2022年05月05日(木) 

 

 

>JBpress   >日本人が忘れてはならない4月28日、「悔恨の独立記念日」  >山下 英次 - 5 時間前

>サンフランシスコ講和条約で日本は独立したはずだった  > さる4月28日は、サンフランシスコ講和条約が発効してちょうど70周年だった。  > 1952年(昭和27年)のこの日、わが国は占領軍の統治から解放されて、独立したはずだった。  > 日本の歴史上一つの重要な画期であったはずであるが、一般にそのような認識が乏しく、「独立記念日」としなかった。 > 本来、独立記念日とすべき日をしなかったという意味で、私は、この日を「悔恨の独立記念日」と呼ぶことにしている。  

 

我が国は独立戦争を戦わなかったから独立記念日がないのでしょうね。    

 

> 4月28日、産経新聞が「占領の呪縛を解くときだ―ウクライナの悲劇から学べ」と題する一本扱いの長文の社説を掲載した。   

 

ロシアは非核保有国のウクライナに堂々と侵攻し、核で威嚇していますね。頭の中にお花畑を持っている日本人には、これは対処不能の出来事ですね。   

 

> GHQ占領の呪縛を解くべきだと社説で述べた新聞は、1952年のサンフランシスコ講和独立後初めてのことだと思う。 >ここまで来るのに、実に70年間もかかってしまった。   

 

占領の呪縛とは何ですか。呪縛の吟味が必要ですね。      

 

 (略)   

> 戦後のGHQ占領下にあって、言論統制があったことを新聞の社説で最初に認めたのは、実は現行憲法施行50周年に当たる1997年の3月30日付けの読売新聞(「言論管理下の戦後民主主義」と題する一本扱いの長文の社説)である。  > それ以来、ちょうど四半世紀ぶりに、今回の産経新聞の社説が出たわけである。   

 

我が国民は言論統制には興味がないですね。だから、どこの社説でも言論統制を取り扱わないのでしょう。       

 

> 戦後、GHQによる言論統制があったことを社説で正式に認めたのは、この70年間でおそらくこの2本だけだと思われる。 > 近年においてますます強まる中国からの脅威に加え、2月24日からのロシアのウクライナ侵攻を契機に、国防を中心として日本の国の在り方が問われている。   

 

そうですね。中ロはけしからんですね。      

 

> 産経以外の他紙は、講和独立70周年の日に、どのような社説を掲載したのであろうか?  > 調べてみたが、以下の通り、いつものようにトピカルな問題を扱うばかりで、サンフランシスコ講和条約70周年を契機に、わが国の国家主権の在り方を問うような新聞は、残念ながら皆無であった。   

 

それは非常に残念なことですね。   

 

>読売:ツイッター買収「有害情報の自由化は許されぬ」   >  :電動自転車「安全第一で使いこなしたい」  >朝日:物価高対策「負担分かち合う戦略を」   >  :ウクライナ危機「外交の再起動も必要だ」  >日経:「金額ありきではない防衛力強化の議論を」   >  :「日韓改善へトップが示す決意」  >毎日:ウクライナ危機、国連トップの訪露「停戦に向けさらなる関与を」   >  :ワクチンの4回目接種「対象限定の説明を丁寧に」   >東京:ツイッター買収「自由と公正を保てるか」   >  :中国と南太平洋「新たな火種とせぬよう」   >NHK:番組表を見る限り、地上波にもBS放送にも、講和条約発効70周年を記念した特集番組は見当らない   

 

我が国の ‘主権の在り方’ に関しての社説は存在しませんね。   

 

> 日本はいまや、歴史上の重大な岐路に差しかかっていると言える。   >国難と言っても過言ではないのではないだろうか。   

> そうした状況にあって、講和条約発効70周年は、「国家主権」とか「真の国の独立」といった問題を取り上げ、天下国家を論ずるのに最適な機会であった。   

 

そうですね。 何しろ日本人は無哲学・能天気な国民ですからね。思考を停止しているので政治哲学というものがない。ノンポリ・政治音痴ですからね。  

 

> こうした絶好の機会を失ってしまった産経以外の新聞各紙とNHKは、自らの不明を恥じるべきではないだろうか?    

