>朝日新聞デジタル >「全米最大の教員によるストライキ」カリフォルニア州立大 >朝日新聞社によるストーリー >・5時間
> 全米最大の大学機関であるカリフォルニア州立大で22日、教員らの労働組合が5日間のストライキに踏み切った。
‘いやなら態度で示そうよ’ ということですね。
>米ニューヨーク・タイムズ紙は「米国の歴史上、大学の教員による最大のストライキ」としている。
>米国では昨年来、ハリウッドの映画業界や自動車業界でもストライキが起きており、待遇改善を求める労組の声が強まっている。
物価の高騰があるから、各所で賃上げは必要ですね。
> 同州立大は州内23のキャンパスに約45万人の学生が在籍する。
>約2万9千人の組合員を持つ労組「カリフォルニア教員組合」は、年12%の賃上げなどを要求。
>だが、大学側の回答は5%の昇給にとどまり、交渉が難航している。
労働者と資本家で成り立つ社会ですからね。双方の合意がどうしても必要ですね。
>大学側はストライキ期間中も通常通り開講するとしているが、一部キャンパスは新学期が始まっており、授業への影響が予想されている。
早く解決するとよいですね。
> サンフランシスコのキャンパスでは22日朝、時折雨が降るなか、20人ほどがプラカードを手に抗議活動をしていた。
>20年以上働く図書館員のキャサリン・パウエルさんは「我々は過去6年間、賃上げがない。
>物価が高騰するこの街で、今の給料で暮らすのは常軌を逸している」と訴えた。
求めよさらば与えられん。(自ら積極的に求める態度が必要であるという事。) 彼等には ’上からの賃上げ’ をじっと待ちわびる習慣がない。日本人が大人しく待ちわびるのは果たして美徳なのであろうか。
>(サンフランシスコ=五十嵐大介)
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>毎日新聞 >関係改善の糸口? プーチン氏、駐日ロシア大使を任命 約1年空席 >毎日新聞によるストーリー >・10時間
> ロシアのプーチン大統領は19日、新しい駐日大使として外務省アジア第3局長のニコライ・ノズドレフ氏を任命した。
>駐日大使のポストは、現外務次官のガルージン前大使が2022年11月に離任して以降、空席になっていた。
> 露外務省によると、ノズドレフ氏は1994年にモスクワ国際関係大学を卒業後、外務省に入省。
>日本語が堪能としている。
>在オーストラリア大使館の公使参事官などを歴任し、18年2月から日本などを担当するアジア第3局長を務めていた。
> ロシアはウクライナで続けている「特別軍事作戦」を巡り、日本が欧米と足並みをそろえて対露経済制裁を科していることに反発し、日本を「非友好国」に指定。
ウクライナはソ連崩壊により核兵器を放棄した。しかし、プーチン大統領は非核国ウクライナに侵攻し核兵器使用をちらつかせて恫喝した。
これにより我が国の非核三原則に依拠した安全神話は消滅した。非核三原則とは 核兵器を「持たない、つくらない、持ち込ませない」の三原則を指すものと1967年 (S42) 12月に佐藤栄作首相は説明した。日本人のお花畑はもうない。
「世界大戦を含むあらゆる戦争はすぐ終わらせられる。講和条約を結んだ場合、あるいは1945年の米国による広島と長崎への原爆投下と同じことをした場合だ」 (ロシアのメドベージェフ前大統領)
‘ウクライナでの戦争の教訓は、抑止力によって未然に戦争を防ぐ方が、侵攻してきた敵を後退させることよりも遥かに望ましいということだ。’ (マシュー・ポッティンジャー)
‘ロシアが力による現状変更を行っている国はG7(主要7カ国)では日本だけだ。北方領土だ。だから、ウクライナ問題で、ロシアを一番強く批判しなければいけないのは日本だ。’ (小野寺元防衛相)
>平和条約締結交渉の中断を表明し、北方領土でのビザなし交流に関する合意を一方的に破棄するなど、両国関係は著しく悪化している。
> 在露日本大使館では、武藤顕大使が23年12月に着任したばかり。
>両国の大使が同時期に着任することになり、関係改善に向けた糸口を探る動きにつながる可能性もある。
>【山衛守剛】
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>TBS NEWS >「中国がやっていることは文化的ジェノサイドに等しい」チベット亡命政府首相に単独インタビュー >THE NEWS Microsoftの意見 >・3時間
>インドにあるチベット亡命政府のペンパ・ツェリン首相はJNNの単独インタビューに応じ、中国政府のチベット政策や、88歳になったダライ・ラマ14世の後継問題について語りました。
>Q.習近平国家主席が3期目入りしましたが、今の中国をどう見ていますか?
