2022年05月01日(日) 

 

 

>「異様なこと」日本の核シェルター普及率0・02%に石破元防衛相   > FNNプライムオンライン 2022/05/01 09:56  

(略)

>自民党の石破元防衛相は5月1日、フジテレビの報道番組「日曜報道 THE PRIME」に出演し、日本で核シェルターの普及が進んでいないことについて「異様なこと」と述べ、早期の整備を訴えた。

 

そうですね。イスラエルやスイスでは核シェルターの普及率が人口当たり100%だそうですからね。彼は今頃気付いたのですかね。  

   

>ロシアによるウクライナ侵攻で、プーチン大統領が核兵器の使用を示唆する中、日本において核シェルターは、ほとんど普及していない。  

 

我が国は世界唯一の被爆国ということで核兵器の使用は2度とないと国民は安心しているのでしょうかね。自国が核兵器を使用しなければ、他国も使用しないと日本人は信じて疑わないようですね。   

私も核シェルターの大切さには気が付きませんでしたが、報道番組に出席されている議員の方々も至極平然とした顔をされていましたね。とくに現状を悩んでいる様子もありませんでしたね。やはり我が国民の真の代表のように見えましたね。彼らは時代の先覚者ではないですね。  

 

>こうした現状について石破氏は「異様なこと」と危機感を示した。   

 

彼は現状打破について特に固い決意を示しているようでもありませんでしたね。  

日本人には意思 (will) がない。つまり、無心である。意思は英語の未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には時制 (tense) というものがないので、日本人には意思がない。

意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there's a will, there's a way. 日本人には意思がない。仕方がないので無為無策でいる。おとなしい。優柔不断・意志薄弱に見える。能動がなくて受動ばかりの生活を送っている。だから戦時中は、玉砕するまで戦い抜いた日本兵であった。困った時には '他力本願・神頼み' になる。思考停止に陥っていて生きる力 (vitality) が不足している。

 ' やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かず' 山本五十六 (やまもと いそろく)

どうやら '指示待ち人間' ができあがったようです。この筋道で成功すると、その人は後追いの専門家になりますね。後追いの人は世論の指導者としては適格ではないでしょう。 

 

>石破氏はさらに「東京の港区や品川区の人がどこにシェルターがあり、どこに逃げたらいいのか、ほとんどの方は知らないと思う」と指摘し、「政府与党が危機意識を持って、シェルターの整備をしないといけない」と述べた。  

 

日本人は核廃絶を常に叫んではいるが、核兵器に対する危機意識はさらさらないですね。だから、核兵器に対処する法を真剣に考えていない。  

'敗因について一言いはしてくれ。我が国人が あまりの皇国を信じ過ぎて 英米をあなどつたことである。我が軍人は 精神に重きをおきすぎて 科学を忘れたことである'  (昭和天皇)   

 

>またシェルターについて「攻撃だけではなく、災害にも使える」と述べ、「シェルターの整備は、本当に今一番急がなければいけないこと」と強調した。   

 

自然災害の多いわが国において、国民に持続する危機意思がないのは困ったものですね。’のど元過ぎれば熱さを忘れる’ という事か。  

 

>日本における核シェルターの人口当たりの普及率は、「日本核シェルター協会」の2014年の発表では0・02%。アメリカの82%、イギリスの67%と比べて、大幅に遅れている。   

 

‘遅れている’ というが、わが国は各国と核シェルターの普及を競争している気配はないですね。    

言語は伝達の手段であるばかりでなく、思考の重要な手段でもあります。ですから我々の考えの疎かな所は日本語のせいであることもあります。   

非現実 (考え) の内容は、英語の時制のある文により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観と言われている。これらの三世界は時制により構文が異なるので、同次元で語ることができない。それで独立した三世界になっている。この規則を the sequence of tenses (時制の一致) と呼ぶ。日本人の初学者が英論文を書くときに難渋する規則である。 

世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を自分自身で埋めて行く。自己の 'あるべき姿' (things as they should be) もこの中にある。来るべき世界の内容を語ることは、時代を先取りすることである。

自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実 (things as they are) の内容を批判 (縦並びの比較) すれば、批判精神 (critical thinking) の持ち主になれる。批判精神のない人の文章は、ただ現実の内容の垂れ流しになる。全ての事柄は他人事になる。これは子供のようなものである。日本人も英米人も子供の時には非現実 (考え) の内容というものがない。だから ‘話を告げる’ (to tell a story) ということは、’作り話をする’ とか ‘嘘を吐く’ という風に受け取られて悪い子供とされている。この判定だけがわが国では一生涯続く。

日本語の文法には時制がない。だから、日本人には非現実を内容とする世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。残念ながらマッカーサ元帥の '日本人12歳説' を否定できる人はいない。  

意見は比較の問題である。現実の内容と非現実の内容があれば批判精神が発揮できる。英米人の意見はこれである。これは縦並びの比較ということができる。建設的である。進歩が期待できる。希望が持てる。現実の内容だけであれば、その比較は '現実' 対 '現実' の上下判断 (横並びの比較) になり、'どっちもどっちだ' がある。そこで、不完全な現実に囲まれて無力感に苛まれる。この種の比較は復讐に復讐を重ねる民族同士の争いの原動力にもなっていて進歩が期待できない。 

イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。   

何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)       

 

 

 

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閲覧数169 カテゴリアルバム コメント0 投稿日時2022/05/01 13:56
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