2021年11月07日(日) 

 

 

>372140        なぜ日本はブッダとイエスをイジれるのか  >森浩平 ( 29 会社員 )           21/11/07 AM00 【印刷用へ】

>仏教と神道では「信じる」ことはさほど重要ではない   >文化庁が毎年『宗教年鑑』という報告書を出している。 >2018年度版によれば、神道系の信者総数は約8616万人、仏教系は約8533万人であり、合わせて1億7000万人を超える。 >総務省の推計では、日本の総人口は約1億2631万人(2019年1月1日現在)であり、神道と仏教の信者が人口を超えてしまう現象が起きている。  

 

通常、一人の日本人は神道と仏教の掛け持ちですね。’神様・仏様’ とならべて願い事をする。   

そこで子供が生まれた時には宮参りをする、結婚式はキリスト教会で挙げる、葬儀は葬式仏教のご厄介になるということになる。全ての行為は、気分・雰囲気の良さで決められている。内容の無いところが浮世の習いである。 

 

>これには、各宗教団体による報告数をそのまま掲載する『宗教年鑑』の調査法にも問題がある。 >だが、仮に信者数を半分に割り引いたとしても、日本人の2人に1人以上がなんらかの宗教の信者であるというのは、あまりに実感とかけ離れているのではないだろうか。 >私見では、「イエスを救世主と信じる」というのと同じような意味での信仰は、日本の宗教文化にはなじまない。

 

そうですね。

'どのような状況にも普遍的に通用する真理や法則、基本概念や倫理がありうるという考え方が、日本にはほとんど存在しない。' (カレル・ヴァン・ウォルフレン)    

‘周りの影響を受けずに、真に独立した考えができる知識人がいない。’ ( グレゴリー・クラーク)

‘日本人は政治にそれほど関心がないのに政府に依存し、国からの発言を待っている。’  (ウスビ・サコ)   

 

>日本の伝統宗教である仏教と神道では、そもそも「信じる」ことはそれほど重要ではないからだ。

 

そうですね。日本人の宗教は、儀式 (作法) があって教義 (教え) がない。無哲学・能天気の人間に相応しい宗教です。       

 

>神道には信じるべき明確な“内容”がない  >たとえば神道国際学会のウェブサイトには「神道とは何か?」を説明するページがある。 >要点を抜き書きすると、下記の通りだ。 >・神道は古代から現代まで続く土着の民族宗教であり、アニミズム的な自然崇拝の性格が強い。 >・各地にさまざまな慣習はあるが、宗教的体系はない。 >・教祖もおらず、聖書のような教典もない。 >・神道に神学はなく、氏子は信者ではない。 >要するに、神道は信じるか信じないかという以前に、そもそも信じるべき明確な内容を有していない。 

 

そうですね。信じるべき内容は考え (非現実) の内容ですからね。見れども見えない。これは日本人にとって嘘である証拠になる。   

 

>だからこそ、明治維新以降の王政復古では、「神道は宗教ではない」というレトリックが可能になったのだ。>そして現在でも、ある神社の信者数(=氏子)は、その地域の住民数として報告されるのである。

 

そうですね。我々の地区でも氏子の数は住民の数と同じですね。     

 

>仏教の場合、神道よりも確固とした教学の伝統がある。 >大ざっぱに言えば、仏教が日本に伝来したことで、それまであった漠然とした自然崇拝があらためて神道という独特の宗教観として、それなりに形成された。 >しかし、高い抽象度と論理性を備えた仏教の教義が一般民衆に浸透しているかというと、それはまた別の話だ。 

 

そうですね。仏教はインド哲学に基づいていますからね。印欧語族の文法が必要ですね。      

 

>曹洞宗は定期的に自宗の調査を行っているが、そこから見えてくるのは、先祖供養という本来は仏教とは無縁の実践の広がりである。

 

祖先供養は中国人の伝統でしょうね。仏教が中国大陸を通過する時に祖先供養を吸収したのでしょう。私はインドを訪問して、インド人には墓がないのに驚きました。死体は(だびに付して) 川に流していました。          

 

>仏教信徒が参加する「行事」は先祖供養と草むしり  >例えば2012年の『曹洞宗檀信徒意識調査報告書』では、寺で行われる各種の行事への参加率が明らかにされている。  >盂蘭盆会(59.3%)、春と秋のお彼岸(それぞれ43.1%と40.1%)といった先祖供養には、多くの信徒が参加している。 >また、草取り・掃除(34.1%)や除夜の鐘(22.6%)といったイベントも、そこそこの参加率である。  

 

そうでしょうね。わが国の風物詩になりますね。   

 