 

それは大げさな。’国家主権’・’真の国の独立’ に関する課題は、いつ論じてもよい問題ですね。   

 

> 4月28日が、日本の歴史にとって極めて重要な日だという認識は全くなく、すっかり忘却の彼方にあるということであろうか。   

 

そうでしょうね。忘却は日本病のようなものですね。   

 

> 1945年8月15日の第2次世界大戦の熱戦終了後、占領軍は今度は心理戦だぞとばかりに、意気揚々と日本に乗り込んできた。 > 焼け野原にされて、茫然自失状態になった日本人は、この心理戦(洗脳戦)に徹底的にやられてしまった。   

 

'敗因について一言いはしてくれ。我が国人が あまりの皇国を信じ過ぎて 英米をあなどつたことである。我が軍人は 精神に重きをおきすぎて 科学を忘れたことである'  (昭和天皇)  

 

> 米国は、熱戦では日本の大中小の夥しい数の都市に対する実弾による絨毯爆撃を行ったが、心理戦では、いわば日本人一人ひとりの頭の中に入り込んで思想の絨毯爆撃を行った。  > 新聞、ラジオを始めとして、ありとあらゆる言論空間が厳しく検閲・統制され、米国側の戦勝国史観が一方的かつ徹底的に日本国民に植え付けられた。

 

そうですね。日本人には思考力はないが暗記力は確かですからね。受け売り専門の国民としての効果はありましたね。         

 

> ドイツでは、戦前からのメディアは、戦後、すべて解体させられた。  > 今日のドイツのメディアは、新聞、雑誌、放送局など、すべて戦後、新たに設立されたものである。  

 

新ドイツの誕生ですね。    

 

> 他方、日本の場合は、戦前からのメディアは、戦後もすべて存続を許される代わりに、いわばGHQの洗脳計画(プロパガンダ計画)に加担させれたのである。 > 当時の日本のジャーナリストたちは、占領軍に強制的に協力させられたわけであり、彼らに罪はない。

 

日本人に罪はありませんね。思考を停止している日本人は根っからの受け売り民族ですね。受験勉強での受け売りにさらに拍車がかかりましたね。             

 

> しかし、GHQが去り、講和独立が成立した後も、今日に至るまで、GHQの言論統制の事実と洗脳を告白してこなかったことは極めて大きな罪である。  > いま、現役のジャーナリストたちも、不作為の罪を犯し続けていると言える。  > メディアは公器であり、日本のジャーナリストたちは、読者・視聴者に対してのみならず、国民全体に対して、占領時代の真実を語る義務がある。  > 言い換えれば、日本のメディアは、国民に対する大きな負債を負っていると言える。   >真実を語らないことは、その負債を日々積み上げていることになる。 

 

日本人に罪はないですね。それには深い深いリーズン (理性・理由・適当) がありますね。      

日本人には意思 (will) がない。つまり、無心である。意思は英語の未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には時制 (tense) というものがないので、日本人には意思がない。

意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there's a will, there's a way. 日本人には意思がない。仕方がないので無為無策でいる。おとなしい。優柔不断・意志薄弱に見える。能動がなくて受動ばかりの生活を送っている。だから戦時中は、玉砕するまで戦い抜いた日本兵であった。困った時には '他力本願・神頼み' になる。思考停止に陥っていて生きる力 (vitality) が不足している。

 ' やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かず' 山本五十六 (やまもと いそろく)

どうやら '指示待ち人間' ができあがったようです。この筋道で成功すると、後追いの専門家になりますね。後追いの人は時代の先取りができず世論指導者としては適格ですね。 

日本人は意思を認めることのできないので、意思決定に難渋して行動開始が遅れる。この事実は明治以前から外国人にも知られていた。

フランク・ギブニー (Frank Gibney)  氏の著書 <人は城、人は石垣> には、日本人の意思決定に関して次のようなことが書かれています。

 ペリー提督は、日本人はアメリカ人のように敏速に行動しないと注意された。それは、このように説明された。数人の日本人が黒船を訪れたいと思って集まったとする。一人が「いい日だな」という。これに二人目が「なんという気持ちのいい日だ」と調子を合わせる。三人目が「波も見えないぞ」という。最後に四人目が「船に行ってみようじゃないか」と提案する。  ニューヨーク・デイリー・ニューズ (1854年6月13日) (引用終り)    

要するに日本人は意思の内容に焦点を当てて話をまとめ上げることが苦手である。だから意思決定が遅れ集団行動の開始が遅れるのである。

 

