2022年01月24日(月) 

 

 

>『国体論 菊と星条旗』 著・白井聡  >書評・テレビ評2018年5月5日  >FacebookTwitterHatenaLine共有  https://www.chosyu-journal.jp/review/7943      

> 最近、北朝鮮と韓国の南北首脳会談がおこなわれ、65年間休戦状態であった朝鮮戦争を終結させ、朝鮮半島の非核化と平和体制実現に向けて進むことで合意した。 >この東アジアにおける戦後史を画する動きは、日本人にとっても、かつての大戦と戦後をどのようにとらえ、どのような未来を切り開いていくかを突きつけている。 >京都精華大学専任講師の著者 [白井聰] が4月に著した本書は、その意味で示唆に富んでいる。 > 本書は明治維新以降の日本の「国体」、つまり権力構造を概観している。  

 

序列国家の権力構造ですね。  

 

>注目すべきは1945年の敗戦によってそれがどのような根本的変化を遂げたかを明らかにしていることだ。 >根本的変化とは、天皇のかわりにアメリカが権力を握ったことであり、民主化だけをやったと見せかけて、天皇制というピラミッドは残したままその頂点にアメリカが鎮座したことである。

 

そうですね。日本人の序列メンタリティ (考え方) はおいそれとは変わりませんからね。   

 

> 戦前の「国体」は、「万世一系」の天皇を頂点にいただく専制君主制国家であった。 >天皇制政府はアジアに対する侵略戦争から対米戦争へと突き進み、日本人320万人、中国やアジアの人民1900万人という膨大な犠牲者を出したあげくに破滅した。 >そして1945年8月、天皇制政府は「国体(天皇の国家統治の大権)護持」を唯一の条件として敗戦を受け入れた。 >1946年に新憲法の審議をおこなった帝国議会でも、当時の首相・吉田茂は、新憲法によって国体は「毫も変更せられない」と主張した。

 

そうですね。わが国の国体は日本人の頭脳により守られていますからね。   

 

> しかし、1950年のサンフランシスコ講和条約の締結、それによる「日本の主権の回復」「国際社会への復帰」は、ファシズムの温床となった軍国主義の除去と体制の民主化、つまり国体が根本的に変更されたと認められることで可能になった。>これに「国体は毫も変更せられない」と宣言した同一人物が調印した。

 

これは日本人のなぞなぞですね。日本人は思考停止に陥っていますからね。矛盾は頓着しないですね。       

 

> ここには重大な欺瞞があった。>新憲法で「主権者が天皇から国民に移動した」とされたが、実際には占領下での主権は移動しようにも日本側にはなく、アメリカが握っていた。>主権は天皇からマッカーサーに移動したのである。

 

そうですね。日本人には意思がないから主権が誰の手にあろうと頓着しませんね。        

 

>それは、戦後日本の武装解除を決定した権力と同じ権力が、1950年の朝鮮戦争にさいして、一切の民主主義的プロセス抜きで一片のポツダム政令によって、再軍備(自衛隊の前身である警察予備隊の創設)を命令したことにもあらわれている。

 

 ‘日本人は政治にそれほど関心がないのに政府に依存し、国からの発言を待っている。’  (ウスビ・サコ)   

 

>そして、サンフランシスコ講和条約は、同時に結ばれた日米安保条約とワンセットであった。 >安保条約でアメリカが要求したのは「我々が望むだけの軍隊を望む場所に望む期間だけ駐留させる権利」であった。 > 著者によれば、戦前戦中の保守支配層は、かつてみずから主導して「鬼畜」と呼んだ相手に膝を屈し、とり入ることで復権の機会をつかみ、それとひきかえに自発的に主権を放棄した。

 

そうですね。主権は日本人に相応しくないからでしょうね。   

日本人には意思 (will) がない。意思は英語の未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には時制 (tense) というものがないので、日本人には意思がない。

意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there's a will, there's a way. 日本人には意思がない。仕方がないので無為無策でいる。おとなしい。優柔不断・意志薄弱に見える。能動がなくて受動ばかりの生活を送っている。だから戦時中は、玉砕するまで戦い抜いた日本兵であった。困った時には '他力本願・神頼み' になる。生きる力 (vitality) が不足している。

 ' やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かず' 山本五十六 (やまもと いそろく)   

どうやら '指示待ち人間' ができあがったようですね。   

日本人には意思がない。だから意思決定はできない。意思決定が必要な時は、恣意決定に頼ることになる。つまり、事の次第・自然の成り行きで決着をはかる。このやり方は、アニマルも同じである。

