2022年01月22日(土) 

 

 

>日本人に見る「法意識」の独自性、なぜ権利の主張や訴訟に消極的なのか > 秋山進 2022/01/21 06:00   

 (略)

>「コンプライアンスだの、ハラスメントだの、困ったものだ。 >それに引き換え昔は良かった……とすら、迂闊には言えない時代になってしまった」と、ある年配の偉い人が嘆いておられた。

 

外来語の日本語が増えてきましたね。年寄りは時代の進歩に追いつけないでしょうね。   

 

>欧米では法という規範に基づいた契約が絶対視され、個人や企業の権利意識が強いとされる。  

 

'どのような状況にも普遍的に通用する真理や法則、基本概念や倫理がありうるという考え方が、日本にはほとんど存在しない。' (カレル・ヴァン・ウォルフレン)  

 

>それに対して、日本は周囲との調和を乱すようなあからさまな権利意識の発露は抑圧されがちで、権利意識が薄く、本音と建前を使い分けながら、事を荒立てず、どちらの顔も立てるように、話し合いで両者の合意点を探るのが日本流だ、となんとなく感じることはあるだろう。   

 

本音は恣意 (私意・我儘・身勝手) ですね。建前は ‘言い訳・口実・言い逃れ’ ですかね。日本人は無哲学・能天気ですからね。自己主張はできないですね。      

 

>また、昨今のSDGsやカーボンニュートラル推進の急展開に、「ルール遵守とはいえ、そもそも自分たちの有利なようにルールを決めている」という不公平感に釈然としない思いを抱く人も多いに違いない。>一体日本人の法に対する意識は変わったのであろうか。  

 

日本人の場合、’法は信ずるに足らず’ でしょうね。    

 

>それとも、表面的に変わったように見えても、中身はもとのままなのだろうか。 >この問題を考えるため、今回は『日本人の法意識』(川島武宜著)を採り上げる。 >なぜ日本人は法に関わりたくないのか    

> ほとんどの日本人にとって、法は身近なものではなく、できれば関わりたくないものだ。 >それには理由がある。 > 日本の六法(憲法、民法、商法、刑法、民事訴訟法、刑事訴訟法)の原典は、明治22年から31年の間、わずか10年たらずのうちに完成した。 >これらは、日本の従来の伝統とは断絶した内容を主にフランスとドイツから学んで(と言えば聞こえはいいが、ほとんどそのまま「拝借」して)起草したものである。 >先進資本主義国家の法典にならって作られた明治の近代法典と、当時の日本人の実生活とのあいだには、大きなずれがあったのだ。   

 

そうですね。武士が背広を着たようなものでしょうね。     

 

>「明治憲法下の法典編集事業は、まず第一次には、安政の開国条約において日本が列強に対して承認した屈辱的な治外法権の制度を撤廃することを、列強に承認させるための政治上の手段であった」(川島武宜の『日本人の法意識』より)

 

治外法権の存在は序列国家の屈辱ですね。   

 

>日本の法はそもそも厳密な運用を想定していない  > 明治時代、西洋に追いつけ追い越せと必死になっていた頃、外国人に対して裁判する権利がない(治外法権)という安政の不平等条約を改正することは、日本人と日本政府にとって悲願であった。 >裁判権の自主性を回復するには、裁判制度および裁判の基準となる法律を整備する必要があったのだ。 >そこで、急ごしらえで作ったのが、これらの法典である。 >法典は、“立派なもの”であることが重要なのであって、内容が実情にあっているかどうか(使えるか)は二の次であった。

 

そうですね。実情は ‘東は東、西は西’ ですからね。   

 

> しかしながら、実際に導入してしまえば、法典は社会の規範として機能し始める(「作ったものの、使っていません」ということでは列強から一人前の国として認めてもらえない)。 >そこで、実態とは大きなギャップがあり、額面通りに運用できない法はそれとして、予め現実の事態に妥協することが想定されていたのである。 

