2021年09月27日(月) 

 

 

 

 

>「ひどいフェイク!」=河野氏、フジ司会者に抗議―自民総裁選   >LINE共有ボタン  >2021年9月26日 18時14分 時事通信社

 (略)

> 「ひどいフェイクニュースですよ」。

> 自民党総裁選に出馬した河野太郎規制改革担当相が26日のフジテレビの番組で、最終盤の動きに関する司会者の解説に割り込み、こう抗議する一幕があった。 > 司会者は番組冒頭、上位2人による決選投票では岸田文雄前政調会長より高市早苗前総務相と争った方が河野氏の勝利につながりやすいとの計算から、河野陣営の中で票の一部を最初の投票で高市氏に振り分けようとする動きが出ていると説明し始めた。 > これに対し、河野氏は発言を遮り、「するわけないですよ、そんなこと。冗談はよしてくださいよ」などと声を荒らげた。 

 

時事通信社では、’河野氏が声を荒げたか、それとも荒げなかったか’ が重要な問題になるのですかね。候補者の政策の重要な点に絞って読者に解説すべきでしょうね。行儀作法に問題がすり替わる所が情けない。

我が国の政治・政治家を語る時に、日本人にその内容が分かりやすければそれで良いというものではない。各政治家の政治哲学に焦点を絞りこんで掘り下げるのが通信社の使命である。政治音痴の人間に対して啓蒙的である事が最重要ですね。

ただ、容易に相手に受け入れられることのみを旨とすべきではない。通信社は、政治屋よりも政治家、処世術 (現実) よりも哲学 (非現実) の内容を重んじなくてはならない。        

非現実の内容は人様々である。非現実の内容がなければあるのは現実だけで、その正解は一つである。日本人がともすれば異口同音の内容を語るのはこのためである。    

わが国のマスコミも現実の内容をただ垂れ流す。個人の価値判断が抜け落ちている。現実の正解はただ一つであるから、どんぐりの背比べで個性がない。それで、日本人は個人主義が何であるかを理解することが難しい。本人にも相手にも何を考えているのかわからない。だから、誰からも信頼されない。世界観に基づく協力者が得られないので社会に貢献する度合いが限られる。  

イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。   

何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)   

 

国民が思考を停止している国にはどのような特徴があるでしょうかね。

 'どのような状況にも普遍的に通用する真理や法則、基本概念や倫理がありうるという考え方が、日本にはほとんど存在しない。' (カレル・ヴァン・ウォルフレン)    

‘周りの影響を受けずに、真に独立した考えができる知識人がいない。’ ( グレゴリー・クラーク)

 '日本人は政治にそれほど関心がないのに政府に依存し、国からの発言を待っている。'  (ウスビ・サコ)   

 

言語は伝達の手段であるばかりでなく、思考の重要な手段でもあります。ですから我々の考えの疎かな所は日本語のせいであることもあります。   

非現実 (考え) の内容は、英語の時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観と言われている。これらの三世界は時制により構文が異なるので、同次元で語ることができない。それで独立した三世界になっている。この規則を the sequence of tenses (時制の一致) と呼ぶ。日本人の初学者が英論文を書くときに難渋する規則である。 

世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を自分自身で埋めて行く。自己の 'あるべき姿' (things as they should be) もこの中にある。来るべき世界の内容を語ることは、時代を先取りすることである。

自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実 (things as they are) の内容を批判 (縦並びの比較) すれば、批判精神 (critical thinking) の持ち主になれる。批判精神のない人の文章は、ただ現実の内容の垂れ流しになる。全ての事柄は他人事になる。これは子供のようなものである。日本人も英米人も子供の時には非現実 (考え) の内容というものがない。だから ‘話を告げる’ (to tell a story) ということは、’作り話をする’ とか ‘嘘を吐く’ という風に受け取られて悪い子供とされている。この判定がわが国では一生涯続く。

日本語の文法には時制がない。だから、日本人には世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。残念ながらマッカーサ元帥の '日本人12歳説' を否定できる人はいない。  

意見は比較の問題である。現実の内容と非現実の内容があれば批判精神が発揮できる。英米人の意見はこれである。これは縦並びの比較ということができる。建設的である。進歩が期待できる。希望が持てる。現実の内容だけであれば、その比較は '現実' 対 '現実' の上下判断 (横並びの比較) になり、'どっちもどっちだ' がある。無力感に苛まれる。この種の比較は復讐に復讐を重ねる民族同士の争いの原動力にもなっていて進歩が期待できない。

 

 

 

 

 

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閲覧数371 カテゴリアルバム コメント0 投稿日時2021/09/27 13:40
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