市民記者コーナーの「『秋葉街道(塩の道)散策』 vol.3 原谷ルート」
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『秋葉街道(塩の道)散策』 vol.3 原谷ルート
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2010年06月23日 21:27
前述の細谷のASさんによると、家代方面からの街道は現在の宇洞トンネルの手前100m位のところから北に上がって行き、通称殿谷(とんのや)を迂回して富部からの街道に合流して行くということです。


(真っすぐ右へ進むとトンネル、左折して北進すると「よみうりC.C.」方面)

平安時代から室町時代にかけて500年近くも原野谷川流域を中心とする地域を支配して来たのは原一族です。
殿谷(とんのや)と呼ばれる地名は今でもこの辺りに存在しています。
○○の谷(や)と言うのは谷あいに扇状に広がる土地の事で、“殿谷”とはお城山を中心に広がっている土地という意味なのでしょう。
本郷地区の歴史研究家のSSさん(62歳)によると原氏は藤原氏の流れを汲む一族で、初代原師清(もろきよ)は1098年に没しているという記録が残ってるそうです。
殿谷城=高藤城はその8代目忠益が歴応元年(1338年)頃に築城したと言われています。
しかし1494年、北条早雲率いる今川軍の攻撃によって原谷郷は完全に焼き尽くされてしまいました。
国人領主としての原氏は明応6年(1497年)に滅亡し、そのあと今川軍の手によって現第一小学校の北側に掛川城(古城)が築城されたと言われています。



ところで原野谷川流域には原谷、原田、原泉、原川、など「原」の付く地名が数多くありますが由来は全て「原氏」から来ているものだそうです。

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原谷に入ると塩の道の看板は角ごとに表示されていますが、相変わらず右に左に曲がりくねった道の連続です。



暫らく歩くと「長福寺」というお寺にさし掛ります、この山門の手前にこの地域の秋葉街道の「御灯明」が残されていました。



長福寺と言えば掛川でも歴史ある古刹の一つで、天慶7年(944年)長福寺の釣り鐘が奈良県の大峰山まで天狗によって空を飛んで運ばれた、という有名な伝説が残っています。
実際に大峰山にはこの鐘が存在していますので不思議な出来事ですが、この話題はまた後日述べることにします。

長福寺を少し下ったところで畑仕事をしていたSBさん(90歳)というおばあちゃんに出会いました。



原谷には当時4軒の旅籠屋(宿屋)があり、SBさんのお宅はそのうちの1軒で「かね七」という屋号だったそうです。
明治の初め頃までは飛脚もやっていて「かね七」が原谷での駅になっていたようです。
参勤交代の行列に遭遇しても飛脚だけは土下座をせずに走って行くことを許された、という面白い話も聞く事が出来ました。
その後、秋葉街道に新道ができると馬車が行き来するようになり、東海道線が開通すると掛川駅には人力車が待機していて人力車はこの辺までお客を乗せて走って来たということです。


おばあちゃんに「塩の道と表示されている道は一部違うから本来の道を案内してあげるでね」と言われて昔話を聞きながら暫らく一緒に歩く事にしました。



「その先は山の中でやっと人が通れるくらいの道が残っているけど、蛇が出るからまた寒いころになって私がまだ生きていたら案内してやるで・・・」と言われたので今回の塩の道の探訪はここまでにしました。

<追記>
ある記述によると現在の「塩の道」はわざわざ造られたものではないそうです。
遠い昔、我々の祖先が南方から遠州灘に辿りついたのち内陸部へ進んで行く為の、云わば「けもの道」みたいなものだったのではないか?との事です。
「日本の開拓者達の道だったの?」と思うと、これまたロマンを感じてしまいます。

by Oz

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Re: 『秋葉街道(塩の道)散策』 vol.3 原谷ルート
【返信元】 『秋葉街道(塩の道)散策』 vol.3 原谷ルート
2010年09月16日 14:54
8月20日~9月20日まで、掛川駅の今昔写真展を掛川市役所2回ロビーにて開催しています。


もしかしたらその写真に、人力車や馬車の姿が写っていないか、と思って見に行ったところ、しっかりと人力車が写っていました。
さすが乗合馬車の姿はありませんでしたが、代わりに「木炭自動車」なる物が写っていました。

古い写真は値打ちものですよ!それも白黒写真だからこそです。
昔のカラー写真は時間がたつと消えて行きますからネ。