 

日本人はいつも融通を利かせますね。理詰めの議論は嫌いですからね。       

 

>「道徳や法の当為と、人間の精神や社会生活の現実とのあいだには、絶対的対立者のあいだの緊張関係はなく、本来的に両者の間の妥協が予定されている。>したがって現実への妥協は、「なしくずし」に、大した抵抗なしに行われる。 

 

‘嘘も方便’ ですからね。日本人の文化には形式があって、内容がない。 いつも、’いかにも・・・・らしい’ で終わっている。意義が無く、つかみどころがない。哲学 (考え) がない。        

 

>そうして、そのような現実との妥協への型態こそが、「融通性のある」態度として高く評価されるのである」(川島武宜の『日本人の法意識』)  

 

うやむやは ‘話のわかる人’ ということの証拠ですかね。     

 

> 法の定める「建前」と、実際に行われている「本音」の間を上手に取り持ち、厳密には法的に問題のある行為であっても、形式、体裁、大義名分などを巧みに整えて正当化する「融通性のある行為」こそが求められたのである。

 

伝統ある ‘勧進帳’ の繰り返しですね。   

 

> このような歴史的背景のもとに、日本人は法と向き合ってきたのである。 >下手に法に近づくと火傷をしかねないのだから、融通性のある者以外は法に近寄りたがらないのも仕方がない。 >日本人は本当に権利意識が薄いのか  > 著者は、日本人ならではの法意識として「権利」について興味深い指摘を行っている。 >「日本人には「権利」の観念が欠けている」(川島武宜の『日本人の法意識』) > 日本においては、社会集団を作る際に、その成員である個人が組織に対して恭順を示すことが前提となる。    

 

‘日本人は政治にそれほど関心がないのに政府に依存し、国からの発言を待っている。’  (ウスビ・サコ)  

 

>逆に組織の個人に対する態度は、家父長的な立場であり、個人を庇護し、(状況に鑑みて)その要求をある程度認めようとする立場をとる。  

 

それは家畜・社畜の飼育法と同じですね。   

 

>わかりやすく言えば、親分子分の関係である。   

 

そうですね。日本人の人間関係は ‘やくざ風’ ですね。    

 

>たとえば、有給休暇の取得は従業員の権利だから当たり前のこととして行使するというのではなく、周囲の人の状況も見計らったうえで会社から休暇を“取らせていただく”といった形態になるのである。  

 

日本人は常に日和見主義ですね。

‘周りの影響を受けずに、真に独立した考えができる知識人がいない。’ ( グレゴリー・クラーク)     

 

>「人が自分の権利を擁護することは、西洋では正しいこととして是認されるのに、日本では、自己中心主義的な・平和を乱す・不当に政治権力の救済を求める・行為として非難されるのである」(川島武宜の『日本人の法意識』)

 

何時もの通り西洋の正しいは、わが国の不当になるのでしょうね。   

 

> ヨーロッパにおいては、「法」と「権利」は同じことば(ドイツ語でRecht, フランス語でDroitなど)で表現されてきた。 >法は判断基準を意味すると同時に権力行使のプロセスを意味し、権利はその結果として保証されている利益のことなのである。 >すなわち法と権利は同一のものを別の側面から言い換えたにすぎない。 >当然、権利は擁護されるし、行使する者は否定されることはない。 >一方日本では、権利の行使や主張は組織からの温情を自分だけ過剰に取り付けようとする、勝手な行為として見られるのである。 > ただ、本当に日本人に権利意識がなかったのかについては異論もある。 >本書同様に名著として知られる『日本人の法観念』(大木雅夫著)には、歴史的に日本人にも権利意識は存在したが、明治以降の労働関係調整法や借地借家調停法などによって、民衆の権利意識が委縮させられたのではないかと書かれている。>私には、いずれの主張が正しいかを判断する能力はないが、日本においては権利の行使や主張に積極的な人があまり好まれない組織がいまだに多いということは、ほぼ間違いない事実であると思う。  

