2021年09月20日(月) 

 

>新しい時代に生きる人へ >「常識」とは異なった新しい価値観を考え続ける。心理学、人間関係、物事の考え方まで発信しています。

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>「あなたのためを思って」は嘘だから信じない方がいい   >BY 新しい時代に生きる人へ · 2017年6月16日

>「あなたのためを思って」おそらく誰もが聞いたことのあるフレーズだと思う。 >大抵の場合、自分の思い通りになって欲しい時に使われる言葉だ。 >「わたし」がなってほしい「あなた」

 

そうですね。   

 

>「あなたに従順でいてもらったら、私が楽できる」 >「お前に辞められたら、決断できていない自分を認められないから、辞めないでほしい」 >「わたしの思い通りになってほしい」 >それが本音だったとしても、それをそのまま言ってしまうのはあまりに体裁が悪い。  

 

見栄と外聞の世の中ですね。

 

>どこか自己中心的な考えだし、さすがに自己中だなんて思われたくない。>だから「あなたの為を思った」事にする。>あるいは本当にそうだと思い込む。  

 

似たような発言は数々ありますね。’みんなの為を思って’、’国の為を思って’ など沢山ありますね    。

 

>「あなたのためを思って」という言葉は、とんでもない嘘である。 >なぜなら「あなたのためを思って」と言いながら、その人が考えているのは「あなた」ではなく「わたし」だからだ。 >自分のためなのに、あなたの為という聞こえの良い嘘を被せている。 

 

‘みんなの為’、’国の為’ なども聞こえが良いですね。散々聞かせられました。   

 

>「あなた」に自分の想像の範囲内で留まって欲しいという一種のエゴなのだ。>あなたが何かに挑戦しようとするとき、自分が想像していたあなたからはみ出しそうになる時、「わたし」の想像の枠に押し戻す。>「そんなのはあなたじゃないよ」「あなたはこの程度の人間なんだよ」そうやって洗脳することによって、あなたは「わたし」にとって居心地のいい場所に留まってくれる。>もちろん、「わたし」のために。

 

それは希望的観測におわりますね。    

 

>人の自立を阻害する親や先生  >この便利な言葉は、親や先生、上司と呼ばれる人たちが、自分の自己中心性を隠すために使用されることが多いと思われる。 >おそらく、「あなたのためを」と言われた人経験を持つ人は、自分より偉いとされる人に言われてきたのではないだろうか? 

 

軍国主義者も’自己の為’ とはわかなかった。’国の為だ’ と言った。本当にそうだと彼らは思い込んでいたのでしょうね。

 

>親や先生という教育する立場にある人が、この言葉を好んで使ってしまうのが実際のところだ。 >本来、人を教育する立場にある人の目的とは「自立」である。(ちなみにここでいう自立とは、経済的な自立ではなく、自分のことを自分で考えて決められるという精神的な意味での自立だ)

 

そうですね。各人に哲学は必要である。Everyone needs a philosophy. 

言語は伝達の手段であるばかりでなく、思考の重要な手段でもあります。ですから我々の考えの疎かな所は日本語のせいであることもあります。   

非現実 (考え) の内容は、英語の時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観と言われている。これらの三世界は時制により構文が異なるので、同次元で語ることができない。それで独立した三世界になっている。この規則を the sequence of tenses (時制の一致) と呼ぶ。日本人の初学者が英論文を書くときに難渋する規則である。 

世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を自分自身で埋めて行く。自己の 'あるべき姿' (things as they should be) もこの中にある。来るべき世界の内容を語ることは、時代を先取りすることである。

自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実 (things as they are) の内容を批判 (縦並びの比較) すれば、批判精神 (critical thinking) の持ち主になれる。批判精神のない人の文章は、ただ現実の内容の垂れ流しになる。全ての事柄は他人事になる。これは子供のようなものである。日本語の文法には時制がない。だから、日本人には世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。残念ながらマッカーサ元帥の '日本人12歳説' を否定できる人はいない。  

意見は比較の問題である。現実の内容と非現実の内容があれば批判精神が発揮できる。英米人の意見はこれである。これは縦並びの比較ということができる。建設的である。進歩が期待できる。希望が持てる。現実の内容だけであれば、その比較は '現実' 対 '現実' の上下判断 (横並びの比較) になり、'どっちもどっちだ' がある。無力感に苛まれる。この種の比較は復讐に復讐を重ねる民族同士の争いの原動力にもなっていて進歩が期待できない。

