小塩真司氏 |
>プレジデントオンライン >「偏差値の高い大学」が通用するのは日本だけ … 早大教授が “日本人の大学ランキング中毒” に抱く強烈な違和感 小塩真司の意見・ 6時間・ >「偏差値の高い大学」はいい大学なのか。 >早稲田大学文学学術院教授の小塩真司さんは「偏差値で学校を序列化する慣行は日本独自のものであり、世界ではほぼ存在しない。 >数値への幻想が教育の本来の価値を覆い隠している」という――。 (略) >世界大学ランキングは日本に不利 >世界中の大学を格付けする「世界大学ランキング」が発表されはじめたのは、2004年頃のことです。 >当時私は、すでに大学に勤めていましたが、勤務先はそのようなランキングの上位に掲載されるような大学ではなかったため、当初、私はあまり関心をもっていませんでした。 >むしろ「大変な時代になったなあ」と他人事(ひとごと)のように感じていました。 >また、「それなら日本も、日本の大学が不利にならないような独自の世界大学ランキングを作ればいいのに」とさえ思っていました。 >というのも、どう見ても世界大学ランキングは、日本の大学が不利になるような指標を立てて得点化し、順位づけを行っているように思えたからです。 >たとえば英語論文の被引用数や外国人教員の比率など、欧米の大学に有利な要素が多く採用されていました。 >しかしその後、毎年ランキングが発表されていくうちに、「世界大学ランキング」が発表されるのは当然のものとなり、ランキングが発表されればニュースになり、大学も「ランキングを高めること」を目標にし、留学する学生も「この大学のほうが、あの大学よりもランキングが高い」と、評価の基準とすることが当然になってきます。 >世界中で乱立する「ランキング」 >そして2016年、「今後10年間で世界大学ランキングトップ100に、日本の大学10校以上を入れる」と、国全体の数値目標にも世界大学ランキングが取り上げられ、国家戦略として位置づけられるまでになったのです。 >残念ながら、この目標は達成されませんでしたが……。 >ちなみに現在、「世界大学ランキング」と呼ばれるものは乱立状態にあります。 >イギリスのQS世界大学ランキングとTHE世界大学ランキング、中国の世界大学学術ランキング(ARWU)、トルコのURAP世界大学ランキング、サウジアラビアのCWUR世界大学ランキングなど、数多くの機関がそれぞれの基準でランキングを発表しています。 >最近では、持続可能な社会への貢献度を評価するTHEインパクトランキング(2019年開始)のような新しいタイプも登場し、大学評価の指標はますます多様化しています。 >これら以外にも多くの「世界大学ランキング」が存在するのです。 >やはりこのようなランキング乱立状況を見ると、日本でもどこかが早いうちに独自の世界大学ランキングを発表しておけばよかったのに、と思ってしまいます。 >順位に振り回される大学とメディア >毎年、ニュースや新聞で「世界大学ランキング」が報じられますが、これだけ多くのランキングがありますので、年中どこかのランキングが発表されています。 >おそらく多くの人々は、報道された内容がどの機関のランキングを指しているのかを十分に認識していないのではないでしょうか。 >それぞれのランキングには独自の評価方法があるのですが、ランキングの背景にある評価基準や方法論が十分に理解されないまま、「日本の○○大学が何位に入った」「ランクインしたのは○校だった」といった断片的な情報だけが広まり、ニュースになって世の中を駆け巡ります。 >そして大学関係者でさえ、順位の上下に一喜一憂し、メディアや政策はその数字を大学評価の中心的な根拠であるかのように扱うようにさえなっています。 >世界大学ランキングの本来の目的は、単に順位を示すことではありません。 >高等教育の質や特徴、多様な取り組みを可視化し、一般の人々にもわかりやすく伝えることにあります。 >「この大学は教育に重点を置いている」「この大学は国際的な共同研究が盛んである」「この大学は留学生が多く、多文化的環境を提供している」「この大学は地域との連携を重視している」といったように、それぞれの大学がもつ特色や「強み」を可視化することが本来の目的です。 >研究者の採用にランキングが影響 >もしこのようなランキングが正しく活用されれば、国内外に進学や留学を希望する学生が自分の目的に合った大学を選びやすくなり、大学側も自校の特色を明確に示すことができるはずです。 >世界大学ランキングには、大学間の健全な競争を促し、教育・研究の水準を向上させるという政策的な目的もあります。 >特に21世紀に入ってから、中国が世界大学ランキングの作成を先導した背景には、自国の大学の国際競争力を高める国策的な意図があったのかもしれません。 >ランキングの公表を通じて大学間競争が刺激され、海外の優秀な研究者を積極的に採用するようになり、結果として中国は現在、世界最大の論文発表国となるまでに成長しています。 >このように、ランキングが大学改革を推進する契機となる場合もあるのです。 >ところが、往々にして、いつのまにか目的は変わっていくものなのです。 >ランキングの順位が大学の「評価」そのものとして扱われるようになり、「何位に入ったか」「前年より上がったかどうか」が注目されるようになります。 >大学の教育理念や地域社会との関わりよりも、ランキングのスコアを上げることが重要視されるようになるのです。 >研究者の採用方針や教育方針までもが、ランキングで高く評価される指標、たとえば英語論文の数や国際共同研究の件数に合わせて最適化されていきます。 >大学序列の“数値化”が生む弊害 >こうした流れは、大学の外部にも影響を与えます。 >学生や保護者は「順位の高い大学イコール良い大学」と考えるようになり、メディアも教育の質を反映したものとしてランキングを報じます。 >大学の活動は本来、教育・研究・社会貢献など多面的であるにもかかわらず、順位というひとつの数値指標だけが大学の価値を決めるかのような風潮が広がっていくのです。
