まち本!の「茶業の「原点」と「これから」~杉本周造さん(掛川信用金庫 顧問)に聞く~」
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茶業の「原点」と「これから」~杉本周造さん(掛川信用金庫 顧問)に聞く~
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2011年04月21日 13:15
茶業の「原点」と「これから」
~杉本周造さん(掛川信用金庫 顧問)に聞く~

■茶業のはじまり
私の家は、先代(杉本権蔵)が幕府直轄の山林である「御林」(要塞地帯だと思うんですがね)の払い下げを受けて、でも要塞地ですから道も何もないわけです。何を作ろうかといろいろのことをして、結局、お茶になりました。大井川に橋がかかったことで職を失った川越人足たちを集め、開墾に入りました。明治3年のことです。

祖父(杉本九蔵)の時代は、手摘み手揉みです。100人以上の人が泊まり込みで手摘み手揉みをやっていました。馬を飼い、粗揉機(そじゅうき)を馬でまわしていました。馬は2頭いたみたいですね。草競馬みたいなこともしていたらしいですよ。今のゴルフみたいなもんですかね(笑)。「信用組合の事務所におじいさんがよく馬で来ましたよ」と言われました(笑)。


■現場が道具や機械を開発した
権蔵はあまり百姓をしなかったようです。九蔵の時代に馬で機械をまわしはじめ、だんだんと発動機でまわす機械が開発され、精揉機(せいじゅうき)とか、揉捻(じゅうねん)とか、中揉機(ちゅうじゅうき)とかの機械ができました。
戦後、掛川に帰って茶業に関わるようになりましたが、いろいろな失敗がありました。何も知らないものだから、肥料を皆さんと同じようにやっても出ないわけです。何年も土がそのままの状態でコチンコチンになっていたから、肥料をやっても雨で流れて吸収されないわけです。当時は耕運機なんてありませんから、牛を使ってすいたんです。でも、全部の茶畑でできるわけじゃない。
そんなふうにたくさんの失敗があり、本当にいろいろ考えました。農業、茶業の労働生産性はどうしたら上がるのか、それがまず基本じゃないかと。同じ肥料をやっても、肥料効率を良くするためには土を改良しなければいけない。どういう道具が必要なのかと。

私は思うんですがね、掛川の茶業界の素晴らしいところは、茶業の現場が生産性を上げるための道具や機械を自ら開発してきたということです。手摘みをハサミに変える、茶畑の形に合ったハサミを開発する、ハサミに板が付いていてそのまま葉っぱが袋に入る道具を作る、そんなふうに現場で道具や機械を開発してきた。内田式のハサミとか、製造機械の蒸機は宮村式とか、精揉機は八木式、粗揉機は高林式だとか、それぞれ特徴のある機械を開発し、それで茶業界はどんどん生産性を向上していったんです。よその大手企業が開発したんじゃない、そこが素晴らしいですね。

■深蒸し茶の誕生
それが昭和30年代に入って輸出していたお茶が売れなくなり、お茶が暴落しました。日坂東山でもお茶を作っている人たちが報徳社の常会に集まり、「これからどうするか」「お茶をやめてほかのものを作るのか」「何かいいものはあるか」「日坂東山の地形だとみかんはどうだろう、栗はどうだろう」といろいろ話し合いました。でも、これというものがない。新しく産地として売り出すのは大変なことです。そんな中、「同じ苦労するならお茶で苦労したらいいじゃないか。お茶でいこう」とみんなの気持ちが固まりました。そうしたところに国の施策として農業構造改善事業や「はたそう」と呼ばれた国の茶業対策がありまして、農道を作り、扇風機をつけ、大井川の水を持ってきて散水施設ができたわけです。今、日坂東山に行くと、スプリンクラーが水をまいています。あれが「はたそう」の事業だったんですね。
大井川の水を、牧ノ原を越えて掛川の茶畑に持ってくるなんて本当にすごいことですね。