恣意 (私意・我儘・身勝手) はバラバラな単語のままで存在するから文章にならない。だから、意味というものがない。行為・言動の本人にその説明責任はとれない。恣意の人間は指導者になっても権力は持たせられない。人人はできるだけ権力の少ない指導者を望んでいる。すると、指導者は床の間の置物のようなものになる。彼の唯一の業績は '任期中に何もしなかった' ことであると任期終了時にいわれている。  

 

>革新陣営はアメリカの民主化を支持することで補完的な役割を果たした。この国家主権の構造は占領終結で終わらず、日米安保体制として現在まで続いている。 >それを象徴するのが、1959年に最高裁判決が出た砂川事件である。 > 一審では「日米安保条約は憲法違反である」とする伊達判決が出た。 >これに飛び上がったのがアメリカで、当時の駐日大使ダグラス・マッカーサー2世は伊達判決を無効化するよう、外相・藤山愛一郎や最高裁長官・田中耕太郎に圧力をかけた。 >最高裁は「米軍の駐留は憲法の趣旨に反しない」「日米安保条約のように高度な政治性を持つ条約については、違憲かどうかを司法が判断することはできない」との判決を下した。 >この判決は、駐日米大使から指示と誘導を受けながら書かれたという事実がある。 >この判決で、日本の法秩序において、日米安保条約が日本国憲法に優越する構造が確定された。

 

国際法は国内法に優先しますね。    

 

>対米従属とアジアでの孤立意図した米国   > 本書では、この対米従属構造が、90年代以降のグローバリズムの下で異様なる国益の売り飛ばしになっていったことを追っている。>1989年に日米構造協議が始まり、それは後に日米包括経済協議と名を変え、年次改革要望書となり、日米経済調和対話となり、TPPとなった。  

 

米国はTPPに参加しませんでしたね。何が不満でしたかね。       

 

>これらすべては、アメリカのグローバル企業が日本市場に参入する道筋をつくるもので、日本の国民生活の安定や安全に寄与するための規制や制度すべてが、たとえば国民皆保険制度や食料自給までが、「非関税障壁」として攻撃の対象になる。> そして、「戦後の国体」の末期である現在、戦後日本の平和主義は「積極的平和主義」に転化し、それはアメリカの軍事戦略との一体化を意味し、実質的には自衛隊が米軍の完全な補助戦力となり、さらには日本全土がアメリカの弾除けと化している。>著者はそこに、かつての敗戦と同じ破滅の道を見ている。

 

そうですね。日本人は自己の抑制に終始しますね。    

 

> また、著者によれば、この対米従属構造の下でつくられるイデオロギーは、欧米に対する劣等感や崇拝意識と、アジア諸民族に対するレイシズム(人種差別意識)である。

 

そうですね。日本人は何処までも序列的ですね。     

日本語には階称 (言葉遣い: hierarchy) というものがある。だから日本語を発想する場合には、‘上と見るか・下と見るか’ の世俗的な判断が欠かせない。上下判断 (序列判断) には、通常、勝負の成績が用いられる。近年では偏差値なども都合の良い資料として利用されている。だから難関出身者たちが社会で幅を利かせている。わが国が学歴社会であるというのも、実は序列社会の言い換えに過ぎない。だから、わが国の学歴社会は学問の発展には何ら貢献していないことを知っている必要がある。      

日本人の礼儀作法も、序列作法に基づいている。だから、序列社会の外に出たら序列なきところに礼儀なしになる。礼儀正しい日本人になる為には、世俗的な序列順位を心得ている必要がある。'人を見損なってはいけない' という想いが強迫観念の域に達していて、人々は堅ぐるしい日常生活を送っている。こうした観念は天皇制・家元制度・やくざの一家の構造にまでつながっている。

日本人は序列の存在を知れば、それが一も二も無く貴いものであると信ずる共通の序列メンタリティを有している。その程度は序列信仰の域に達している。日本人の尊敬は、序列社会の序列順位の単なる表現に過ぎないため、個人的精神的には意味がない。下々の衆は上々の衆の祟り (仕返し) を恐れて神妙にしている。上々が無哲学・能天気である事については、下々にとって何ら気になることではない。だから、日本人の尊敬には浅薄さが付きまとう。   

日本人の政治家にも、政治哲学がない人が多い。だから、我々の未来社会の有様を相手に言って聞かせる術がない。それは非現実 (考え) の内容を盛り込むための構文が日本語に存在しないからである。序列人間は人間の序列を作っていて、上位の者 (先輩) と下位の者 (後輩) の間に自分を差し挟むことにより自分たちの存在を確認し合っている。だから、自己の所属する序列に並々ならぬ帰属意識を持っていて義理 (序列関係から生じる義務) を果たすことに懸命になる。そして、この種の仕事にやりがいを感じている。無哲学と序列メンタリティの相乗作用により派閥政治は無くならない。周囲の序列仲間が自分たちの序列に対する貢献度を評価する。これにより自己の順位は上昇する可能性がある。それが日本人の人生における楽しみである。だが正一位の獲得は難しい。    