 

日本人には意思 (will) がない。意思は英語の未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には時制 (tense) というものがないので、日本人には意思がない。

意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there's a will, there's a way. 日本人には意思がない。仕方がないので無為無策でいる。おとなしい。優柔不断・意志薄弱に見える。能動がなくて受動ばかりの生活を送っている。だから戦時中は、玉砕するまで戦い抜いた日本兵であった。困った時には '他力本願・神頼み' になる。生きる力 (vitality) が不足している。

 ' やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かず' 山本五十六 (やまもと いそろく)

どうやら '指示待ち人間' ができあがったようです。 

 

>薄い契約書と分厚い契約書、どちらが合理的なのか  > 本書には日本人の契約意識についても述べられている。 >読者の会社では、契約書はどのくらい分厚いだろうか。 >平成の初期くらいまで、一般的には薄かった。 >必要最低限のことだけが記載され、何か起こったら互いに協力して「話し合い」で解決する、と最後の条項に書いてあり、またそれが契約を貫く基本的なスタンスであった。 > しかしながら、企業のグローバル化に伴って欧米企業と仕事をすることが増えると、日本企業同士の契約書もどんどん厚くなってきた。>何かをやる前に、「こんなことが起こったらこちらはどうする」「あなたはこうする」などと細かく取り決めをして、契約書に書き込むのである。

 

そうですね。想定外の少ない社会になりましたね。我々のような法律に直接関係のない者にも、海外旅行傷害保険の約款を手にしたときにはその実感がありますね。もしもの場合の事が小さな文字で分厚い小冊子の中にぎっしりと示されていますから。    

 

>合弁企業を作ろうとする際に解消についてまで取り決めるのだから、当初はびっくりした人も多かったに違いない。 >実際、将来何が起こるかは事前にはわからない。 >何かが起こった後に情報を精査して、互いに一番良い結果を求めて話し合えば良い結論が出ると考えるほうが、合理的だとも言える。  

 

飛行機が墜落事故を起こした場合、事後に精査して良い結論を求めるというだけでは未来の事故は防げませんね。

あらゆる墜落事故の可能性を想定して、それに対処する方策をあらかじめ用意しておくのが整備の賢明なやり方ですね。   

 

>「契約上の義務をそのように確定的・固定的なものにすると『融通性がなくなって』不安だ、と主張されたのである。

>すなわち、契約内容の不確定性は、西洋の人には不安感を与えるのに対し、日本の人には安定感を与えているのである」(川島武宜の『日本人の法意識』)

 

未来の世界の内容を知ることは西洋人に安心感・安定感を与えますね。彼らは未来時制の文章を理解できますからね。日本人は未来 (非現実) の世界の内容は考えられないから、現実の世界にある事柄だけに考えを絞って結論を出したいのですね。    

 

> 素性がよくわかっている相手と繰り返し事業を行ってきた日本企業にとっては、無茶な主張をすることは相手にとっても良くない結果をもたらす(次からの仕事がなくなる、業界での評判が悪くなるなど)ことから、権利の主張はおのずから合理的な範囲内にとどまるはずだと考えられ、実際にそうであった。  

 

そうですね。それは馴れ合いというものですね。なれ合わなければ納得も無い。なれ合いは考えのない人の拠り所とするところですね。日本人にとってはどこの馬の骨ともわからない人たちの価値はない。          

 

> 一方、新しい取引先や提携先などとも果敢にビジネスを行う外国企業にとっては、取引を成立させるうえでのリスクヘッジとして、契約内容を事前に確定的、固定的にすることが選ばれたのである。 >その意味では、契約書は相手のタイプによって使い分ければよいと考えられるのだが、一般的に契約書はどんどん厚くなっている。  

 

