>日本人はなぜ「神社」に行くのか! >「願いは一つ、景気回復 神田明神、参拝者で大盛況」(~中略) >とあった。 > 最近、こういった「神社」に関する話題が多くなったと、思う。 >オタクも歴女も若い娘も神社に詣でる。
他に行くところもないでしょうからね。
>近年、こんな記事を良く目にするようになった。 >ここには、「商売繁盛」とか「幸せスポットを求めて」とか「アニメキャラの絵を見せたい」とかいったそんな単純な動機だけではないように思う。>彼らが、これらの目的を本当に叶えたいと考えたならば、なにもわざわざ旧態然とした社寺や、外国人から見れば明らかに宗教的場所である「神社」へ行く意味はないはずだ。
‘他力本願・神頼み’ の為ですね。
>まして、込み合う日に混雑する場所をわざわざ選んで、その行列に並び、作法にならってお辞儀をし、拝殿に向かって手を合わせるなんてことはあまり意味のないことになる。
参拝者は、良い気分・雰囲気を味わっているのでしょうね。求める者は、作法・形式の中にあります。
>(そんな時間があるなら、サラリーマンは日経新聞でも東洋経済でもいいから穴が開くほど読んでろ、という話になるわけだ。)
それは、無粋の人の言うことですね。
>しかし彼らは何のためらいもなく、また何の疑問を持つことなく、自然と「社寺」へと向かうのだ。
参拝者は、良い気分・雰囲気を味わいたいと願うからでしょうね。
> 日本人は「無宗教者」「無神論者」だと大多数の人が思っているが、実のところ、心のよりどころを求めるように「神社」や「寺」に足を運んでいるのである。
そうですね。日本人は、無哲学・能天気であっても、作法・形式に心を込めているのでしょうね。
> 不景気だから神頼み、などといっていたテレビコメンテーターがいたが、これは短絡的発想で、「日本」及び「日本人」が余りにも分かっていない。
神頼みばかりではない。お礼参りもあるでしょう。
>(こんな人たちが堂々と文化人とか知識人とか解説委員などと名乗っている。バカな話だ。)
文化人とか知識人とか解説委員も、無哲学・能天気ですからね。
>また、皇室への好意的関心も近年高まっているように感じる。
それは、序列信仰によるものでしょうね。日本人序列の中に自分を入れて想定することで、わが国の人間序列に対する自己の帰属意識が高まります。
> 新年恒例の一般参賀が2日、皇居・宮殿の東庭であり、天候にも恵まれ昨年より約3500人多い約7万9290人(皇宮警察本部調べ)が訪れ、即位20周年式典には3万人以上の人が集まった。 >とある。 >これは前回記事の宝島社全面広告のときの記事でも少し触れたが、現代日本人は、いま、大きな岐路に立たされ(政治的にも経済的にも国際情勢的にも)、将来への漠然たる不安を目の前にして、わたしたち日本人は何なのか、日本という国は何で成り立っているのかという原点に立ち帰って、自らを見つめ直そうとしている時期に差し掛かっているのではないだろうか。
そうですね。‘我々は何処から来たか’ ‘我々は何者であるか’ ‘我々はどこに向かうか’ などの哲学的命題を考える時期にさしかかっていますね。
>日本人としてのアイデンティティーは喪失しかけ、日本人が日本人であることの「矜持」も否定され、自分の国への帰属意識も薄れている、
無哲学・能天気では、矜持 (pride) はありませんね。あるのは、序列メンタリティばかりですね。序列が存在する社会では、上位の者と下位の者の間に自分の位置を見出して、社会に対する帰属意識を得ることができますね。
>まさに国としての「危機的」状況を向かえている。
序列の復活ではなく、無哲学・能天気の解消が大切ですね。
>まさしく日本人は混迷状態の中にあるのだ。
浮世と憂世の混迷状態の中にあります。
>いま、この反動が起こっている。>何かが違う、どこかがおかしいと、これまでの時代の風潮に疑問を持つ人々は戸惑いを感じ始めている。
そうですね。我々日本人は、’考える人’ になろうとしているのでしょうね。 全ての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではない。 非現実 (考え) の内容は、頭の中に存在する。それは、見ることができない。ただの話である。話が分かる為には、文法に従って文章を理解しなくてはならない。これは、骨の折れる作業である。だから、私たち日本人は、通常これをやらない。忖度 (推察) で行く。 理解と忖度は、似ていて非なるものである。だから、要注意である。理解は話し手の内容に関する事柄である。しかるに、忖度は、聞き手の勝手な解釈である。話し手には、何の責任もない。現実直視 (実験・観察) になっていない。独りよがりである。歌詠みのようなものである。日本人社会の混乱の基である。 山本七平は「『空気』の研究」のなかで、そのことを指摘しています。 「驚いたことに、『文藝春秋』昭和五十年八月号の『戦艦大和』でも、『全般の空気よりして、当時も今日も(大和の)特攻出撃は当然と思う』という発言が出てくる。この文章を読んでみると、大和の出撃を無謀とする人びとにはすべて、それを無謀と断ずるに至る細かいデータ、すなわち明確の根拠がある。だが一方、当然とする方の主張はそういったデータ乃至根拠は全くなく、その正当性の根拠は専ら『空気』なのである。最終的決定を下し、『そうせざるを得なくしている』力をもっているのは一に『空気』であって、それ以外にない。これは非常に興味深い事実である。」と書いている。 非現実 (考え) の内容を文章にするには、時制 (tense) というものが必要である。時制のある文章は、それぞれに独立した非現実の三世界 (過去・現在・未来) を表わすことができる。初めは各人ともにその内容は、白紙の状態にある。めいめいが自分なりに三世界の内容を埋めて行く。これが各人の個人的な世界観である。この非現実の内容を基準にして、現実の内容を批判すれば、その人は批判精神の持ち主になる。英文法には時制があるので、英米人には世界観がある。そして、彼らは、批判精神の持ち主となる。日本語文法には時制がなく、日本人には、世界観がない。だから、つかみどころのない浮世と憂世に住んでいる。日本人は、批判精神の持ち主にもならない。ここがおかしい。
>そんな不安感を拭うかのように、心のより所を求めて、日本の根本を成す場所へと、意識が向いているのではないだろか。 > 時代が混迷すればするほど、こうした意識は強くなっていくだろう。
そうですね。我々日本人は、’考える人’ になる必要がありますね。各人に哲学は、必要です。Everyone needs a philosophy.
> (~後略)
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