>だが、釈尊降誕会(23.5%)、涅槃会(18.6%)、成道会(9.6%)といった信仰と深く関わる行事、さらには坐禅会(8.8%)という曹洞宗の教えの根幹に関わる行事の参加率は低調なのである。 >要するに、寺の行事にかかわる動機は先祖供養が大半であり、報告書の表現を借りれば、信徒は「それを習慣として位置づけている」のである。 >曹洞宗の掲げる葬儀の意味が浸透していない   

 

日本人には輪廻の苦しみがない。だから、その苦しみから救われる涅槃の必要もありません。日本人は無哲学・能天気であるから無我の境地になっている。      

 

>さらに、相澤秀生・川又俊則(編)『岐路に立つ仏教寺院』(法藏館)は、2015年の調査データも踏まえながら、現代仏教の実態を描き出している。 >ここでは、日本人が最も仏教と関わる局面である葬式について見てみよう。 

 

我が国の仏教は葬式仏教として知られていますからね。   

 

>「葬儀はなんのために行うのか」を信徒に尋ねたところ、「故人を成仏させるため」(58.3%)という回答が最も多く、その次に「遺族が故人を弔うため」(30.2%)が多い。>一方、「残された者の心の救済」「故人の死を世間に知らせるため」「慣例的な人生儀礼だから」といった回答は10%に満たない(第4章「人口減少社会における葬儀と寺檀関係」より)。 >1位の回答には「成仏」という仏教用語が含まれており、宗教的な回答に聞こえなくもない。 >だが他方で、「死者が最終的にどのような存在になるのか」を聞いた質問では、「先祖」が32.3%で最も高く、「ホトケ」は17.7%にとどまる。 >さらに、「何かになることはないけれども存在している」(13%)や、「わからない」(12.1%)という回答もホトケに匹敵する割合を示すのだ。 >こうした状況を分析した仏教研究者の相澤氏は、檀信徒にとっての成仏とは、曹洞宗の教えでいう仏弟子になることではなく、「曹洞宗の掲げる葬儀の意味が檀信徒に広く浸透していない実態が透けてみえてくる」としている。 

 

インド人は我々日本人が仏教徒であると知って、’釈迦はヒンズー教徒として生まれ、ヒンズー教徒として葬られた’ と説明して、我々に親しみを表しました。しかし、無哲学・能天気の日本人にはインド哲学は受け入れられないでしょうね。曹洞宗の教えではどうなるのでしょうかね。   

言語は伝達の手段であるばかりでなく、思考の重要な手段でもあります。ですから我々の考えの疎かな所は日本語のせいであることもあります。   

非現実 (考え) の内容は、英語の時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観と言われている。これらの三世界は時制により構文が異なるので、同次元で語ることができない。それで独立した三世界になっている。この規則を the sequence of tenses (時制の一致) と呼ぶ。日本人の初学者が英論文を書くときに難渋する規則である。 

世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を自分自身で埋めて行く。自己の 'あるべき姿' (things as they should be) もこの中にある。来るべき世界の内容を語ることは、時代を先取りすることである。

自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実 (things as they are) の内容を批判 (縦並びの比較) すれば、批判精神 (critical thinking) の持ち主になれる。批判精神のない人の文章は、ただ現実の内容の垂れ流しになる。全ての事柄は他人事になる。これは子供のようなものである。日本人も英米人も子供の時には非現実 (考え) の内容というものがない。だから ‘話を告げる’ (to tell a story) ということは、’作り話をする’ とか ‘嘘を吐く’ という風に受け取られて悪い子供とされている。この判定がわが国では一生涯続く。

日本語の文法には時制がない。だから、日本人には世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。残念ながらマッカーサ元帥の '日本人12歳説' を否定できる人はいない。  

意見は比較の問題である。現実の内容と非現実の内容があれば批判精神が発揮できる。英米人の意見はこれである。これは縦並びの比較ということができる。建設的である。進歩が期待できる。希望が持てる。現実の内容だけであれば、その比較は '現実' 対 '現実' の上下判断 (横並びの比較) になり、'どっちもどっちだ' がある。無力感に苛まれる。この種の比較は復讐に復讐を重ねる民族同士の争いの原動力にもなっていて進歩が期待できない。

非現実の内容は人様々である。非現実の内容がなければあるのは現実だけで、その正解は一つである。日本人がともすれば異口同音の内容を語るのはこのためである。    

わが国のマスコミも現実の内容をただ垂れ流す。個人の価値判断が抜け落ちている。現実の正解はただ一つであるから、どんぐりの背比べで個性がない。それで、日本人は個人主義が何であるかを理解することが難しい。本人にも相手にも何を考えているのかわからない。だから、誰からも信頼されない。世界観に基づく協力者が得られないので社会に貢献する度合いが限られる。  

イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。   

何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)   

 

[岡本亮輔 北海道大学准教授] リンクより   

 

 

 

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閲覧数227 カテゴリアルバム コメント0 投稿日時2021/11/07 18:53
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