日本人には序列メンタリィティ(考え方)があるので、順位が大好きですね。
>結局のところ、数値による評価は社会の共通言語として便利なものなのです。 >数値化することで、誰もが納得しやすくなります。 >けれども、その便利さと引き換えに、私たちは「数値で示されない価値」を見失っていくのです。 >教育の質、学びの深さ、研究の創造性といったものは、簡単にスコア化できるものではありません。 >それでも私たちは、数字にすれば客観的に表現できるという幻想にとらわれています。
そうですね。日本語文法には階称というものがあるので、日本人は数字を追い求めますね。
>日本国内の大学の状況に目を向けると、最も多くの人々の行動を左右し、日本社会全体の価値観として浸透しており、一種の「文化」ともなっているのが「偏差値(受験偏差値)」ではないでしょうか。
そうですね。序列人間には偏差値は便利な判定手段ですね。日本人の礼儀作法は序列作法になっていますから。
>“受験偏差値”に縛られるのは日本だけ >そもそも偏差値(Tスコアとも言います)という値は、統計的に得点分布の中で平均値からどれだけ離れているかを示す数値にすぎません。 >心理学や教育測定の分野では、あくまでも集団内での位置を理解するための「統計的指標」として用いられるものです。 >偏差値そのものには、「高い=良い」「低い=悪い」という価値判断は本来含まれていません。 >ところが、日本では一般的に、「偏差値」は「受験偏差値」を指すのが当然になっているのです。
そうですね。
>中学受験をする小学生も、高校受験をする中学生も、大学受験をする高校生も、「偏差値」という数値から大きな影響を受けます。 >偏差値が高い学校は「良い学校」であり、受験生だけでなく学校関係者も「自分の学校の偏差値を高める」ことが目標となり、それが「良い学校経営」にすらつながっていくのです。 >さらに「偏差値が低い学校」は揶揄(やゆ)の対象になり、「存在する価値がない」といった陰口すらあるのです。 >ここまで社会的な影響を与える「数値」も珍しいのではないでしょうか。
数値は上下判断が易しいですからね。序列社会においては貴重ですね。
>この「受験偏差値」という数値は、日本だけに存在するものです。
受験偏差値は国粋主義 (超国家主義: ultra nationalism) のシンボルですね。
>国外でも、試験の得点を偏差値で表現する場合はあります。 >しかし、偏差値に基づいて「学校を序列化する」表現は、まず行われません。
彼らは序列人間ではありませんからね。
(略) >偏差値が覆い隠す教育の価値 >偏差値が進学指導や受験の判定に用いられるようになったのは、1950年代だったようです。 >その後、予備校や塾での偏差値の利用が広まり、そのうち受験生個人の集団内の位置を表現するだけでなく、偏差値が「受験をする学校・大学」に結びつけられ、あたかも学校・大学の評価であるかのように使われるようになりました。 >模擬試験と偏差値がなければ、受験生は自分の位置づけがわからず、やみくもに受験してしまうかもしれません。 >偏差値という数値を利用することは、教育を合理化し、受験の公平性を高めるという点では、一定の社会的意義をもちます。 >しかし、偏差値というひとつの数値だけが絶対的な社会的評価に結びつくことで、教育が本来目指すべき多様な価値が見えにくくなっているのも事実ではないでしょうか。 >---------- 小塩 真司(おしお・あつし) 心理学者 早稲田大学文学学術院教授。 >パーソナリティ心理学に詳しい。 >著書に『性格がいい人、悪い人の科学』ほか。 >3児の父。 > ----------
日本語の文法には階称 (言葉遣い: hierarchy) というものがある。だから日本語を発想する場合には、‘上と見るか・下と見るか’ の世俗的な判断が欠かせない。上下判断 (序列判断) には、通常、勝負の成績が用いられる。近年では偏差値なども都合の良い資料として利用されている。だから難関出身者たちが日本社会で幅を利かせている。わが国が学歴社会であるというのも、実は序列社会 (身分制度) の言い換えに過ぎない。明治を境にして一生変えられない身分制度が変えられる身分制度になったのである。だから、日本人は没個性の受験勉強に狂奔する。わが国の学歴社会は学問の発展には何ら寄与していない。人間としての順位の比較は没個性的でなくてはならない。個性を勘案したら序列判定に不公平が生じる。受験戦争は他人の受け売りを使った戦になっている。だから、我が国の序列競争の激しさは個性の育成の足かせになり、自己実現の妨げになっている。
日本人は思考を停止しているから、自分自身の意見を明らかにできない。わが国のマスコミの編集長でも例外ではない。だからいくら外部の情報を流しても、それが社会の木鐸の役割を果すことはない。「それでどうした、それがどうした」の問いに答えが出せないのである。我々日本人は他人の受け売りを練習するばかりで、自己の見解を述べる教育を受けてこなかった。だから個人の価値が低い。社会に有能な指導者が現れない。 [木鐸=ぼくたく:世人を教え導く人] 頭を使うということは暗記力を示すことではなく自己の見解を明らかにすることである。高等教育機関に在籍して自己の個人的な見解を論文にて明らかにすれば、独創性を認められた時には学位 (博士号など) が得られる。ぜひやるべき勉強です。
イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。 何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)
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