大は小を兼ねる。あらゆる可能性を想定できる人は、思慮の深い人ですね。文中に示していない内容は契約にもなりませんね。これはドイツ語などの低文脈文化の言語の特徴ですね。      

 

>信頼できない相手が増えて来たのか、法務部門や弁護士の仕事の確保のためか、リスクの限定をしておくほうが資本家から信頼されるということか。> いずれにせよ、ビジネス社会においては、事前に取り決めを行い最大の損失額などを確定しておくことは、すでに一種の文法になったといえる。  

 

そうですね。未来に見通しのきく便利な世界になりつつありますね。来るべき未来の世界が豊かになる可能性も出てきましたね。    

 

>「欧米並み」の訴訟社会は到来したか   > 本書では、最後に将来の日本社会の法意識についての予測が書かれている。 >「要するに、人々は、より強く権利を意識し、これを強く主張するようになるであろう。 

 

‘求めよ、さらば与えられん’ ですね。Ask, and it will be given to you. 西洋人の考え方がわが国に浸透しますかね。           

 

>そうして、その手段として、より頻繁に、訴訟=裁判という制度を利用するようになるであろう。>人々は個人と個人の関係のみならず、個人と政府との関係をも、法的な――法という規準にしたがって判断される明確且つ固定的な――関係として意識するようになるだろう。 

 

そうですね。それは ‘あるべき姿’ ですね。   

 

>それらのことの結果、法や裁判所は人々の生活にとって、より重要なものとなり、それに対応して、裁判官の社会的地位(その名望)も上昇するであろう」(川島武宜の『日本人の法意識』)。 > 1967年刊行の本書では、社会が近代化すると、個人はもっと権利を主張し、訴訟も増えることになると予測されていた。 >ところが実際には、訴訟件数はそれほど増えていないのである。  

 

そうでしょうね。法律の文面だけでは人々の政治に対する理解度は進みませんね。それは日本語という言語の素性に関係がありますね。    

 

>社会的に話題になる派手な訴訟はあっても、人々が問題解決のために、訴訟という手段を頻繁に選ぶという社会にはまったくなってはいない。 >裁判官の社会的地位や名望が上がったなどということも、一度も聞いたことはない。 >変化といえば、せいぜい弁護士がテレビでタレントのような活躍をするようになったことくらいであろうか。  

 

法律の変化は上辺だけの変化ですね。だから変化は日本人の心の底にまでは達していませんね。 

言語は伝達の手段であるばかりでなく、思考の重要な手段でもあります。ですから我々の考えの疎かな所は日本語のせいであることもあります。   

非現実 (考え) の内容は、英語の時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観と言われている。これらの三世界は時制により構文が異なるので、同次元で語ることができない。それで独立した三世界になっている。この規則を the sequence of tenses (時制の一致) と呼ぶ。日本人の初学者が英論文を書くときに難渋する規則である。 

世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を自分自身で埋めて行く。自己の 'あるべき姿' (things as they should be) もこの中にある。来るべき世界の内容を語ることは、時代を先取りすることである。

自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実 (things as they are) の内容を批判 (縦並びの比較) すれば、批判精神 (critical thinking) の持ち主になれる。批判精神のない人の文章は、ただ現実の内容の垂れ流しになる。全ての事柄は他人事になる。これは子供のようなものである。日本人も英米人も子供の時には非現実 (考え) の内容というものがない。だから ‘話を告げる’ (to tell a story) ということは、’作り話をする’ とか ‘嘘を吐く’ という風に受け取られて悪い子供とされている。この判定だけがわが国では一生涯続く。

日本語の文法には時制がない。だから、日本人には世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。残念ながらマッカーサ元帥の '日本人12歳説' を否定できる人はいない。  