我が民族の序列メンタリティは国がひっくり返った後にも変わりませんでしたね。新憲法の前文には、 ‘・・・・・国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う。’ と高らかに宣言しています。地位とは国際社会の序列順位の事で、国際問題に関する問答には関心を持たずにひたすら順位の向上を待ち続ける奇異な民族の代表として存在します。序列メンタリティが邪魔になって問答ができないのか、問答ができないために序列メンタリティから離れられないのか。英語の習得力が不十分なためか。     

 

>サンフランシスコ講和条約と日米安保条約をとりまとめたジョン・フォスター・ダレス(元米国務長官)は、日本人のこの2つのイデオロギーをうまく利用すれば、「日本人はアメリカに従属する一方、アジアで孤立し続けるだろう」と見通していたという。> 戦後、アメリカが日本に持ち込んだイデオロギーは、自由でも民主主義でもなかった。  

 

自由とは意思の自由の事ですね。ところが日本人には意思がない。だから、自由にも意味がない。不自由を常と思えば不足なしという事か。   

自己の意思表示をする人は、当事者・関係者となる。意思表示をしない人は傍観者にとどまる。日本人には意思がないから常に傍観者になっている。わが国は世界の中にあって、世界に属していない。日本人には、民主政治と衆愚政治の区別もつかない。      

 

>さらにいうなら、日本を出撃基地にした朝鮮戦争やベトナム戦争をはじめとして、アメリカが「アジア人同士を戦わせる」という戦略の下で戦後、何をやってきたかということである。>また、無謀な戦争を引き起こし日本を破滅に導いた日本の戦争犯罪者たちも、国内外の人民にはかりしれない犠牲を強いたその責任に頬被りして、戦後は中国・朝鮮やアジア人民への反感を煽り立ててきた。  

 

言語は伝達の手段であるばかりでなく、思考の重要な手段でもあります。ですから我々の考えの疎かな所は日本語のせいであることもあります。   

非現実 (考え) の内容は、英語の時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観と言われている。これらの三世界は時制により構文が異なるので、同次元で語ることができない。それで独立した三世界になっている。この規則を the sequence of tenses (時制の一致) と呼ぶ。日本人の初学者が英論文を書くときに難渋する規則である。 

世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を自分自身で埋めて行く。自己の 'あるべき姿' (things as they should be) もこの中にある。来るべき世界の内容を語ることは、時代を先取りすることである。

自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実 (things as they are) の内容を批判 (縦並びの比較) すれば、批判精神 (critical thinking) の持ち主になれる。批判精神のない人の文章は、ただ現実の内容の垂れ流しになる。全ての事柄は他人事になる。これは子供のようなものである。日本人も英米人も子供の時には非現実 (考え) の内容というものがない。だから ‘話を告げる’ (to tell a story) ということは、’作り話をする’ とか ‘嘘を吐く’ という風に受け取られて悪い子供とされている。この判定だけがわが国では一生涯続く。

日本語の文法には時制がない。だから、日本人には世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。残念ながらマッカーサ元帥の '日本人12歳説' を否定できる人はいない。  

意見は比較の問題である。現実の内容と非現実の内容があれば批判精神が発揮できる。英米人の意見はこれである。これは縦並びの比較ということができる。建設的である。進歩が期待できる。希望が持てる。現実の内容だけであれば、その比較は '現実' 対 '現実' の上下判断 (横並びの比較) になり、'どっちもどっちだ' がある。無力感に苛まれる。この種の比較は復讐に復讐を重ねる民族同士の争いの原動力にもなっていて進歩が期待できない。

イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。   

何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)    

 

>戦争が生み出す悲劇を二度とくり返さないために、戦争犯罪者を処罰し、現在その方向に進む者を許さず、アジア諸国との平和と友好、平等互恵の経済関係を発展させてこそ、誇り高い民族の伝統を子どもたちに受け継がせることができるというものだ。    

 

‘誰も責任を取りたがらず、誰も自分に責任があると言わなかった。・・・・・一般国民が軍部や文民官僚の責任と同等の責任を負っていると心から考えている人はほとんどいなかった。’  (ジョン・ダワー 増補版 敗北を抱きしめて (下)) 

 

> 今や資本主義の総本山アメリカの衰退はあらわとなり、パクス・アメリカーナ(アメリカの下での平和)は終焉を迎えている。 >朝鮮半島は平和へと向かい、中国が「一帯一路」構想の下で創設したAIIB(アジアインフラ投資銀行)にアメリカの同盟国が次次に参加を決めている。  

 

中国・ロシア・北朝鮮の権威主義国に移住を希望する外国人はいないでしょうね。根本的に人間性に欠けた体質の国家であるからでしょう。こうした国々にわが国は組すべきではありませんね。      .

