2019年09月02日(月) 

 

 

>330068 日本の学校は"考えない人間"を生み出している  >井垣義稀 ( 23 会社員 )  17/10/01 AM10 【印刷用へ】 

>多くの日本人は勘違いしているのだが、物を覚えるというのと、考えることができるというのは別のものだ。

>・覚える。 >・考える。 >この2つは似ているようで、まったく違う。 >覚えるというのは、世の中の原理原則を覚え、歴史を覚え、仕組みなどを記憶するというものだ。

 

そうですね。

 

>しかし、「覚える」というのは単なる基本であり、本来はそこからさらに飛躍しなければならない。 >それが「考える」というものだ。> 学校が物を覚えさせる場所であるというのは誰でも知っている。 >しかし、考えさせているのだろうか。

 

数々のご指摘は、いちいち尤もなことですね。しかし、考えることは難しい。

 

> 日本の教育は、構造的に「覚えさせても、考えさせない」という教育になっている。

 

そうですね。覚えさせるのは易しいが、考えさせるのは難しい。

だから、思考停止している日本人には、覚えさせる勉強ばかりが行われることになる。

 

全ての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではない。考え (非現実) の内容は、時制のある文章内容として表現される。

時制のある文章内容は、それぞれに独立した非現実の三世界 (過去・現在・未来) として表現される。

それぞれの世界は、人生のはじめは白紙の状態にある。しかし、誰しも白紙の状態は気になる所である。それで、各自がそれぞれに白紙の部分を自分の内容で埋めて行く。これが、各自の世界観 (哲学) である。世界観は、はてしなく展開が可能である。自己の世界観 (非現実) を基準にとって現実の内容を批判すれば、その人は批判精神を表したことになる。現実の内容を改革する方向を示したことになる。

 

英文法には、時制 (tense) というものがあって、英米人には世界観 (world view) がある。自己の世界観 (非現実) を基準にとって現実の内容を批判することにより、批判精神を示すことも可能である。だから、改革者に成れる。

日本語の文法には、時制がない。だから、日本人には世界観がなく、批判精神もなく、改革者にも成れない。そして、現実に流される。空気に酔いしれる。信頼されない。‘私は絶対に日本人を信用しない。昨日までの攘夷論者が今日は開港論者となり、昨日までの超国家主義者が今日は民主主義者となる。これを信用できるわけがない’  (あるアメリカの国務長官)

 

この思考停止の日本人の困難な状態を打開するために、他人の哲学を覚えさせることがわが国で行われている。すると、これが功を奏して数多くの ‘受け売り’ の専門家が大学から輩出することになる。彼らは受け売りに徹するという点で、終始一貫しています。

 山本七平は、<ある異常体験者の偏見>の中で、絶対化について述べています。「日本軍が勝ったとなればこれを絶対化し、ナチスがフランスを制圧したとなればこれを絶対化し、スターリンがベルリンを落としたとなればこれを絶対化し、マッカーサーが日本軍を破ったとなればこれを絶対化し、毛沢東が大陸を制圧したとなればこれを絶対化し、林彪が権力闘争に勝ったとなれば『毛語録』を絶対化し、、、、、、等々々。常に『勝った者、または勝ったと見なされたもの』を絶対化し続けてきた―――と言う点で、まことに一貫しているといえる。」と述べています。これが、言語構造的に ‘覚えさせても、考えさせない’ 教育の原理です。

 

>覚えさせても、考えさせないのである。 >「考える」という部分を軽視している。

 

そうですね。覚えさせることで頭が一杯になっていて、考えることが想定外になっているのでしょうね。経験もないから、その重要性も理解できない。

 

>なぜか。

 

それは、日本語による影響が大きいと思いますね。

 

>それは、学校が何のためにあるのかを考えれば理解できるかもしれない。

 

そうですね。それは、学校が無哲学・能天気の序列人間しか作ることができないからですね。

 

>学校とは、社会で通用する人間を作り出すところだからだ。

 

そうですね。序列人間の方が、序列社会ではより良く通用しますね。

 

>日本で「社会に通用する」というのは、サラリーマンになれるということでもある。

 

そうでしょうね。これは、わが国の教育の改革運動とは、縁のないことですね。

この国には、改革が必要ですね。意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there’s a will, there’s a way.  そして、意思 (will) は、未来時制の文章内容になって表現される。 だが、日本語文法には、時制というものがない。だから、日本人に意思がない。意思の無いところには、方法 (仕方) がない。仕方がないから、日本人は、無為無策でいる。そして、閉塞感にさいなまれる。

 カレル・ヴァン・ウォルフレン氏 (Karel van Wolferen) は、<日本/権力構造の謎> (The Enigma of Japanese Power) の<日本語文庫新版への序文>の中で下記の段落のように述べています。

、、、、、日本の政治を語るうえで欠かせない表現の一つである「仕方がない」という言葉を放逐することに、本書がいささかなりとも役立てばと願っている。本書は、本当の意味での政治参加をさせまいとして日本に広く作用する力について詳述している。この力こそは、個々人の、市民になろうとする決意と、有効に機能する民主主義を守ろうという意志を弱めるものである。日本に作用するこの力は、独裁政権があってそこからくり出されてくるのではない。それは日本の社会環境のあらゆる場所から発現する。、、、、、この力こそが、多くの日本人が身をおく境遇に対して唯一、適当な対応は「仕方がない」とうけいれることだと思わせるのである。(引用終わり)

我々日本人は、日本語と英語の両言語を良く学び、時制の重要性を十分に深く理解する必要がありますね。さすれば、自己の世界観と意思を表す文章を作ることができます。外国人からも我々の伝統的な考え方に理解がえられ、我我も信用が得られます。広く国際的な協力者を得て、未来社会の建設に着手することができます。かくして、人類の進歩に多大な貢献ができます。

日本人は、現実の内容しか文章として表現できません。だから、その正解は常に一つである。英米人の正解は非現実 (考え) の内容であり常に多数ある。その内容は、人様々である。

<日本はなぜ敗れるのか・敗因21か条> を著した山本七平の指摘する事例からも、大和民族自滅の過程は見て取れます。その一例を以下に掲げます。

私が戦った相手、アメリカ軍は、常に方法を変えてきた。あの手がだめならこれ、この手がだめならあれ、と。 、、、、、あれが日本軍なら、五十万をおくってだめなら百万を送り、百万を送ってだめなら二百万をおくる。そして極限まで来て自滅するとき「やるだけのことはやった、思い残すことはない」と言うのであろう。 、、、、、 これらの言葉の中には「あらゆる方法を探求し、可能な方法論のすべてを試みた」という意味はない。ただある一方法を一方向に、極限まで繰り返し、その繰り返しのための損害の量と、その損害を克服するため投じつづけた量と、それを投ずるために払った犠牲に自己満足し、それで力を出しきったとして自己を正当化しているということだけであろう。(引用終り)

英米人が日本語を話す時は、日本語に特有な閉塞感に囚われることがない。それは、考え方には、まだ他にもいくらでもあるからである。だから、’仕方がない’ と言って、へこたれることがない。我々も彼らのやり方を取り入れて議論をしよう。必ず良い考えが浮かんでくる。

 

(略)

 

 

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閲覧数54 カテゴリアルバム コメント0 投稿日時2019/09/02 23:26
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