>永井俊哉ドットコム (略) >中根千枝は、『タテ社会の人間関係』の中で、日本の社会をタテ社会として特徴付け、欧米型のヨコ社会と対比した。 >「あなたの職業は?」と聞かれて、例えば「システム・エンジニアです」と答える社会はヨコ社会で、「松下の社員です」と答える社会はタテ社会である。>日本では、スペシャリストが複数の会社を相手に才能を売り歩くという雇用形態よりも、一つの会社に定年まで所属して、様々なポジションをこなすという雇用形態のほうが主流である。
そうですね。横への動きは不自由ですが、縦の動きは可能です。これは日本人の序列メンタリティのなせる業でしょうね。
>少なくともこの本が出版された1977年ごろまでは、日本は完全なタテ社会だった。
日本の国は序列社会、日本人は序列人間である。
>中根が注意を促しているように、タテ社会にヨコの関係がないわけではない。 >「場」による集団内部に限定されたヨコの関係ならある。 >だから、中根が言う「タテ社会」とは、「ウチ」と「ソト」の区別にこだわる「ウチ社会」である。
そうですね。韓国人は絶対敬語を使うが、日本人は相対敬語を使う。相対敬語を使うと内外を区別する必要がでてきますね。
>「ウチ社会」は、「ウチ」という言葉が示しているように、家をモデルにした社会である。
八紘一宇の精神ですね。
>どの文化でも、家族という集団は、利益追求のための機能的集団(ゲゼルシャフト)ではなくて、愛の共同体(ゲマインシャフト)である。>ただ、多くの文化では、子供たちは、ゲマインシャフトから追い出されて、ゲゼルシャフトの中で大人として成熟していくのに対して、日本人は、いつまでもゲマインシャフトの温情主義的なぬくもりの中に留まろうとする。>戦前の日本政府は、国“家”を、天皇を家長とする家族に喩えた。
序列社会の始動ですね。
>戦後、国家のイデオロギーが崩壊すると、日本人は、会社に家庭的なゲマインシャフトを求めた。>そして、人見知りする幼児のように、日本人は、共同体内部では親密な人間関係を築きながら、よそ者に対しては、引っ込み思案な態度を示す。
それは馴れ合いですね。 馴れ合いとは、真の意味での検討や意見の交換などをせず、お互いに「なあ、いいだろう」ぐらいの話し合いで全てを済ませること。 よそ者については、自分との上下関係が付けにくいですからね。つい、よそよそしくなる。
ルース・ベネディクトは、『菊と刀(The Chrysanthemum And the Sword)』で、恩を着せられることによる義理が、日本人の意識を強く制約していることを指摘した。
義理は序列関係から生じる義務ですからね。義理が廃れば日本人の世界は闇になりますから強く制約されますね。
>こうした互酬性原理の優位は、日本に限らず、プリミティブな社会では広く見られる。>個体発生と系統発生とを対応させるならば、互酬性社会は、母子の間の、水平的な交換関係を機軸とする鏡像段階に相当する。>この段階は、父という超越的第三者(コミュニケーション・メディア)によって、垂直的に交換が媒介されていないという意味で、プリミティブなのである。
無哲学・能天気の状態では、垂直的な交換は無理ですね。
>『菊と刀』は、日本の文化と欧米の文化の違いを「恥の文化」と「罪の文化」の違いとして説明したことでも有名である。
そうですね。意思の無い日本人には罪がない。だが、序列社会には恥がある。
>日本の経営者が「世間をお騒がせして、まことに申し訳ありません」と言って辞職するのは、日本の文化が恥の文化だからである。>罪の文化の視点からすれば、罪がないのなら辞職する必要はないということになるが、恥の文化の視点からすれば、世間を騒がせて恥ずかしいということが、引っ込む口実として認められる。
罪のない社会においては、’勝負あった’ でひっこむのである。負けることは恥ですね。
>恥とは、他者という鏡に映し出された醜い自我に対する不安の感情である。 >その際、醜いかどうかに普遍的な基準はない。
それは、その時の気分・雰囲気・感情で決まりますね。
>周りが色白のお嬢さんばかりなら、一人だけガングロ・ヤマンバでいることは恥ずかしいことだし、周りが不良少女ばかりならば、一人だけ良い子ぶりっ子でいることは恥ずかしい。>このように、恥は、鏡像的な他者との相対的な関係で決まる、浮き上がることを恐れる感情に過ぎない。
そうですね。没個性的なら安堵しますね。
>これに対して、罪は、超越的で普遍的な規範に違反したときの意識である。
罪は個人的な感情でしょうね。罪の意識に覚醒すれば、その人は入信することになる。 日本人には意思がないが、西洋人には意思がある。だから、受動もあれば能動もある。被害者意識のみならず加害者意識もある。加害者意識が高ずると罪の意識になる。魂の救済が必要になる。そこで、キリスト教がこれを助ける。
>罪の文化の人は、もし自分が正しいことをしていると確信しているならば、周囲から笑われても、恥ずかしいとは思わずに、むしろ周囲が無知なのだと考える。
そうですね。各人に哲学は必要ですね。Everyone needs a philosophy.
