掛川市の姉妹都市である米国コーニングから訪問団が訪れています。
きょうは夕方掛川城に来てくれたので忍者でおもてなししました。
掛川西高校の生徒さんも途中から加わっていただいたので賑やかになりました。
家康が築いた江戸城、その大手三の門を入ると「百人番所」があります。
鉄砲百人組と言われた甲賀、伊賀、根来などの忍びの精鋭たちが昼夜交代で詰めていました。
交代勤務なのでかなりの人数になると思います。
現、浜松市天竜区に「二俣城」があります。
武田と徳川の城とり合戦があったのでご存知の方は多いと思います。
もう一つは服部半蔵にとって悲しい思い出の城でもあります。
家康の長男(信康)は織田信長から謀反の嫌疑を掛けられ、ここ二俣城に蟄居させられます。
掛川城二の丸広場の紫陽花軍は桜の木の下にあるので直射日光は殆ど当りません。
でも今回の空梅雨の影響で枯れかけていた花もありました。
「徳永寺」・・・この名の並びから考えても徳川家康に関係していると思いますよね!
「本能寺の変」のあと徳川家康御一行は伊賀(最近は甲賀という説が濃厚)の山中を伊賀者に守られて三河に戻ったと言われています。
いわゆる「神君伊賀越え」です。
途中に
ズッキーニは人間による受粉が必要です。
専業農家は別に工夫されていると思いますが、わが家のように数本しか栽培していないと毎朝手助けが必要です。
こちらが雄花ですがこの花を茎からちぎります。
そしてこちら雌花の真ん中の部分にチューさせます。
藤堂藩に仕えた忍び「澤村甚三郎保祐」は忍者として最後の公務をした方です。
実は1853年にペリーが浦賀に来航した際に黒船の探索をしました。
この報告を受けて、日本は開国に踏み切ったと言われています。
と言う事は、アメリカにはとうてい歯が立たないと判断したのでしょうね!
県東部の50~60代の女性グループがSBSの朝倉さやちゃんの番組を見たと言う事で来てくれました。
午後には掛川市内の女性グループも天守でその話しをしていました。
きょうは中央小学校、和田岡小学校の生徒たちも掛川城の見学に来ていて「この前、忍者に手裏剣もらったよ」と話していました。
天正6年(1578年)織田信長の次男信雄(のぶかつ)は伊賀攻略拠点として丸山城を築きました。
これに反発して伊賀の住民(忍者たち)は丸山城に攻撃をかけました。
これがおそらく今度の映画「忍びの国」の舞台の一つになるのではないでしょうか?
これが第一次天正伊賀の乱であり、織田信雄は伊賀から敗退します。
その2年後の天正9年(1581年)織田信長自ら4万5千の大軍で伊賀を攻略、約2週間で伊賀全土が平定されました。
今度は伊賀市柘植にある「福地城」(址)をご紹介します。
もとは柘植の土豪が築城したと伝えられています。
柘植地域の三人衆の一人「福地宗隆」の居城でもありましたが、第二次天正伊賀の乱の時には織田方の手引きをしたことで勢力を拡大しました。
ところ