そういう国の施策もあって、みんなが本気でお茶に取り組んでいたときにできたのが深蒸し茶です。掛川のような丘陵地帯のお茶は、日照時間が長く、川根とか宇治とか狭山のように日照時間が短く、霧がつける峡谷のお茶とはそもそも葉っぱの性質が違うわけです。もうお亡くなりになりましが、葛川の鈴木茂さんが考案して、香気を犠牲にしても味本位のお茶を作ることにしたわけです。それには最初の工程の葉っぱの蒸し方から徹底的に蒸します。蒸す機械も胴が長く、蒸している時間も長い。機械も改造しました。品質をまったく変える、つまり「深蒸し茶」という新しいお茶を考え出したわけです。
ところがね、粉ばっかりなんですよ。よれる前に粉になっちゃう。今までは細くよれているのが「いいお茶」と言われてきたわけですから、それが粉ばっかりじゃあ「これでは売れない」と生産者が言ったのも無理のない話なんです。でもそのとき、県会議員の角替清一郎さんが「鈴木さんのお茶がいいんじゃないか、やってみよう」とすすめたんです。それで東山や中山の一部の生産者が「やろう」と動き始め、それから仙台のお茶屋さんとか、消費地の問屋さんで買ってくれるお茶屋さんも出てきて、だんだんと「深蒸し茶」の根が生えてきたのです。

■社会情勢、製造技術とマッチした深蒸し茶の特性
昭和40年代以後、高度成長によって社会情勢は大きく変わり、茶業界も変わっていきました。茶農家は広域で規模も大きくなり、自園自製で揉むのはやめ、共同工場になっていきました。自分の畑のお茶を自分で揉んでいたときには、自分の畑の茶にあった製法、つまり土質や環境の違いによって「粘土質の葉っぱ」とか「砂質の葉っぱ」とか性質が違いますから、うちのお茶はこういうお茶だからこういうふうに揉んで、というように自園自製で揉み、問屋さんが買い集めて合(ごう)をして、消費地に売ったわけです。ところが、経営規模が大きくなって、いろいろな土質の畑のいろいろな葉っぱを大規模工場のコンピューターを仕組んだ大型機械でいっぺんに揉んじゃうわけです。そのとき、「深蒸し茶」というお茶はこの製法にぴったり合ったんだと私は思います。
言い換えますと、このやり方だと「こういう葉っぱはこういう葉っぱだけで」というふうにまとめて揉むことができないわけで、深蒸し茶は土質や環境の違いを超えて、味本位の「深蒸し茶」という特性でまとまることができた、そういう性質を持っていたということなんです。それがすごいと思いますね。だから、昔のお茶やさんが合(ごう)をして、こっちを買ってさらにこっちのお茶を買って合(ごう)をして、一口にしたらいいよ、というようなことはなくなったわけです。昔のようなお茶はもうできないでしょうが、私は今のお茶、この深蒸し茶が好きですね(笑)。

社会情勢の変化や製造技術の変化、そして新しい深蒸し茶という特性、これらがすべてマッチして、今日の掛川の茶業界ができました。ですから50年前の茶業界と今とじゃあ、まるで業界が違いますね。そして、そういうことをみんな現場が作り出してきました。掛川の茶業関係の素晴らしところですね。今、深蒸し茶は、味がよくて薬効があって粉まで飲めると評判になっている(笑)。これは茶業界の皆さんの努力が、いい方向にまとまったのだと思います。昭和30年代、茶業をやめようかというときもありましたが、その時期を乗り越えて今があるのだと思います。


■農業という職業について
今、社会的な問題として農業の後継者不足があります。これは、商店街もシャッター通りで同じです。みんな、会社員を希望して、学校は出たけれど「就職できない」と言っている。アメリカは、この不況で起業する人が増えているという話も出ていますが、日本は人頼みが多いんですかね。昭和の初め頃は、景気が良くなると都会に人が出て、景気が悪くなると田舎に帰る、という人の流れがありましたが、今はどうですかね。

「職業」をドイツ語でいうと「Beruf」です。「呼ばれるもの」という意味があります。日本にも天から授けられた「天職」という言葉がありますが、農業は特にそういう面があると思いますね。農業はやれば奥が深い。例えば、気象のこと、化学のこと、物理のこと、土のことも、機械のことも知らなきゃいけない。エンジンが動かなきゃあ何にもできない。農業を自分の仕事としてやりだすと、自分の判断でできる仕事ですから面白いんです。「上役がこう言った」「課長がそう言うならしかたない」とか言わなくていい。できたもの、自分が作ったものを「どうだ」といえるわけです。それがすべてであり、作る喜び、できた喜び、励みなど、農業は基本的にそうしたことが多い職業だと思うんですね。

