<実はNINJAって・・・・> 7月28日(土)静岡県主催“ふじのくに子ども芸術大学「探検!掛川城歴史ハッケン伝」”という歴史講座が掛川城にて開かれました。
参加者は小学5年生から中学3年生が対象で、講師は映画「武士の家計簿」の原作者でもおなじみの歴史学者・磯田道史先生です。
その先生に解説して頂きながら掛川城の施設を巡り、子供たちからの質問にお答えしていくという趣向です。
例えば「お殿様はいつもごちそうを食べていたのですか?」という質問には「意外と質素で庶民と比べても極端な違いはなかった」といったような答えが返ってきました。
将来、この子供たちが歴史家になって再び掛川城を訪れることを期待しています。
さて今回のツアーでは私が忍者姿で先導を務めることになったため、待機しているときに忍者についての質問がたくさんありました、今回は主にそれらをご紹介したいと思います。
1.掛川にも忍者がいたのですか?
古くから日本各地に忍者は存在していた、逆に忍者を雇っていない城主は無いと言っていい。
特に「掛川城の戦い」前後の混乱期に掛川城周辺地域では、徳川方の忍者が武田方の忍者と対峙(たいじ)しており、1569年の掛川城の戦いでは家康の側近として服部半蔵正成の名前も記されている。
2.どんな仕事をしていたのですか?
主に情報収集、相手の動向や勢力(人数、武器など)などの偵察、現代風にいうと秘密諜報員のような存在だった。
火薬、鉄砲の扱いに長(た)けていたので重宝がられ、実戦では狙撃手としても活躍した。
3.忍者はどんなものを食べていたのですか?
任務に就くときは、高カロリーで高たんぱくな干し肉(ビーフジャーキーのような)や鰹節などを携行していたと思われる。
4.江戸時代にも忍者はいたのですか?
江戸時代になると町民と結婚して城下に住み、情報を集めていた。
石高によって違いはあるが、掛川藩(5万石)くらいだと数人の忍者を抱えていた。
例えば参勤交代の際には夜は寝ずに殿様の警護をして、日中はまた行列に加わるといった過酷な勤務をさせられていた。
5.いつごろまで忍者はいたのですか?
1853年にペリーが来航した際、黒船に忍び込んで装備を探ったのが忍者としての最後の任務だっただろうと言われている。
岡山藩には明治2年に忍者に対してお役御免(解雇)を言い渡した記録が残っている。
それに対して忍者たちはとても喜んだらしい。
6.忍者は読み書きができたのですか?
常に変わる符牒(ふちょう)(暗号)などを使って通信していたので「密書」などの読み書きはもちろん、優れた記憶力も必要だった。
当然ながら並外れた体力や運動神経は必須条件であり、任務も他の侍に比べずっと過酷だったが表舞台で評価されることはなかった。
おそらく今年末くらいになると思いますがNHK「BS歴史館」で磯田先生が忍者についての解説をして頂けるようです。
その中で上記のような内容を含めてお話しして下さるようですので、ご期待ください。
磯田(いそだ)道史(みちふみ)
岡山県出身、歴史学者、慶應義塾大学卒、平成14年同大学院文学研究科博士課程修了、平成24年4月より静岡文化芸術大学文化政策学部准教授、著書「武士の家計簿」は森田芳光監督により映画化された。