意見は比較の問題である。現実の内容と非現実の内容があれば批判精神が発揮できる。英米人の意見はこれである。これは縦並びの比較ということができる。建設的である。進歩が期待できる。希望が持てる。現実の内容だけであれば、その比較は '現実' 対 '現実' の上下判断 (横並びの比較) になり、'どっちもどっちだ' がある。無力感に苛まれる。この種の比較は復讐に復讐を重ねる民族同士の争いの原動力にもなっていて進歩が期待できない。

イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。   

何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)            

 

>「訴訟は、いわゆる「黒白を明らかにする」ことによって、この友好的な「協同体」的な関係の基礎を破壊する。 

 

相撲取りの社会の黒白のようには行かないものですかね。    

 

>だから、伝統的な法意識にとっては、訴訟を起こすということは、相手方に対する公然たる挑戦であり、喧嘩を吹っかけることを意味するのである」(川島武宜の『日本人の法意識』)   

 

日本人が議論をすれば喧嘩になります。いや喧嘩をする為には、まず議論を始めなければならないということなのかな。’あるべき姿’ を持たない人間同士の議論は我利追及以外には目的がない。     

 

> 協同体的関係を破壊するよりは、「丸く納める」ことのほうが望ましいといまだに多くの人が考えているのである。

 

そうですね。あるべき姿 を持たない人たちの共同体は、時限爆弾の上に建てられた集会所のようなものですね。自分たちの身を守るために皆が静かにしているしかない。       

 

>訴訟という方法が選ばれるのは、相手との関係が悪くなろうと、何がなんでも戦わなければならないような状況に追い込まれたときだけである。  

 

‘あるべき姿’ を求めるという社会共通の意識がない。人々の意識は常に ‘伸るか反るか’ の緊張でしかない。知的なものが欠けている。   

 

>このことは、人によっては権利意識が発達せず、社会が未熟だと考えるかもしれないが、人によっては、訴訟の少ない社会は良いに決まっていると素直に考えるだろう。  

 

そうですね。それは無哲学・能天気の証拠でしょうね。 

現実 (事実) は見ればわかる。現実の正解は一つしかない。非現実 (考え) の内容は見ることができない。だが文になる。文にならないものは考えではない。

矛盾を含まない文は、全て正しい考えを表している。考えは、一人一人違っている。だから、正解は無数にある。体系的な考えは哲学になる。各人に哲学は必要である。 Everyone needs a philosophy.  そうでなければ我々は、つかみどころのない人間になる。   

大学などの高等教育機関で論文作りに励めば学士・修士・博士などの称号が得られる。博士は普通 '哲学博士' (Doctor of Philosophy: Ph. D.) と呼ばれる。

私は日本のインテリから ‘哲学とは何ですか’ と何度も聞かれた。外国人からは、このような質問を受けたことはない。日本人は大学で、自己の哲学を作ることを学んでこなかった。だから彼らは退屈男・退屈女となって大学在学中の4年間を遊んで暮らさなければならなかった。       

政治に関する考えは政治哲学になる。宗教に関する考えは宗教哲学になる。科学に関する考えは科学哲学になる。人生に関する考えは人生哲学になる。などなど。  

我が国の政治家には政治哲学がなく、わが国の宗教家には宗教哲学がない。わが国の科学者には科学哲学がなく、わが国の著述家には人生哲学がない。などなど。   

‘私は絶対に日本人を信用しない。昨日までの攘夷論者が今日は開港論者となり、昨日までの超国家主義者が今日は民主主義者となる。これを信用できるわけがない’  (あるアメリカの国務長官)

TBSブリタニカとブリタニカ国際大百科事典を作ったフランク・ギブニー氏は、自著 <人は城、人は石垣> の中で、我が国の作家について次の様な感想を述べています。

孤立は日本式スタイルを誇る詩人、随筆家はいうに及ばず、小説家において最も顕著である。これは外国人にとっては判断をはばかられる主観的な領域である。しかし文学界で最も尊重される文章が意味を省略し、あいまいさに富み、漢字をうまく使って読ませ、文法分析家を意気揚々と悩ます一種の「気分の流れ」であることは一般に真実である (私の思考パターンは取り返しのつかぬほど西洋的なので、私は自分がスラスラ読めるような日本語の散文は深刻なまでに文学的優雅さに欠けているにちがいない、という大ざっぱなルールをとっている)。(引用終り)

