東海地方の自然災害を語り合い、日常の注意を喚起する会。
災害は忘れた頃にやってくるというけれど、親子三代の記憶の寿命が約百年くらいとすると、百年以上の間隔で起こる巨大地震の恐ろしさなどは、忘れられてしまうわけである。 掛川城のほとんどが倒壊した安政の大地震(安政元年=1854年11月4目)も、その激震ぶり(震度7)が言い伝えられてはいるか、体験した人の子はもちろんのこと、具体的な現象を実値的に親などから聞かされた人も、もう記憶がはっきりしなくなっている。 日本大地震年表によると、東海地方には、明応七年(1498)慶長九年(1604)宝永四年(1707)安政元年(1854)昭和十九年(1944)と、ほぼ百年きざみで大地震が起こっている。しかし、昭和十九年の東南海地震は、駿河湾に達していなかったので、駿河湾には巨大エネルギーがたまっているとされ、それが東海大地震説の根拠となっている。 市内道家(ゆけ)の旧家、山崎家には第二十二代久摩氏が残した、安政の大地震に関する記録がある。それによると、「当日11月4日は、西風が強く吹いていて、朔9時頃、突然大きな音がして地震が起こった。(中略)書を読んでいた私は、幾度か転んで、外へ這(は)い出ると塀の一部が倒れ、別家は今にも倒れんばかり振動していた。家族はみんな転びながら西の藪(やぶ)の中へ逃げた。(中略)道路にいた人は、田の水が飛び散って目もあけられない有様で、そのため道の上についている下駄の跡の凹んだところに手をかけておさまるまで伏していた。(中略)掛川の方を見ると二、三箇所から出火、南西には黒煙が揚がっていた。掛川宿では七十八人が焼死した。三ケ野坂(磐田)から東山口までの東海道筋で建っている家は、一軒もないということであった。津波で下田の死者は700人余という。 久摩氏もいうように、安政前後は大地震が多かった。すなわち地震年表によると、①弘化四年(1847)善光寺大地震、倒壊30040戸、死者12000人 ②嘉禾六年(1853)相模、伊豆、駿河、小田原大被害、死者79、倒壊3300 ③安政元年(1854)11月4目 東海、南海道大津波、倒壊流失8300、死者1000 ④安政元年11月5目五畿七道大津波、全壊10000、流失15000、死者3000 ⑤安敬二年(1855)江戸大地震、死者7000、倒壊焼失14346 安政の地震は、荷馬車の馬が転んでしまったというから、とにかくすさまじい揺れ方だったのであろう。 郷土史家関七郎氏の調査によると、当時旧掛川町十三町の総戸数は、1019戸で、そのうち焼失597戸、潰家422戸、死者46人であったという。かけがわ 昭和59年12月1目 第647号市長レポート N0.154 掛川学事始
◎藤塚浜 清明塚 (せいめいつか)この地は江戸時代の書物に「陰陽師で名高い阿部清明が護摩を焚いた所といわれ、今も燃石の様な物がある。俗に厄神除けといい疱瘡、麻疹等が流行のとき参詣者が多い」と、また「清明が卜筮し近日津波で家が流され溺れ死が多かろう事を嘆いた。村人が驚いて水難を免れる法を尋ねると、浜に赤石を集め塚を拵えるよう教えた。翌日大津波で浜辺の家は皆流されたが藤塚だけは流されなかった。山の高さは二間余。石を持ち帰ると祟りがある」(遠州古跡図絵) とある。今では願をかけて石を一つ借りて持ち帰り、適うとお礼参りに二つ返すという。原典 <掛川市の神社・寺院めぐり> かけがわ街づくり株式会社 発行http://blogs.yahoo.co.jp/crazykatsu/16000387.html