>ツェリン首相:中国共産党の指導者たちが何を考えているのか、私にはわかりません。
>しかし、我々の側から見ると、中国政府が今やっていることは、インドに対しても、尖閣諸島をめぐり日本に対しても、台湾に対しても、南シナ海をめぐる「新しい地図」の問題でも、中国の好戦的な態度のせいで、この地域の雰囲気は悪化しているし、多くのリソースを軍事に費やす羽目になっています。
>日本は第二次世界大戦後、平和的態度で専守防衛に徹していましたよね。
>しかし先日日本で講演した際、一人の子どもが私にこう質問したんです。
>「どうやって国を守ればいいのですか?」と。
>私は「どうしてこのような質問が、こんな幼い日本の少年の心に浮かぶのだろうか」と思ったのです。
>そして、本当の脅威は誰なのか、それはどこから来るのか、ということなのです。
>今、中国やロシアで起きていることのせいで、日本はウクライナやこの地域の安全保障に対してより強い立場を取ることを選び、多くの防衛費を計上することを余儀なくされています。
>正しい方向ではないにせよ、選択の余地がないのです。
>台湾はもっとです。
>オーストラリアも、インドも多くの予算を軍事に費やしていいます。
>これらすべては中国の行動のために起こっていることです。
>今、中国はゼロコロナ政策、ビジネスの不振、景気の後退、若者の失業率が上昇して、データの公表を取りやめるなどの問題が起きています。
>私は、中国は今、非常に不安定な状態にあると考えています。
>中国が強大になったのは経済と貿易のおかげです。
>中国が経済的に強大になることに反対する人はいませんが、それが国際社会に明らかな危険をもたらすのであれば、国際社会は、ほかの国々が苦しまないようにするための措置を講じなければならないでしょう。
>Q.中国政府は信仰よりも中国共産党への忠誠を優先させる「宗教の中国化」政策を推進していますが、この政策についてどう思いますか?
>ツェリン首相:宗教だけではありません。
>中国政府はチベットの人々のアイデンティティーそのものを変えようとしています。
>特にチベットにはチベット仏教があり、その基礎となるチベット語があります。
>チベット語はチベット人のアイデンティティーの基盤なのです。
>そしてその上にチベット仏教文化があり、他の仏教国と同じように、私たちはブッダの平和と非暴力のメッセージに従っています。
>しかし残念なことに、今、習近平国家主席一人の手にすべての権力が握られている。
>ある人が私のところに来て、「習近平は慈悲深い指導者になりたがっている」と言いました。
>もし彼が中国と国際社会を正しい方向に導くことができれば、ノーベル平和賞への道が開けるでしょう。
>しかし、もし彼が中国を間違った方向に導こうとするなら、中国国民全体にとって非常に破滅的な結果をもたらすでしょう。
>そこにはチベット人、ウイグル人、モンゴル人、香港人も含まれています。
>中国は海外からの投資を必要としていますが、他国から干渉されることを望んでいません。
>そして、すべてがますます統制されてきています。
>それは良い兆候ではありません。
>私は中国の指導者がもっと良識的な対応をすることを期待しています。
>Q.「宗教の中国化」はチベットの人々に何をもたらすのでしょう?