>日本人には、唯一神から与えられた、超越的で普遍的な規範はない。
日本人には世界観がないですからね。何物にも侵されない世界を自己の脳裏に構築することは無理ですね。
>だから、しばしば主義主張に節操がない。
そうですね。 あるアメリカの国務長官曰く、‘私は絶対に日本人を信用しない。昨日までの攘夷論者が今日は開港論者となり、昨日までの超国家主義者が今日は民主主義者となる。これを信用できるわけがない。’
>かつて鬼畜米英を叫んでいた日本人が、一転して親米的になったのを見て、マッカーサーは、日本人の精神年齢が12歳だと言ったが、このように、罪の文化から見れば、恥の文化は幼児的に見える。
変わり身の早さは日本人の得意芸ですからね。目先・手先の事柄に神経を集中させていますね。現実があって非現実 (考え) の無い人間の特徴ですね。 言語は伝達の手段であるばかりでなく、思考の重要な手段でもあります。ですから我々の考えの疎かな所は日本語のせいであることもあります。 非現実 (考え) の内容は、英語の時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観と言われている。これらの三世界は時制により構文が異なるので、同次元で語ることができない。それで独立した三世界になっている。この規則を the sequence of tenses (時制の一致) と呼ぶ。日本人の初学者が英論文を書くときに難渋する規則である。 世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を自分自身で埋めて行く。自己の 'あるべき姿' (things as they should be) もこの中にある。来るべき世界の内容を語ることは、時代を先取りすることである。 自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実 (things as they are) の内容を批判 (縦並びの比較) すれば、批判精神 (critical thinking) の持ち主になれる。批判精神のない人の文章は、ただ現実の内容の垂れ流しになる。全ての事柄は他人事になる。これは子供のようなものである。日本語の文法には時制がない。だから、日本人には世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。残念ながらマッカーサ元帥の '日本人12歳説' を否定できる人はいない。 意見は比較の問題である。現実の内容と非現実の内容があれば批判精神が発揮できる。英米人の意見はこれである。これは縦並びの比較ということができる。建設的である。進歩が期待できる。希望が持てる。現実の内容だけであれば、その比較は '現実' 対 '現実' の上下判断 (横並びの比較) になり、'どっちもどっちだ' がある。無力感に苛まれる。この種の比較は復讐に復讐を重ねる民族同士の争いの原動力にもなっていて進歩が期待できない。 非現実の内容は人様々である。非現実の内容がなければあるのは現実だけで、その正解は一つである。日本人がともすれば異口同音の内容を語るのはこのためである。 わが国のマスコミも現実の内容をただ垂れ流す。個人の価値判断が抜け落ちている。現実の正解はただ一つであるから、どんぐりの背比べで個性がない。それで、日本人は個人主義が何であるかを理解することが難しい。本人にも相手にも何を考えているのかわからない。だから、誰からも信頼されない。世界観に基づく協力者が得られないので社会に貢献する度合いが限られる。 イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。 何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)
>アリストテレスも、『ニコマコス倫理学』の中で、恥は「若年者にふさわしい感情」だと書いている。 >2. 「甘え」の構造 >日本文化の幼児性を、もっと直截に「甘え」という言葉で指摘したのが、土居健郎の『「甘え」の構造』である。 >もちろん、甘えるという現象は、日本人だけに見られるわけではない。>どこの国でも、幼児は母親に甘えるものだ。
そうですね。
>だが、日本では、幼児がいつまでも母親に甘え続けることができるのに対して、多くの国では、子供たちは、父親によって、精神的な乳離れを強要される。
アメリカにおいては、‘Independent!’ (自主独立) という言葉は子供に対する褒め言葉になっていますね。わが国では、大の男が大衆の前で ‘甘えさせていただく’ と申し開きをする。皆の衆に自分が大目に見ていただくことである。
>では、なぜ日本人は、母親に甘え続けることが許されるのだろうか。>なぜ、日本の文化は幼児的な段階に留まっているのか。>それは、日本では、母権社会から父権社会への転換である男性革命が、きわめて不十分であったからである。
女性は哲学に疎遠である。哲学には家庭の内容が含まれていない。
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