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2019年10月24日(木) 
ここでも何度か書いたけど、僕は神奈川県藤沢市の伯父の家に下宿して渋谷の学校に通ってた。母親から「大学は伯父さんの家から通いなさい」って言われてたからね。幼い頃から言われてたんで全く抵抗無かった。

当時の下宿料は1万円、母親はこれを1年分まとめて12万円を4月に払ってた。これまた何度も書いたけど、伯父は下宿料なんて要らんって言ってたんだけど、それじゃご飯のお代わりがし辛いって言って1万で落ち着いた。伯父としては子供(僕からみると従兄弟)達は既に独立してたんで、夫婦2人っきりのところに若い僕が住む事は大歓迎だった。

あてがわれたのは2階の洋間で、従兄弟が使っていた部屋。勉強机もベッドもそのままだったから、持ち込んだのは布団くらいだった。

当時はまだラジオ・ラジカセの時代で、勿論テレビなんてあるはずも無く、居間に1台あるだけだった。当然アパート暮らししてる友人の殆どがテレビなんて持ってなかったし、有ったとしても白黒テレビだった。因みに僕は中学時代に買って貰ったラジオを愛用してた。

下宿から学校迄は東海道線(あちらでは湘南電車ってアナウンスしてた)と山手線を乗り継ぎ、学校に辿り着く迄に90分くらい掛かってたかな。だから朝イチの授業(1時限目)がある時は早朝6時起き!そして最終の5時限目が終わると冬は真っ暗!藤沢の下宿に辿り着くのは20時近くになってたな。だから2年生以降は出来る限り1時限と5時限は選択しない様にしてたな。

伯父は既に定年退職して子会社に再就職していて、毎月給料袋を伯母に渡してたし、ボーナスのときは伯母もちょっとおめかしして、夕飯もちょっぴり豪華だったの覚えてる。僕の実家は自営業だったから、そういったサラリーマン家庭の儀式というか習慣?が凄く不思議に見えたよ。

学年が進むにつれ、伯父も伯母も年齢の影響だろうな、食事が焼き魚等のあっさり系が殆どになり、食べ盛り?の僕にとってはかなり物足りなくなって来た。学校から帰って来て玄関開けると焼き魚の匂いが充満してて「ありゃ、今夜も魚かぁ…」な〜んてぼやく時が多くなって来た。

我慢も限界になると、当時目黒に住んでいた長姉に「にくくわせて!」っね電話してたなぁ。姉の家は目黒駅からバスに乗って20分ほど、終点?の碑文谷八幡神社の近くにあった。当時姉の家庭は娘(姪っ子)が小さく、姉の家で料理をご馳走になるかわりに姪っ子と遊んだり寝かしつけたりしてた。姉の家でリクエストどおりに肉をたらふく食べて満足してまた下宿先に戻って行った。

そんなこんなで入学当時はほぼ下宿先と学校の往復だったけど、学校に馴染んで友人が出来るにつれて遊びの部分が大きくなり、その後は友人の家や姉の家に泊まり歩く様になり、次第に下宿先のウエイトは低くなって行った。勿論ベースは下宿であり、勉強や生活の基本は下宿先だったけどね。

そして大学3年生までで履修科目はほぼ取得済みだったし、就職先は実家に戻ってと決めていたんで就職活動で実家に戻る事が多くなった。振り返ってみると4年生の時は年間で半分くらいしか下宿先に居なかった気がする。

就職で地元に帰った僕が、再び藤沢の伯父の家に行ったのは伯父の葬式の時だった。別に意識して行かなかったんじゃ無く、就職後の生活圏の中に伯父の家が入って無かっただけだ。

それからまたまた時は流れ、次に藤沢の地を訪れたのは伯母の葬式の時だった。

そんな藤沢の地だけど、明後日は母親系の従兄弟(従姉妹)会に行って来る。従兄弟の中ではねんしょうしゃ?の部類に入るし、一昨年、昨年は都合で欠席。

最近親戚が顔を合わせるのは葬式が殆どで、気が重い中でのご対面だったけど、宴での顔合わせなら気が楽で良いや。

閲覧数410 カテゴリ日記 コメント0 投稿日時2019/10/24 20:50
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