>ツェリン首相:チベット国内の状況について、国連は「100万人の子どもたちが寄宿学校に入れられた」という報告書を発表しました。
>ジャーナリストが中国の指導者や報道官にこのことを尋ねると、彼らは「アメリカは先住民族をどう扱ったか」などと発言し、論点をすり替えようとしています。
>これが中国が、チベットやウイグル、モンゴルで、国家ぐるみで大規模にやっていることです。
>つまり、チベットに住む6歳から18歳までの100万人を寄宿学校に入れているのです。
>中国式の教育を受けることで彼らは家に帰ってもチベット語が話せなくなってしまいます。
>中国が行っている教育システムが人々の心や考え方、生き方、すべてを変えることを目的としているのであれば、それは文化的ジェノサイドに等しいと思います。
>中国政府の愛国教育の目的は、誰もが中国語しか話せない、中国人的思考を持つ人を育成することです。
そうですね。漢民族オンリーの生活指導ですね。
中国は中原 (ちゅうげん) に鹿を逐 (お) う伝統的な覇者の国である。だから、覇者の物語 '三国志' は、中国人の愛読書となっている。覇者は周辺諸国に覇権を打ち立てようとして傍若無人のふるまいをし、多大な迷惑をかけている。これは皇帝の時代も国家主席の時代も漢民族のメンタリティが同じであるから変わらない。漢民族は、自分たちの考えを示すために漢字を作った。しかし、彼らは外国人の考えを示すための漢字は作らなかった。だから、外国人に対して自己の内容を発信はできるが、外国人からの内容を受信することは難しい。独断専行に陥りやすい。印欧語族のインド哲学を経文 (漢文) に表すことが至難の業であることがわかる。経文など漢文の書物をいくら読んでも外国人の考えは出てこない。だから、中華思想を堅持し自己中心的にならざるを得ない。周辺諸国を中国化することに専心してやまない。中国人が外国人の影響を受けて発想の転換 (paradigm shift) をすることは期待薄である。
・・・・・
中華 (ちゅうか) [外国との交渉が少なかった時代に] 自国を、世界の中心にある、一番優れた国とみなしたこと。[狭義では、漢民族のそれを指し、またその呼称としても用いられる] 東夷 (とうい) [東方の野蛮人の意] 昔、中国から見た東方諸国の称。[広義では朝鮮・沖縄を含み、狭義では日本を指した] 南蛮 (なんばん) [南方の野蛮人の意] 昔、中国で、インドシナなど南海地方の諸民族の称。 西戎 (せいじゅう) [西方の野蛮人の意] 昔、中国で、チベット族やトルコ族など西方の異民族の称。北狄 (ほくてき) [北方の野蛮人の意] 昔、中国で、匈奴 (きょうど)・韃靼 (だったん) などの遊牧民族の称。
>宗教の自由について言えば、かつて、すべての寺に多くの僧侶がいましたが、今は少なくなっています。
>中国はすべてを管理したがっています。
>特に中国はチベット仏教の高僧の「生まれ変わり」を管理したがっている。
>特に、今のダライ・ラマの14世の「生まれ変わり」、ダライ・ラマ15世を支配することを目的としているのです。
>彼らは今のダライ・ラマ14世については気にしていませんが、ダライ・ラマ15世に関心を寄せています。
>中国のシステムは、経済発展をもたらすことを証明しました。
>しかし残念ながら、中国の指導者たちが理解できなかったのは、民衆の願望は他にもあるということなのです。
>彼らは経済発展すれば問題は解決すると思っている。
>彼らは人々の心の自由や、人々が何を望んでいるのかを考えていない。
>お金を手に入れたら、次は何をするのですか?
>お金があっても、死に向かう歩みを止めることはできない。
>死後の世界が本当にあるのかないのか、精神世界は存在するのか。
>中国人は心の中で常にこのような葛藤を抱えていますが、中国の共産主義はこのような問題に対する答えを出すことはできず、嘘で塗り固めることしかできていない。
そうですね。漢民族は無哲学・能天気ですからね。
>Q.ダライ・ラマ14世は今、88歳です。彼が死去したあと、何が起きるのでしょう?
>ツェリン首相:もちろん、ダライ・ラマはあと20年以上生きると言って、私たちを安心させ続けています。
>ダライ・ラマは長生きするでしょう。
>ダライ・ラマが共産党より長生きするのか、共産党がダライ・ラマより長生きするのか、見てみましょう。
>しかし、あなたの言うことも真実です。
>彼の肉体もまた、この世を去らなければなりません。
>ダライ・ラマが2年後、90歳になった時、いくつかの決定を下すことになります。
>2年後にはダライ・ラマがどう考えるのか、わかるでしょう。
>ダライ・ラマは1969年以来一貫して、次のダライ・ラマがいるかどうかはチベットの人々が決めることだとおっしゃっています。
>「ダライ・ラマが必要なのであれば、彼は戻ってくるだろう。
>必要とされないなら、戻ってこない」。
>そう冗談めかして言うこともあります。
>モンゴルやロシアにも、チベット仏教を信仰している人がいます。
>世界中にいる信者のため、私たちは彼らの意見をまとめるための手立てを考えるつもりです。
>しかし、法王の選出に関しては、その時の指導者が誰であろうと、私たちチベット政府でさえ、その選出プロセスに干渉することはありません。
>なぜなら、それはすべてダライ・ラマが決めることだからです。
>なぜなら、それは純粋にスピリチュアルで宗教的な儀式であり、私たちのような一般人には関与できないことだからです。
>もちろん、より大きな問題は、ダライ・ラマの死後、中国政府がチベット側とは違う、別のダライ・ラマを選んだ場合です。
>中国は今のダライ・ラマ14世よりも次のダライ・ラマ15世を重視しています。
>なぜなら、非常に信心深いチベットの人々を支配するには、次のダライ・ラマをコントロールできれば、チベットをいとも簡単に支配できることを中国政府は知っているからです。
>だから私は中国政府に、「パンチェン・ラマの物語から何も学んでいないのか」と言い続けている。
>今、(ダライ・ラマに次ぐ高僧の)パンチェン・ラマは2人います。
>中国が選んだパンチェン・ラマとチベットが選んだパンチェン・ラマです。
>チベットが選んだパンチェン・ラマは姿を消し、生きているのかいないのかも、今どこにいるのかもわからない。
>中国が選んだパンチェン・ラマは誰も尊敬しません。
>チベットで、中国が選んだパンチェン・ラマの写真を見ることはありません。
>それがチベットの人々のせめてもの抵抗だからです。
>ダライ・ラマについても同じことが起こるでしょう。
>だから私は中国政府に言いたいのです。
>あなたたちには頭痛のタネが必要なのですか、と。
>ダライ・ラマが2人いる状態を、中国政府は望むのでしょうか?
