2019年09月05日(木) 

 

 

 

 

>349037 善悪をつけたがる日本人  >匿名希望        19/09/04 PM00 【印刷用へ】 

>日本人はなにかにつけて  どちらかを悪にして、もう一方を善とする傾向があるように思う。

 

そうでなければ、勧善懲悪は成り立ちませんね。修身教育による徳目暗記の成果でしょうね。

 

>それは西洋文化から来ているものなのか、どちかを悪にしないと気がすまないよう。

 

日本人の考えによれば、この世 (現実) には唯一の正解があるということになるでしょうね。

 

> 言い換えれば自分は正しい、とし他者を否定する。

 

‘意見は、人様々である’ とは考えられていないようですね。個人主義的な見解はないようですね。

 

>この区別が分裂をおこす要因で反発が生まれ、争いや闘争へつながることになる。

 

そうですね。政治家も宗教家も党派争いを好みますね。

 

>しかし、善や悪を決め付けるのは法律や規則上の話で、どちらか一方しか存在しないことなどない。

 

そうですね。人の意見は、様々ですからね。

 

>テストや成績などで判断するような 学校教育がそうしているものなのだとしたら、すごく狭い世の中で生きてしまっている。

 

そうですね。学校教育は、現実の中だけで生きていますね。

 

>その思考に一刻でも早く気付き視野を広く捉えていくことで、よりわくわくした活力のある日々を送れるのではないかと思う。

 

そうですね。我々には、時制ある文章の作成が必要ですね。時制のある文章は、非現実 (考え) の内容を表すことができます。全ての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではない。

英文法には、時制 (tense) というものがある。時制のある文章の内容には、それぞれに独立した非現実 (考え) の三世界 (過去・現在・未来) がある。その内容は、はじめは白紙状態であるが、各自で自分なりに埋め合わせて世界観 (world view) を作る。その内容の展開には際限がない。自分の世界観を基準にとって現実の内容を批判すれば、批判精神の持ち主になれます。そして、現実改革の方向を示すことができます。

英文法には時制があって、英米人には世界観がある。だから、批判精神の持ち主にもなれます。日本語文法には時制がなくて、日本人には世界観がない。批判精神がなくて、時流に流されている。’つかみ所のない人間’ になって、人から信頼されません。

‘私は絶対に日本人を信用しない。昨日までの攘夷論者が今日は開港論者となり、昨日までの超国家主義者が今日は民主主義者となる。これを信用できるわけがない’  (あるアメリカの国務長官)

 

>そして、自分だけの世界ではなく、みんなで生きる世界を作っていけると思う。

 

そうですね。我々は、時制のある考え方を取り入れることにより未来社会の内容を語ることができます。その内容に対する多数の協力者を得て ‘あるべき姿’ の社会を建設することができます。

 

> 何かを善か悪にした瞬間、思考は止まると思い、日々追求していく。 

 

意思のある人間には、加害者意識があります。罪の意識があります。深い反省に陥ることもあります。過ちを繰り返さないと心から誓うことも可能です。聡明な人間になります。

意思の無い人間は、無哲学・能天気の状態で人生を過ごしています。自己の行為に対する他者からの批判は、自虐行為の強要と受け取りがちです。ですから、反省は無く、日々の進歩もありません。

 

 

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閲覧数516 カテゴリアルバム コメント0 投稿日時2019/09/05 13:39
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