非現実の内容は人様々である。非現実の内容がなければあるのは現実だけで、その正解は一つである。日本人がともすれば異口同音の内容を語るのはこのためである。     

わが国のマスコミも現実の内容をただ垂れ流す。個人の価値判断が抜け落ちている。現実の正解はただ一つであるから、どんぐりの背比べで個性がない。それで、日本人は個人主義が何であるかを理解することが難しい。本人にも相手にも何を考えているのかわからない。だから、誰からも信頼されない。世界観に基づく協力者が得られないので社会に貢献する度合いが限られる。  

イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。   

何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)   

 

>だが、自立を目的とするはずの親や教師というものは極端に「自立」を嫌う。 >もちろん、口では「自立」してほしいと言うのだが、自立して対等な人間になってしまうことを恐れているのだ。 

 

‘お前と俺’ の社会になったら困るのでしょうね。  

日本語には階称 (言葉遣い: hierarchy) というものがある。だから日本語を発想する場合には、‘上と見るか・下と見るか’ の世俗的な判断が欠かせない。上下判断 (序列判断) には、通常、勝負の成績が用いられる。近年では偏差値なども都合の良い資料として利用されている。わが国が学歴社会であるというのも、実は序列社会の言い換えに過ぎない。だから、わが国の学歴社会は学問の発展には何ら貢献していない。   

日本人の礼儀作法も、序列作法に基づいている。だから、序列社会の外に出たら序列なきところに礼儀なしになる。礼儀正しい日本人になる為には、世俗的な序列順位を心得ている必要がある。'人を見損なってはいけない' という想いが強迫観念の域に達していて、人々は堅ぐるしい日常生活を送っている。こうした観念は天皇制・家元制度・やくざの一家の構造にまでつながっている。

日本人は序列の存在を知れば、それが一も二も無く貴いものであると信ずる共通の序列メンタリティを有している。これは序列信仰の域に達している。日本人の尊敬は、序列社会の序列順位の単なる表現に過ぎないため、個人的精神的な意味がない。下々の衆は上々の衆の祟り (仕返し) を恐れて神妙にしている。上々が無哲学・能天気である事については、下々にとって何ら気になることではない。だから、日本人の尊敬には浅薄さが付きまとう。   

 

>対等な人間になったら相手にされないかもしれない。>今までは根拠がなくても威張れたし、言うことを聞いてもらえたけど、自分が同じ人間だと言うことがバレてしまったら、相手にされなくなってしまう。 >今まで信じさせていたその力関係が崩れてしまう。 >実際、権威が無くなった途端に見向きもされなくなるような人は沢山いるだろう。 >だからその恐れはあながち的外れではない。 >もちろん、教育者としては、大間違いだと思うが。  

 

この世から大間違いをなくしましょう。   

 

>あなたのためを思っては大嘘   >あなたのためを本当に思っている人は「あなたのためを思って」なんて押しつけがましく言わない。  

 

そうですね。   

 

>もしあなたのためを思って言われたことに従ったとしても、その人があなたの代わりに生きてくれることはない。 >上手くいけば「あのときのアドバイスが良かったから」と自慢げに良い、失敗したら「お前の努力が足りなかった」と人格批判に走るだけだ。 >だから、この言葉が出てきたときは警戒した方が良い。 

 

その発言は単なる暇つぶしに過ぎないですね。    

 

>「あなたを何らかの方向へコントロールしたいと思っている」ことが考えれるからだ。 >冷静に聞くと「この人は、現状に留まって欲しいから、挑戦するリスクをやたら強調するのか」とか「この人にとって自分はこんなレッテルを貼られているのか」といったように、自然と相手の思惑に気付くことが出来る。>自分の決断を大事にしてほしい。  

 

そうですね。個人主義が大切ですね。   

 

>自分の行動の責任を取れるのは、自分以外に誰もいないのだから。  

 

そうですね。だが、日本人には意思 (will) がない。意思は英語の未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には時制 (tense) というものがないので、日本人には意思がない。

 

意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there's a will, there's a way. 日本人には意思がない。仕方がないので無為無策でいる。優柔不断・意志薄弱に見える。能動がなくて受動ばかりの生活を送っている。だから戦時中は、玉砕するまで戦い抜いた日本兵であった。困った時には '他力本願・神頼み' になる。生きる力 (vitality) が不足している。