 

>世界情勢が大きく変化するなかで、アジア諸国との平和、友好を進めることが日本の国益にかなう道である。

 

中国は中原 (ちゅうげん) に鹿を逐 (お) う伝統的な覇者の国である。だから、覇者の物語 '三国志' は、中国人の愛読書となっている。覇者は周辺諸国に覇権を打ち立てようとして傍若無人のふるまいをし、多大な迷惑をかけている。これは皇帝の時代も国家主席の時代も漢民族のメンタリティが同じであるから変わらない。漢民族は、自分たちの考えを示すために漢字を作った。しかし、彼らは外国人の考えを示すための漢字は作らなかった。だから、外国人に対して自己の内容を発信はできるが、外国人からの内容を受信することは難しい。独断専行に陥りやすい。印欧語族のインド哲学を経文 (漢文) に表すことが至難の業であることがわかる。漢文の書物をいくら読んでも外国人の考えは出てこない。だから、中華思想を堅持し自己中心的にならざるを得ない。周辺諸国を中国化することに専心してやまない。中国人が外国人の影響を受けて発想の転換 (paradigm shift) をすることは期待薄である。

 

中華 (ちゅうか)  [外国との交渉が少なかった時代に] 自国を、世界の中心にある、一番優れた国とみなしたこと。[狭義では、漢民族のそれを指し、またその呼称としても用いられる]    東夷 (とうい)  [東方の野蛮人の意] 昔、中国から見た東方諸国の称。[広義では朝鮮・沖縄を含み、狭義では日本を指した]     南蛮 (なんばん)  [南方の野蛮人の意] 昔、中国で、インドシナなど南海地方の諸民族の称。 西戎 (せいじゅう)  [西方の野蛮人の意] 昔、中国で、チベット族やトルコ族など西方の異民族の称。北てき (ほくてき)  [北方の野蛮人の意] 昔、中国で、匈奴 (きょうど)・韃靼 (だったん) などの遊牧民族の称。

 

>そのためにも戦後の対米従属構造を根本的に改め、民族の主権をとり戻すという課題が、われわれに突きつけられている。

 

我々日本人の従属的な態度は改める必要がありますね。    

我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英語にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。 

 

『有能な人材が世界から日本に集まり、ここで世界に向けてサクセスストーリーが生まれるという国家を目指すべきです。 このための具体的な政策課題として (1)英語を第2公用語にする (2)定住外国人に地方参政権を与える (3)インターネットの接続料はじめ知的生産活動の基本コストを諸外国並みにする (4)日本の制度やシステムの中で国際基準と合致しないものを一括して見直す―の4点を提案したいと思います。』 (茂木敏充外務大臣)   

 

我が国の ‘漢字かな’ は世界中何処の国に行っても通用しない。特にローマ字 (alphabet) の代わりに仮名を使用することには害毒がある。仮名漢字表記による学習で自分は世界に通じていると思い込む。だが、これは事実ではない。勝手な解釈により世界に関する独りよがりの解釈は避けられない。私は宿泊先のアメリカ人の名前は知っている。しかし、その綴り方は分からない。つづり字を考えることのない日本人の記憶方法だからである。このような文盲に近い体験の仕方では外国人との文通もできない。地図を見て探すことも難しい。かな書き英語が我が国民の国際化を果てしなく遠ざけているということができる。  

 

国語の勉強は読み書きの練習である。ところが、日本語のかな漢字表記は難しい。特に漢字の字形と音訓の習得に月日を費やし、目的の勉学の成果が遅れている。私の知人に '〇〇健' という名前の人がいる。彼は周りの人から 'タケちゃん' とか、'ケンちゃん' とか呼ばれている。'一体どちらが本当なのか' と私が尋ねると、彼は 'どちらでも良いのですよ' と答える。'でも、戸籍ではどうなっているのか' と尋ねると、'戸籍にはフリガナがありませんから、どう読んでも良いのですよ' という答えであった。これを '日本人の自由' というのであろうか。とりわけ漢字圏以外の国から来た外国人には日本語の漢字は難しい。日本語をローマ字表記にすれば彼らもたちどころに日本語を読めるようになる。読み書きが自由になると一人前の大人として活躍できる。筆記試験でも真の実力が発揮できる。外国人の能力に関してより公平な評価をする社会が我が国内に実現する。ぜひローマ字表記を法制化してもらいたい。  

 

>(浩)

> (集英社新書、348ページ、定価940円+税)     

 

 

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閲覧数197 カテゴリアルバム コメント0 投稿日時2022/01/24 23:24
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