日本人には意思がないが恣意がある。だから、我が国では恣意 (私意・我儘・身勝手) を鍛えて意思の代わりに利用する。鍛えられた恣意は意地・根性・大和魂などと呼ばれている。そして、日本人は意思決定 (理性判断) の代わりに恣意決定 (盲目の判断) をする。意思に関する討論の代わりに、恣意に関する談合 (腹の探り合い) をする。意思疎通の代わりに、恣意疎通 (阿吽の呼吸・つうかあの仲) をする。意思は未来時制の文章内容になるので意味があるが、恣意はバラバラの単語 (片言・小言・独り言) のままで存在するので意味をなさない。だから責任者は説明責任は取れない。言い訳のできない ‘理由なき反抗’ のようなものになる。そこで悔し涙が出る。    

 

自由とは意思の自由の事である。日本人には意思がない。意思がなければ自由そのものにも意味がない。だから日本人の場合は ‘不自由を常と思えば不足なし’ となる。自己の意思を示せば、当事者・関係者となる。示さなければ傍観者にとどまる。日本人には意思がないので、常に傍観者になる。序列関係のない深刻な事態にも高みの見物をしている。わが国は世界の中にあって、世界に属していない。

 

意思の無い人間には責任がない。これはちょうど死刑執行人の立場のようなもので、彼らは人が死んでも殺人罪には問われない。彼らには殺意という意思がないからである。人々は自己の意思に依ることなく、事の次第・自然のなりゆきにより行動をおこす。だから、リーズン (理性・理由・適当) により行動することが無い。これはアニマルも同じである。説明責任が取れないので、兎角この世は無責任となる。 

‘誰も責任を取りたがらず、誰も自分に責任があると言わなかった。・・・・・ 一般国民が軍部や文民官僚の責任と同等の責任を負っていると心から考えている人はほとんどいなかった。’   (ジョン・ダワー 増補版 敗北を抱きしめて 下)       

日本人が当事者・関係者となるのは自己の属する序列に関する事柄だけである。これを連座性というのかな。日本人の責任は意思の無い義務であるから牛馬の苦しみのようなものである。

肥田喜左衛門の著した <下田の歴史と史跡> には、責任に関する下のような事柄が記されています。

徳川5代将軍の治世、佐土原藩の御手船・日向丸は、江戸城西本丸の普請用として献上の栂 (つが) 材を積んで江戸に向かった。遠州灘で台風のため遭難、家臣の宰領達は自ら責を負って船と船員達を助けようと決意し、やむをえず御用材を海に投げ捨て、危うく船は転覆を免れ、下田港に漂着した。島津家の宰領河越太兵衛、河越久兵衛、成田小左衛は荷打ちの責を負い切腹する。これを知って船頭の権三郎も追腹を切り、ついで乗員の一同も、生きて帰るわけにはいかないと全員腹をかき切って果てた。この中には僅か15歳の見習い乗子も加わっている。鮮血に染まった真紅の遺体がつぎつぎに陸揚げされたときは、町の人々も顔色を失ったという。16人の遺体は、下田奉行所によって大安寺裏山で火葬され、同寺に手厚く葬られた。遺族の人たちにはこの切腹に免じて咎めはなかったが、切腹した乗組員の死後の帰葬は許されなかった。(引用終り)     

    

意思の無い人間には、能動的な行動をとる機会が無く受動的な行動ばかりをする。だから、加害者意識がなく被害者意識ばかりになる。被害者意識ばかりを口にする人間の犯行を見るのも恨めしい。だから、’恨めしや―’ と言いながらわが国では幽霊も出る。    

西洋人のような意思のある人間には加害者意識がある。それは反省の意識ともなり、その意識が高ずると罪の意識にまで発展する。そこで深刻な病める魂を救済する必要に迫られる。だから、贖罪の為の宗教 (キリスト教) の存在には意味がある。   

罪の意識のない人達に謝罪をさせるのは難しい。彼らは謝罪を自虐の強要と間違えて非人道的な問題と捉えて大問題になる。

戦後の占領軍のWGIP ( War Guilt Information Program: 戦争についての罪悪感を日本人の心に植え付けるための宣伝計画) という奇特な計画も見事に失敗しました。これは、アフガンに民主主義を植え付けようとするアメリカ人のようなもでしょうね。日本人に対する罪悪感の宣伝はカエルの面に小便の状態になったのです。  

 