 

 ' やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かず' 山本五十六 (やまもと いそろく)

どうやら '指示待ち人間' ができあがったようですね。   

 

日本人には意思がない。だから意思決定はできない。意思決定が必要な時は、恣意決定に頼ることになる。つまり、事の次第・自然の成り行きで決着をはかる。このやり方は、アニマルも同じである。

 

恣意 (私意・我儘・身勝手) はバラバラな単語のままで存在するから文章にならない。だから、意味というものがない。行為・言動の本人にその説明責任はとれない。  

 

日本人はなれ合っている。なれ合いとは、真の意味での検討や意見の交換などをせず、お互いに「なあ、いいだろう」ぐらいの話し合いで全てを済ませること。日本人には、恣意疎通 (阿吽の呼吸・つうかあの仲) があって、意思疎通 (相互理解) がない。恣意 (腹) の探り合い (談合) があって、意見の交換 (議論・対話) がない。恣意決定 (盲目の判断) があって、意思決定 (理性判断) がない。だから、日本人の責任者は説明責任が取れない。未来は一寸先が闇である。危険が一杯である。だから、お変わりのないことが何よりなことである。ノー・アイディアで暮らすことになる。

 

自由とは、意思の自由の事である。だが、日本人には意思がない。恣意 (私意・我儘・身勝手) の自由は何処の国でも認められていない。恣意の自由は ‘自由のはき違え’ になって許されない。だから、’不自由を常と思えば不足なし’ となって、日本人の生活は以前の生活と変わることがない。  

 

日本人には意思がない。意思の無い人には責任がない。ちょうど死刑執行人のようなものである。人は死んでも彼らは殺人罪に問われない。彼らには殺意という意思がないからである。意思の無い世界には、西洋流の責任も無い。イザヤ・ベンダサン=山本七平訳の<日本教について>の中で、日本語の責任について述べられています。

‘、、、、、「責任」という日本語には、「応答の義務を負う=責任(レスポンシビリティ)」という意味は全くないのみならず、「私の責任だ」といえば逆に「応答の義務がなくなる」のです。、、、、’ (引用終り)

‘兎角、この世は無責任’ という事か。

 

自己の意思を表せば、その人は当事者・関係者になる。表さなければ傍観者にとどまる。意思表示の無い日本人は常に傍観者にとどまっていて、孤高の人になっている。孤立無援になりやすい。わが国は、世界の中にあって、世界に属していない蚊帳の外。

 

日本人には罪がない。意思の無い人には罪がない。意思の無い人は能動がなくて、受動だけの生活をする。被害者意識はあっても、加害者意識がない。だから日本人は加害者意識が高じて体験する罪悪感に苛まれることがない。これはアニマルも同じです。だから、日本人には罪がない。罪の意識におびえる人たちが日本人に謝罪を勧めたらどうなるか。それは自虐行為の勧めと受け取られて恨みを買う事必定である。 日本人は罪を語らない宗教である神道・仏教の周辺に集まっている。とにかく、罪の匂いのするものは日本人の体質に合わない。それは陰気のもとになる。だから日本人は罪の話は嫌いです。罪の意識のない人には、病める魂もなく、その救済も必要としない。だから、贖罪の為の宗教 (キリスト教) も、わが国では力を持つに至らなかった。

 

戦後の占領軍のWGIP ( War Guilt Information Program: 戦争についての罪悪感を日本人の心に植え付けるための宣伝計画) という奇特な計画も見事に失敗しました。これは、アフガンに民主主義を植え付けようとするアメリカ人のようなものか。日本人に対する罪悪感の宣伝はカエルの面に小便の状態になったのです。 

 

各人に哲学は必要である。Everyone needs a philosophy. 欧米人は哲学と意思により人間の行動を説明する。日本人には、哲学と意思がないので、人の行為を ‘建前と本音’ を使って説明する。建前は ‘口実・言い訳・言い逃れ’ である。本音は、’私意・我儘・身勝手 である。だから、現実の中に行為がうずもれてしまい低俗な感じは避けられない。意思は未来時制の文章内容になるので意味があるが、恣意はバラバラの単語 (片言・小言・独り言) のままで存在するので意味がない。 

 

 

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閲覧数464 カテゴリアルバム コメント0 投稿日時2021/09/20 14:51
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