思決定、制度の問題も明らかにした上で改善しないと、我々人類の子孫は生存の危機に直面する」 ~岩上安身による泉田裕彦新潟県知事インタビュー  >リンク

><引用開始>

(略)

 

>  「原子力行政のあり方は日本軍とよく似ている」との岩上の指摘には、「その通り」であるとして、「日本の意思決定の問題。

 

そうですね。日本人には、意思がない。だから、意思決定も不可能です。

意思は、未来時制の文章内容である。しかるに、日本語の文法には、時制 (tense) というものがない。だから、日本語の脳裏には、未来時制は存在しない。それで、日本人には意思がない。

 

>一億総懺悔ではない。

 

意思のあるとろに方法 (仕方) がある。Where there’s a will, there’s a way. 日本人には、意思 (will) がない。仕方が無いので、無為無策でいる。懺悔は、その適切な方法にはならない。

 

>責任者はいる」と、日本の体質を厳しく断じた。

 

それは、難しい判断ですね。意思のある人には、その責任もある。意思の無い人には、責任もない。だから、意思の無い日本人には、責任もない。この国がひっくり返った時にも、責任者は出なかった。日本人は、ちょうど死刑執行人のようなものである。人は死んでも、彼らは殺人罪に問われない。彼らには、殺意というものがないからである。

 

>岩上の「秘密保全法など、情報が開示されない社会になっていくのでは」という問いには、「秘密だから原因を説明しなくていいということにはならない」とし、アメリカのスペースシャトル事故では原因究明がされたことを挙げて、「軍事機密だから言えませんということにはならない」ことを紹介した。

 

そうですね。何事もアメリカさんが手本ですね。

 

>  終盤、岩上が日本に原発が作られた背景を質問すると、泉田知事は「原発はアメリカの世界戦略。

>結果、原子力の平和利用として始まったが、核兵器展開のための副産物だった」と述べ、「日本が主権国家として意思決定をできているか、疑わしい」と、日本の意思決定能力の欠落にも言及。

 

意思の無い人には、意思決定はできませんね。日本人は、優柔不断・意志薄弱に見えます。

 

>今後の議論として、「日本は事故の責任を現場に押し付けている。

 

そうですね。わが国の為政者は、意思の無い日本人に責任を押し付けて来ましたね。意思の無い日本人はアニマルと同様に、方法がない。だら、その苦しみも牛馬のようなものになります。

 肥田喜左衛門の著した <下田の歴史と史跡> には、責任に関する下のような事柄が記されています。

徳川5代将軍の治世、佐土原藩の御手船・日向丸は、江戸城西本丸の普請用として献上の栂 (つが) 材を積んで江戸に向かった。遠州灘で台風のため遭難、家臣の宰領達は自ら責を負って船と船員達を助けようと決意し、やむをえず御用材を海に投げ捨て、危うく船は転覆を免れ、下田港に漂着した。島津家の宰領河越太兵衛、河越久兵衛、成田小左衛は荷打ちの責を負い切腹する。これを知って船頭の権三郎も追腹を切り、ついで乗員の一同も、生きて帰るわけにはいかないと全員腹をかき切って果てた。この中には僅か15歳の見習い乗子も加わっている。鮮血に染まった真紅の遺体がつぎつぎに陸揚げされたときは、町の人々も顔色を失ったという。16人の遺体は、下田奉行所によって大安寺裏山で火葬され、同寺に手厚く葬られた。遺族の人たちにはこの切腹に免じて咎めはなかったが、切腹した乗組員の死後の帰葬は許されなかった。(引用終り)

 

>放射能の被害は全て住民にきてしまうことを考えた上で議論すべき」との見解を示した。

 

無哲学・能天気の人達には、’あるべき姿’ の内容がない。だから、自己の ‘あるべき姿’ を基準にした批判精神も持ち合わせていない。そして、常に ‘事の次第・成り行き’ の内容を語るにとどまっている。

現実の内容は、頭の外に存在する。それは、見ることができる。見ればわかる考える必要は無い。楽ちんである。

非現実 (考え) の内容は、頭の中にある。それは、見ることができない。ただの話である。その話の内容を理解するためには、文法に従って文章を理解しなくてはならない。それは、骨の折れる仕事である。だから、日本人は、理解を敬遠している。

その代わりに、忖度 (推察) を利用して、その場を処理している。しかし、理解と忖度は、似て非なるものであるがゆえに、非常に危険な処理の仕方である。

理解は、発言者の内容に関したことである。忖度は、聞き手の勝手な解釈である。だから、忖度は、現実直視になっていない。忖度の内容には、発言者に責任もない。議論にもならない。

 山本七平は「『空気』の研究」のなかで、そのことを指摘している。
「驚いたことに、『文藝春秋』昭和五十年八月号の『戦艦大和』でも、『全般の空気よりして、当時も今日も(大和の)特攻出撃は当然と思う』という発言が出てくる。この文章を読んでみると、大和の出撃を無謀とする人びとにはすべて、それを無謀と断ずるに至る細かいデータ、すなわち明確の根拠がある。だが一方、当然とする方の主張はそういったデータ乃至根拠は全くなく、その正当性の根拠は専ら『空気』なのである。最終的決定を下し、『そうせざるを得なくしている』力をもっているのは一に『空気』であって、それ以外にない。これは非常に興味深い事実である。」と書いています。

 

> (IWJ・安斎さや香)

> <引用終了> 

 

 

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閲覧数451 カテゴリアルバム コメント0 投稿日時2019/08/07 11:57
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