> 4月30日付けの産経新聞への寄稿で、拓殖大学顧問の渡辺利夫名誉教授(元拓殖大学総長)は、平川祐弘東大名誉教授の近著『昭和の大戦とあの東京裁判』(河出書房新社)への書評の中で、以下のように非常に的確な表現で日本のメディアの姿勢を批判している。  >「講和条約により国際社会に復帰し、主権国家として再登場したその時点で、報道機関など日本の言説を担う者達が検閲の事実を不問に付し、逆にいつの間にやら連合国側の歴史観が自分の史観であるかのように主張し始め、この史観を〈内面化〉させる役割を担ってしまった」   

 

占領下は異常な事態ですからね。どうにもならないですね。しかし戦後は日本人の自由ですね。だからどうにでもなる。   

 

> メディアだけでなく、いわゆる「戦後民主主義の進歩的文化人」もしくは「朝日・岩波文化人」と言われる人たちが、GHQの洗脳を継承し、いわば拡大再生産し続けている。 > すなわち、GHQの洗脳は、今日に至るまで続いてしまっているのである。   

 

我々は受け売り専門の民族ですね。これは受験勉強による弊害のようなものか。      

 

> いまだに多くの国民が、GHQの洗脳から抜け出せないのは、非常に厳しい言論統制を伴った極めて周到なWGIP(ウォアー・ギルト・インフォメーション・プログラム)という洗脳計画があったことを、メディアがほとんど認めてこなかったことが非常に大きな原因である。

 

日本人はWGIPにより洗脳されませんでしたね。カエルの面に小便ということですかね。わが国では神社も寺院も罪の儀式を受け付けませんね。           

 

> そのため、私は2014年から、雑誌などへの寄稿を通じて、大手メディアは読者・視聴者に対してGHQ洗脳に加担させられたことを告白し、懺悔すべきだと主張してきた。  

 

それは被害者意識へのこだわりですかね。   

 

> わが国は、現在、大きな国家的な課題をいくつも抱えている。> それらの問題を解決するには、日本が真の意味の独立主権国家にならなければ解決できないものがほとんどである。  > わが国は、当然のことながら、経済力、国民の資質など、潜在力はすべて備えている。  >足りないのは、国民がその気になっていないことだけである。   

 

そうですね。しかし日本人がその気になるのは難しいことですね。

我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英語にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。 

『有能な人材が世界から日本に集まり、ここで世界に向けてサクセスストーリーが生まれるという国家を目指すべきです。 このための具体的な政策課題として (1)英語を第2公用語にする (2)定住外国人に地方参政権を与える (3)インターネットの接続料はじめ知的生産活動の基本コストを諸外国並みにする (4)日本の制度やシステムの中で国際基準と合致しないものを一括して見直す―の4点を提案したいと思います。』 (茂木敏充外務大臣)   

 我が国の ‘かな漢字’ は世界中何処の国に行っても通用しない。特にローマ字 (alphabet) の代わりに仮名を使用することには害毒がある。仮名漢字表記による学習で自分は世界に通じていると思い込む。だが、これは事実ではない。勝手な解釈により世界に関する独りよがりの解釈は避けられない。私は宿泊先のアメリカ人の名前は知っている。しかし、その綴り方は分からない。つづり字を考えることのない日本人の記憶方法だからである。このような文盲に近い体験の仕方では外国人との文通もできない。地図を見て探すことも難しい。かな書き英語が我が国民の国際化を果てしなく遠ざけているということができる。  

国語の勉強は読み書きの練習である。ところが、日本語のかな漢字表記は難しい。特に漢字の字形と音訓の習得に月日を費やし、目的の勉学の成果が遅れている。私の知人に '〇〇健' という名前の人がいる。彼は周りの人から 'タケちゃん' とか、'ケンちゃん' とか呼ばれている。'一体どちらが本当なのか' と私が尋ねると、彼は 'どちらでも良いのですよ' と答える。'でも、戸籍ではどうなっているのか' と尋ねると、'戸籍にはフリガナがありませんから、どう読んでも良いのですよ' という答えであった。これを '日本人の自由' というのであろうか。'あるべき姿' の追及がない。だから表記法の改革も進まない。とりわけ漢字圏以外の国から来た外国人には日本語の漢字は難しい。日本語をローマ字表記にすれば彼らもたちどころに日本語を読めるようになる。読み書きが自由になると一人前の大人として活躍できる。筆記試験でも真の実力が発揮できる。外国人の能力に関してより公平な評価をする社会が我が国内に実現する。ぜひローマ字表記を法制化してもらいたい。          