我が国には人手不足の話はあるが、頭脳不足の話はない。わが国は、無哲学・能天気の国である。だから、国民は歌詠みになる。    

 

> ここまで『日本人の法意識』をもとに、法と社会実態のずれの問題、権利意識の問題、契約の問題、訴訟の問題について触れてきた。 >ここからは現在の日本の状況について、少し考えてみよう。 > まず、法と社会実態のずれの問題について。 >昨今、急速にずれが少なくなりつつあるように思われる。 >組織にあっては、転職者(入りも出も)が増え、SNSなども発達したことから、違法状況にあるとの情報は容易に外部に流出するようになった。 > また、マスコミ報道においても、どのくらい深刻な違法行為であるかがあまり考慮されることなく、単に「違法!違法!」と騒ぎ立てるので、重要性はさほどない事象であっても違法状態を放置しておくことは組織の大きなリスクになってしまっている。 >このようなことから、法と実態のずれは急速に解消されてきているといえるだろう。 > 人々の権利意識については、以前よりも権利を主張する人が増え、普通のことになってきたがゆえに、権利を行使することのハードルが下がってきた。 >その背景には、組織自体が家父長的立場を放棄し、社員との関係を仕事と報酬の契約的関係に変えてきたことがある。   

 

そうですね。日本人も西洋風になってきたということですね。   

 

>日本人が本来持っている 均衡や調和を大事にする考え方   > ただし一方で、会社の中核として認識される人にまで、そのような権利の適用が良しとされるかどうかは正直わからない。 >周囲の状況に鑑み、遠慮がちに権利を行使するという行動文法を取るのが目下は最も危険が少ないだろう。 >その意味では、権利はいまだに権利たり得ていない状況と言ってよいかもしれない。 

 

そうですね。    

 

> 契約については、事前に内容を確定させることが文法になった。>ただしこの文法は、いわゆる大手企業同士の関係に限られおり、日本全体の行動文法になっているわけではない。

 

過去・現在・未来の三界の内容を語るのは印欧語族の文法を理解している人たちでしょうね。日本語のみを使う人は時制のある文が考えられないので現実 (事実) の内容のみを語るでしょうね。   

 

>また、会社で契約を結ぶときは分厚い契約書に目を光らせるものの、こと私的な問題になったら、薄い1枚の契約書で良しとするビジネスパーソンも多いだろう。 >契約が人の行動を拘束するという意識もまだまだ薄い。

 

そうですね。契約の内容は考え (哲学) です。日本人は現実 (事実) に拘束されていても、考え (非現実) の内容に拘束されるつもりはない。   

 

> 最後の訴訟については、日本が訴訟社会になろうとする気配はまったく感じられない。 >弁護士を増やしたものの、訴訟が増えず、食えない弁護士を多くつくり出してしまっている。

 

そうですね。弁護士に関する需要に見合った供給がなされていませんね。     

 

>基本的に、日本人は喧嘩が嫌いだし、それが自分の利益の確定(権利)のためだと聞くと素直には肯定できなくなる。

 

‘出る杭は打たれる’ という事になるのか。    

 

>「権利が脅かされるときには、何人たりとも権利のための闘争をする義務がある」(イェーリング著『権利のための闘争』)を普遍的真理として承認してきた欧米社会とは、決定的に異なる価値観なのである。 > 日本人の法意識は、確かに変わりつつあるが、それはかなり限定的ともいえる。    

 

そうですね。‘及ばざるは過ぎたるに勝れり’ と考えてのことか。   

 