>ダライ・ラマの立場は一貫しています。
>「私は自由な世界に生まれる。
>チベットが自由になれば、私はチベットで生まれるかもしれない。
>しかし、チベットが自由になるまでは、私がチベットで生まれることはない」と。
>これは中国政府が決めることではなく、ダライ・ラマだけが決められることなのです。
>Q.今、中国政府との対話はありますか?
>ツェリン首相:いいえ、バックチャンネルはありますが、公式な対話はありません。
>中国が言うことは非常に疑わしいので、それ以上のことは言えません。
>よく、チベット人が勝てないのは、希望を持ちすぎるからだといわれます。
>しかし、我々は希望を持ち続けなければならない。
>今はそのバックチャンネルを継続することなのです。
>私たちは再びコンタクトを築かなければならないでしょう。
>Q.公式対話の再開の望みはあるのですか?
>ツェリン首相:私たちは希望を持っていますが、中国の意向と、解決する政治的意志があるかどうかに大きくかかっています。
>私たちは、ただ会って、情報を共有して帰ってくるということは望んでいません。
>問題は解決しなければならないのです。
>コンタクトを再構築するだけでは不十分です。
>Q.国際社会、特に日本に期待することは?
>ツェリン首相:日本は今、自分たちの価値観や自由を守るという点において、より強くなっていると思います。
>日本国民や日本政府がチベットを支持していることは知っています。
>中国を恐れてばかりではいけない。
>中国を恐れれば恐れるほど、彼らは圧力をかけてくるのです。
>チベットの利益のために自分の利益を捨てなければならないと言っているのではありません。
>もちろん、日本の国益が第一です。
>私たちは、日本が国益を捨ててチベットの国益を取るとは期待していません。
>それはあり得ないからです。
>しかし、この世界に生きる同じ人間として、苦しんでいる人がいるなら、人々を苦しめている政府に圧力をかける努力をすべきだと思います。
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>ダイヤモンド・オンライン >イギリスが日本と比べて国際社会で圧倒的に存在感が高いのはなぜか >徳成旨亮、堀内勉によるストーリー >・1日
>日本経済復活およびビジネスパーソン個人の成長の秘訣を示した『CFO思考』が、スタートアップ業界やJTCと呼ばれる大企業のビジネスパーソンを中心に話題となっている。
>5刷3万3000部(電子書籍込み)を突破し、メディアにも続々取り上げられている話題の本だ。
>本書の発刊を記念して、著者の徳成旨亮氏と、多摩大学大学院教授の堀内勉氏の対談が実現。
(略)
>ルールの面でもリスクの取り方でも イギリスは「賢すぎる」
>徳成 富の蓄積でいうと、まずイギリスがすごいのは堀内さんが言うように膨大なアセットを、世界中に持っている。
>ケイマンやバミューダなどの租税回避地の多くは、実は英国王室属領か英国海外領土です。
>さらに、英語が事実上、世界標準語になっている。
>お隣の韓国や台湾の方々とも僕は英語で会話しています。
そうですね。英語は便利な言語ですね。
> 金融取引といったいろんなビジネスにおいても、英国法がグローバルな契約におけるガバナンス・ロー(準拠法)であることが多いんですよね。
>いろんな意味で英国はうまく世界を統治している。
> テストを受ければ必ず日本人のほうが平均点は高いんだけど、それとは賢さの質が違うごく少数の英国人たちがいる、というのをロンドン駐在時代に感じました。
賢い人は国の宝ですね。国が無くなると昔のユダヤ人か今のクルド人のようになるのでしょう。
>堀内 とにかく色々な面で資産が違う。
>徳成 アニマルスピリッツの話に戻りますと、彼らはそういう巨大な資産を持っていますから、当然それを運用するのですが、そのとき分散投資をします。
>いろいろなアイディアを持っている人たちに少しずつお金を渡して運用させる。
>お金の出し手、つまり金主をアセット・オーナー、運用者をアセット・マネージャーと言います。
> 少しずつと言ったって、もとが大きいからけっこうな額なんですけど、それを元手にアイディアがビジネスの形となり、新しい利益の源泉になっていくわけです。