為せば成る。為さねば成らぬ何事も、成らぬは人の為さぬなりけり。 (上杉鷹山)        

 

> なぜ、国民がその気になっていないかと言うと、多くの国民が、いまだにGHQの洗脳から抜け出ておらず、自虐史観に捉われているからである。  

 

思考停止は洗脳を生み出し、無意思は自虐史観を発展させますね。   

 

> 国土交通省の技監を経験した大石久和氏は、その著書『国土が日本の謎を解く』(産経新聞出版、2015年)の中で、最近、霞が関の課長クラス何人かと話す機会があったので、戦後GHQによって、戦前戦中にも増して厳しい言論統制があったことを話題にしてみたが、誰一人としてその事実を知らなかったと嘆いている。   

 

これは歴史の勉強ですね。  

 

> 占領下で非常に厳しい言論統制があったことすらも知らないとすれば、そうした人たちは、まだ間違いなく、GHQ洗脳から脱していないことを意味する。   

 

GHQはとうの昔に消え去りましたね。持続の力は何処に存在するのかな。       

 

> そんなことでは、中央官庁の幹部として、誇り高い日本の国の政策を立案・実施できるわけがないのではないないだろうか?   

 

彼等には西洋流の教養が不足していますね。   

現実 (事実) は見ればわかる。Seeing is believing. 現実の正解は一つしかない。日本人は正解が一つしかない問題を作る。だから、ご唱和の内容になる。

非現実 (考え) の内容は見ることができない。だが文になる。文にならないものは考えではない。

矛盾を含まない文は、全て正しい考えを表している。考えは、一人一人違っている。だから、正解は無数にある。体系的な考えは哲学になる。各人に哲学は必要である。 Everyone needs a philosophy.  思考を停止して人は、つかみどころのない人間になる。日本人には考え (非現実) がない。だから、わが国のインテリは受け売り専門の人になる。     

 

イザヤ・ベンダサンは、自著<ユダヤ人と日本人>の中で、我が国の評論家に関して下の段落のように述べています。

評論家といわれる人びとが、日本ほど多い国は、まずあるまい。本職評論家はもとより、大学教授から落語家まで (失礼! 落語家から大学教授までかも知れない) 、いわゆる評論的活動をしている人びとの総数を考えれば、まさに「浜の真砂」である。もちろん英米にも評論家はいる。しかし英語圏という、実に広大で多種多様の文化を包含するさまざまな読者層を対象としていることを考えるとき、日本語圏のみを対象として、これだけ多くの人が、一本のペンで二本の箸を動かすどころか、高級車まで動かしていることは、やはり非常に特異な現象であって、日本を考える場合、見逃しえない一面である。 (引用終り)   

 

大学などの高等教育機関で論文作りに励めば学士・修士・博士などの称号が得られる。博士は普通 '哲学博士' (Doctor of Philosophy: Ph. D.) と呼ばれる。

私は日本のインテリから ‘哲学とは何ですか’ と何度も聞かれた。外国人からは、このような質問を受けたことはない。日本人は大学で、自己の哲学を作ることを学んでこなかった。だから彼らは退屈男・退屈女となって大学在学中の4年間を遊んで暮らさなければならなかった。       

政治に関する考えは政治哲学になる。宗教に関する考えは宗教哲学になる。科学に関する考えは科学哲学になる。人生に関する考えは人生哲学になる。などなど。  

我が国の政治家には政治哲学がなく、わが国の宗教家には宗教哲学がない。わが国の科学者には科学哲学がなく、わが国の著述家には人生哲学がない。などなど。   

‘私は絶対に日本人を信用しない。昨日までの攘夷論者が今日は開港論者となり、昨日までの超国家主義者が今日は民主主義者となる。これを信用できるわけがない’  (あるアメリカの国務長官)    