>SDGsなどという言葉が流行る1000年以上も前から、権利の主張と訴訟によるのではなく、和解や譲り合いや慈悲によって全体の均衡や調和を大事にするという、儒教的、仏教的な考え方が日本人の中に根付いており、それは今なお日本人にとって重要な価値観である。 > もちろん、改善の余地は多分にあるものの、感染症や地球環境問題などへの対応が迫られるこれからの世界においては、調和を重視し譲り合いを厭わない日本人特有の価値観は、世界的に見てとても重要な意思決定基準になるかもしれないとも思われる。

 

日下公人氏は、<よく考えてみると、日本の未来はこうなります。> の中で、日本人に関するW.チャーチルの感想を以下のごとく紹介しています。

日本人は無理な要求をしても怒らず、反論もしない。笑みを浮かべて要求を呑んでくれる。しかし、これでは困る。反論する相手をねじ伏せてこそ政治家としての点数があがるのに、それができない。

 それでもう一度無理難題を要求すると、またこれも呑んでくれる。すると議会は、今まで以上の要求をしろと言う。無理を承知で要求してみると、今度は笑みを浮かべていた日本人が全く別人の顔になって、「これほどこちらが譲歩しているのに、そんなことを言うとは、あなたは話のわからない人だ。ここに至っては、刺し違えるしかない」と言って突っかかってくる。

 英国はその後マレー半島沖で戦艦プリンスオブウェールズとレパルスを日本軍に撃沈され、シンガポールを失った。日本にこれほどの力があったなら、もっと早く発言して欲しかった。日本人は外交を知らない。(引用終り)    

 

我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英語にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。 

『有能な人材が世界から日本に集まり、ここで世界に向けてサクセスストーリーが生まれるという国家を目指すべきです。 このための具体的な政策課題として (1)英語を第2公用語にする (2)定住外国人に地方参政権を与える (3)インターネットの接続料はじめ知的生産活動の基本コストを諸外国並みにする (4)日本の制度やシステムの中で国際基準と合致しないものを一括して見直す―の4点を提案したいと思います。』 (茂木敏充外務大臣)   

 我が国の ‘漢字かな’ は世界中何処の国に行っても通用しない。特にローマ字 (alphabet) の代わりに仮名を使用することには害毒がある。仮名漢字表記による学習で自分は世界に通じていると思い込む。だが、これは事実ではない。勝手な解釈により世界に関する独りよがりの解釈は避けられない。私は宿泊先のアメリカ人の名前は知っている。しかし、その綴り方は分からない。つづり字を考えることのない日本人の記憶方法だからである。このような文盲に近い体験の仕方では外国人との文通もできない。地図を見て探すことも難しい。かな書き英語が我が国民の国際化を果てしなく遠ざけているということができる。  

 国語の勉強は読み書きの練習である。ところが、日本語のかな漢字表記は難しい。特に漢字の字形と音訓の習得に月日を費やし、目的の勉学の成果が遅れている。私の知り合いに ‘○○健’ という名の人がいる。人々は彼のことを ‘ケンちゃん’ とか ‘タケちゃん’ と呼ぶ。そこで私が彼に ‘本当はどっちですか’ と聞いてみた。すると、彼はまた’どちらでも良いのですよ’ と言う。’戸籍には何と書いてあるのですか’ とまた私が尋ねると ‘戸籍にはフリガナが無いのでどう読んで良いのですよ’ と答が返ってきた。とりわけ漢字圏以外の国から来た外国人には日本語の漢字は難しい。日本語をローマ字表記にすれば彼らもたちどころに日本語を読めるようになる。読み書きが自由になると一人前の大人として活躍できる。筆記試験でも真の実力が発揮できる。外国人の能力に関してより公平な評価をする社会が我が国内に実現する。ぜひローマ字表記を法制化してもらいたい。  

 

>(プリンシプル・コンサルティング・グループ株式会社 代表取締役 秋山 進、構成/ライター 奥田由意)  

 

 

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