2020年05月29日(金) 

 

 

全ての意思は文章になる。文章にならないものは意思ではない。そして、意思には意味がある。恣意はバラバラな単語 (片言・小言・独り言) のままで存在し、文章にならない。だから、恣意には意味がない。恣意決定により失敗が生じても、説明責任を取ることはできない。日本人には、リーズン (理性・理由・適当) というものがないからである。我々日本人の盲目の判断は、けじめのない社会の根本原因となっている。  

司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調しています。

「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」 

 

>いわば日本の権力の中枢は空白なのである。

 

意思の無い人たちにとっては、権力は何の魅力も無い。それは、権力が方法 (仕方) として役立たないらである。

 

>この構造はとても根深く、政治主導のようなスローガンだけでは簡単には改革できないものがある。

 

そうですね。根が深いですね。機序 (mechanism) の解明がぜひとも必要ですね。

日本語は、’今・ここ’ のみを表す言葉になっている。だから、日本人は現実だけに執着していて、非現実 (考え) の内容には興味・期待を示さない。だから、無哲学・能天気の人間となっている。

日本語文法の枠内では、自己の意思を人に伝えようとする者もいないし、それをあえて求める者も存在しない。’上意’ とか ‘意のまま’ という時の ‘意’ は、日本人の場合は “意思’ ではなくて ‘恣意’ (私意・我儘・身勝手) である。そして、意思の自由は認められても、恣意の自由は何処の国でも認められていない。恣意の自由は ‘自由の履き違い’ として禁止されている。だから、無意思の日本人は、’不自由を常と思えば不足なし’ の状態になっている。だからスローガンだけでは政治主導は得られない。

 

>それというのも、日本では会社だろうが、公益法人だろうが、また町内会だろうが、どの組織や団体でも基本的には同じ構造が支配しているからだ。

 

全ての日本人は、日本語を話しますからね。言語は伝達の手段であるだけでなく、考える手段でもあるわけです。同じ枠組みで考えれば、同じ構造の社会が出来ることになりますね。

 

>つまり、上意下達でリーダーの決定に一元的にしたがうのではなく、かかわっているメンバーの同意を事前に得て決定するコンセンサス主義である。

 

俗にいう ‘コンセンサス・デモクラシィ’ ですね。個人主義の無い国の民主主義でしょうね。わが国では、個人の考えの内容に人々は注意を集中できていない。

 

>たとえ組織の中心者と言えども、事前にコンセンサスが得られていない決定は抵抗が強く通らない。

 

そうですね。これでは、首相と云えども国の舵取りには不自由しますね。

 

>最終的にはどんな決定も、関与しているメンバーの利害の調整とバランスを優先させたかたちで行われる。

 

利害のある者ばかりが関係者で、彼等ばかりをの利害を調整することになりますね。日本人には世界観 (world view) がないから、自己の利害に関係ないことには口出しをしない習慣があります。自己の利益にならない争いに巻き込まれる恐れがあるからであります。藪蛇になることは避けるのが得策です。

 

>もちろん現場に近い末端の組織であればあるほど、コンセンサス主義はうまく機能することが多い。

 

そうですね。コンセンサス主義は、実業 (現実) の世界ではうまく作用しますが、哲学 (非現実) の世界では無力でしょうね。’各人に哲学は必要である’ ということは、わが国では信じられていない。Everyone needs a philosophy. 

 

>上意下達による命令ではなく、メンバーの事前の了解と同意を得ながら意思決定が行われるため、メンバー全員の主体的な協力を容易に得ることができるからだ。 >これが工場などの生産現場で発揮されるとき、現場で製品の改良がどんどん進むため、消費者の好みの変化に迅速に対応できる商品開発が進む。 >これが日本の競争力の強さを支える要因のひとつでもあった。

 

そうですね。目先・手先の改善は迅速に進みましたね。だが、日本人の政治音痴は治らない。

 

>しかし、同じ原理が組織の中枢で発揮されるとき、現場や末端とはまったく異なった結果となる。

 

そうですね。中枢の ’あるべき姿’ (非現実) は哲学で、現場は実学 (技術) ですからね。頭の中の内容 (非現実) と、頭の外の内容 (現実) との差がありますね。

 

 

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閲覧数316 カテゴリアルバム コメント0 投稿日時2020/05/29 05:54
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