TBSブリタニカとブリタニカ国際大百科事典を作ったフランク・ギブニー氏は、自著 <人は城、人は石垣> の中で、我が国の作家について次の様な感想を述べています。

孤立は日本式スタイルを誇る詩人、随筆家はいうに及ばず、小説家において最も顕著である。これは外国人にとっては判断をはばかられる主観的な領域である。しかし文学界で最も尊重される文章が意味を省略し、あいまいさに富み、漢字をうまく使って読ませ、文法分析家を意気揚々と悩ます一種の「気分の流れ」であることは一般に真実である (私の思考パターンは取り返しのつかぬほど西洋的なので、私は自分がスラスラ読めるような日本語の散文は深刻なまでに文学的優雅さに欠けているにちがいない、という大ざっぱなルールをとっている)。(引用終り)

我が国には人手不足の話はあるが、頭脳不足の話はない。わが国は、無哲学・能天気の国である。だから、国民は歌詠みになる。バラバラな単語ばかりの歌詞には意味がない。 

 

イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で、言葉 (ロゴス) について以下のように語っている。

、、、、、 母親が子供に「チャント・オッシャイ」という場合、明晰かつ透明 (英語ならクリヤー) に言えということでなく、発声・挙止・態度が模範通りであれ、ということである。だが、クリアーということは、原則的にいえば、その人間が頭脳の中に組み立てている言葉のことで、発声や態度、挙止とは全く関係ないのである。プラトンの対話篇から、例として『クリトン』をあげてみよう。この対話は、明日の死刑執行を前にして、夜明けに、獄中のソクラテスをクリトンがたずねて、脱獄をすすめるところからはじまる。もちろんソクラテスは寝ている。だがどう読んでみても、ソクラテスが起き上がって、威儀を正して、法の遵守を説いて、クリトンに反論したとは思えない。ソクラテスは、おそらく最後まで寝っころがったままで話しているのだ。従って、この場合、純粋に、ソクラテスの言った言葉 (ロゴス) だけが問題なので、彼の態度や語調は全く問題にされないのである。日本では、「その言い方は何だ」「その態度は何だ」と、すぐそれが問題にされるが、言っている言葉 (ロゴス) そのものは言い方や態度に関係がない。従がって厳然たる口調と断固たる態度で言おうと寝ころがって言おうと言葉は同じだなどとは、だれも考えない。従って純然たる会話や演説の訓練はなく、その際の態度と語調と挙止だけの訓練となるから、強く訴えようとすれば「十字架委員長の金切声」という形にならざるをえない。(引用終り)     

日下公人氏は、<よく考えてみると、日本の未来はこうなります。> の中で、日本人に関するW.チャーチルの感想を以下のごとく紹介しています。

日本人は無理な要求をしても怒らず、反論もしない。笑みを浮かべて要求を呑んでくれる。しかし、これでは困る。反論する相手をねじ伏せてこそ政治家としての点数があがるのに、それができない。

 それでもう一度無理難題を要求すると、またこれも呑んでくれる。すると議会は、今まで以上の要求をしろと言う。無理を承知で要求してみると、今度は笑みを浮かべていた日本人が全く別人の顔になって、「これほどこちらが譲歩しているのに、そんなことを言うとは、あなたは話のわからない人だ。ここに至っては、刺し違えるしかない」と言って突っかかってくる。

 英国はその後マレー半島沖で戦艦プリンスオブウェールズとレパルスを日本軍に撃沈され、シンガポールを失った。    

 

> 教科書を含めた学校教育が問題なのであるが、メディアが占領下の真実を語ってきたとすれば、こうしたことは決して起こらないはずである。

 

日本のメディアは良い考え方 (非現実) を読者に紹介しませんね。事実 (現実) の丸投げですね。   

 

> 今回の産経新聞の社説は、戦後、メディアがGHQ洗脳に加担させられたことについて、直接的に触れているわけではないので、私の言う告白も懺悔もしていないわけであるが、占領の呪縛を解き、真の意味で主権を回復すべきだと主張しているわけであり、一歩前進と言える。  

 

占領の呪縛は、日本語による呪縛と言えるのではないでしょうか。   

 

> 私が、8年前から熱心に働きかけてきたことの初めての成果と言えるものであり、その意味で基本的に歓迎したい。 > 今回の産経の社説は、1997年3月30日の読売新聞の社説よりはるかに踏み込んだ内容である。  > 1997年の読売の社説は、内容的にかなり不十分であった。  >この次は、読売新聞から、さらに大幅に踏み込んだ内容の社説を期待したいものである。   

 

御説の発展を祈ります。   

 

 

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閲覧数154 カテゴリアルバム コメント0 投稿日時2022/05/05 16:54
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