物事の「はかり」をお金だけで考えると、農業は割に合わないかもしれません。でももっと別の視野から考えると、家庭内の楽しみ、健康の維持、いつも新鮮な食べ物を食べられる、そんなふうにいろいなメリットがあります。農業は人間としての生き方そのものであり、社会の一つの部分として生きるのとは少し違うところがあるんですね。だから、農業を本気でやる気でやっている人は、よそから見ると幸せそうです。ハリがある。みんないい表情をしていますね(笑)。

■私の職業は、掛川にいること
私にとっての職業ですか? 先ほど、職業は「天職」「呼ばれるもの」という話をしましたからね(笑)。
私の職業は、掛川にいることです。
私は外国為替の横浜正金銀行(現・東京銀行)に入ったんですが、終戦後、父は台湾で官吏をしたので日坂の農業でとても苦労していましたから、帰ってきて自園自製の茶業をしていました。日坂村が掛川市に合併した後、掛川市の教育委員になりました。その後、法務省の人権擁護委員や掛川信用金庫の非常勤監事をしていましたが、「日坂から市議会にでる人がいないから」と推されて市議会議員になりました。議員と農業を両立することは不可能とわかりましたので、農業をやめました。その後、信用金庫の常務を頼まれ、昭和56年に理事長になり、裁判所の調停員や商工会議所の会頭、税務署関係の法人会の会長もして……、本当にいろいろなことをしました。当時、昭和30年代に読んだアメリカの雑誌に書いてあったんですが、「人間は報酬のある仕事ばかりやっていてはいけない。ただで働く仕事もやらなくてはいけない」と(笑)。
でもそれがね、みんな役に立っているんですよ。いろいろな方から「東京に来ないか」などと誘われましたが、私は「掛川にいますよ」と答えました。
今になって考えると、農業をやって、お茶をやってきたからできたんだと思います。お茶をやっていろいろ失敗したから智恵も授かり、見方も広がった。本当に、さまざまな場面でいろいろなことを教えていただいたと思います。ですから、私の職業は何かと聞かれたら「掛川にいること」と答えますね。

■これからの茶業界のこと
今の一番の問題は後継者問題でしょうね。商店街もそうだけど、農業の後継者不足は社会的な問題、国の問題です。
相続の問題点もあります。兄弟均分相続では「後継者はどうするか」ということです。私の子どもの頃は、「縁の下のゴミまでおまえのもんだ」といわれました。長男は学校に行かなくていい、家のことをやれ、次男三男は学校にはやるけれど後は自分でやれ、そういう時代でした。今はそうではない。だから社会として考えなければいけません。後継者問題は社会のあり方の問題です。これからどういうあり方の社会を作っていくのか、その方向性がないと農業にしても商店街にしても後継者問題は解決しないと思いますね。そこを真剣に考えないといけません。
高齢化社会になる、勤労社会になる、そうすると農業は会社組織でやれるのか、商店街は会社組織でやれるのか、事業の承継をどうするのか。昔は「家」という単位が仕事を承継していったけれど、これからどうなるのか。家業と企業、家業を会社組織でやれるのか。企業と家業とどう違うのか。

今、社会のあり方や方向性が見えない中、いろいろなところでいろいろな摩擦が起きています。このままの仕組みで行けるのか、この社会のあり方で行けるのか、それは国の問題です。国の問題で、個人の問題です。個人が「こういう人生を送りたい」と自分の頭で考えなくてはいけません。それぞれがどう考え、自分なりに消化し、どう発展させていくか、ということなのだと思います。

取材レポート:いいじゃん掛川編集局/河住雅子

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Re: 茶業の「原点」と「これから」~杉本周造さん(掛川信用金庫 顧問)に聞く~
【返信元】 茶業の「原点」と「これから」~杉本周造さん(掛川信用金庫 顧問)に聞く~
2012年05月08日 15:43
【初めて読まれる方、改めて読まれる方にご紹介(・▽・)v】
昨年の4月に書かれたレポートです。
新茶の季節、今一度読まれてみてはいかがでしょう?