> それで、その金主たちと言いますか、お金を運用している人たちもたくさんいるから、ニーズの種類も幅広いんですね。
>投資期間も短い人もいれば長い人もいるなどさまざま。
>「こういうふうに運用してほしい」というリクエストがいろいろなので、アセット・マネージャーもいろいろなタイプが育つんです。
>そこが日本とは決定的に違う、というのがあります。
> 資本主義の厚みが違う、と私が最初に申し上げたのはそういうことで。
>富の蓄積ももちろん違うけど、それゆえいろんな運用ニーズを持った人たちがいて、いろんなリスクを取っていいよという土壌もあるから、いろんなアセット・マネージャー、すなわち、資産運用会社やファンド・マネージャーが育ちやすい。
> 加えて前回の記事で申し上げたように、ルールメイキングみたいなところでも、うまく自分たちのビジネスが運びやすいような土壌が知らず知らず作られている。
>堀内 要するに、我々はそういうところで戦っていかなければならない、ということですよね。
>徳成 そうなんです。
>日本の金融機関の役員が国際的な場で議論するとなったとき、交渉テーブルの反対側にはゴールドマン・サックスだとかシティバンクだとか、年収十億みたいな連中がいる。
>こっちはせいぜい数千万円だから、ケタが違うわけですよ。
>それでも対等に議論をしなければいけないし、下手な英語でも頑張って主張し、戦っていかなければならない。
> そこで僕なんかは日本人の気概みたいなものが突然芽生えるわけですよ。
>この立場にある以上は頑張らなきゃと。
>そうやって戦っていくことを、1人でも2人でもいいから若い人に頑張って目指してもらわないと、日本国が成り立たない。
>そんな思いも込めて、本を書いたところもあるんですけど。
> だからまずは海外に出てみてほしいし、そういう世界があるんだってことを知ってもらいたい。
>見てみないことにはわからないと思うので。
>それで、こういう世界で日本はどうやって国として頑張っていけばいいんだろう、ということを真面目に考えてほしいんですよね。
>内側に縮こまっていちゃダメで、自分をどんどん外に出ていかないと。
日本人は序列人間。序列社会の居心地の良さが忘れられませんからね。
> それもアニマルスピリッツだと思うんですよね。
>たしかにじっとしているほうがラクに決まっているんですけど、能力がある人はその能力を生かさなきゃダメです。
>それは天から与えられたものなんだから社会のために生かさなきゃ、というのが僕の考え方でもあるんですよね。
>日本はルールのわからないゲームを無理やりやらされてきた
>堀内 今の話を引き継ぐと、日本だけがどのようなルールでゲームを戦っているのか知らない、という側面があります。
>経営共創基盤(IGPI)グループ会長で、経済同友会副代表幹事なども務めた冨山和彦氏は、よく「野球からサッカーにゲームが変わったのに、日本の経営者はまだサッカー場で野球をやろうとしている」と言われていて、私も本当にそうだなと感じます。
> 日本はなぜ太平洋戦争であれほど無謀な戦いをし、多くの国土を焼かれ、戦後どのような環境に置かれてきたのか。
>自分たちが何をやってきたのかということを理解しなければ、アングロサクソンやユダヤ系、台頭してきた中国といった人たちがルールの枠組を作って動かしている世界に、ただ乗っかることしかできないということになります。
そうですね。
> もしくは相手のルールに単純に巻き込まれて、「できた」「できなかった」と一喜一憂するだけになる。
>そうやって、相手の土俵で戦っている限り、勝てるわけもないです。
日本人には自主性がありませんね。
>苦しんだわりには報いは少ない、ということになってしまうだけです。
> ですから、自分は今どのような場に置かれて、何のゲームをどのようなルールで戦っているのか、それぐらいは理解しなければいけないと思うんですよね。
>徳成 一度、自分たちの立ち位置を俯瞰してみること、メタ思考が重要ですよね。
>堀内 若い人たちには、理由は何でもいいからとにかく海外に行け、と言っていまして。
>とにかく外の世界を見てこないと自分が何者かわからないですから。
> 私はちょうど読書に関する本『人生を変える読書』を出したところなのですが、その中でもその点を強調しています。
>自分がどのような視座を持っていて、どのような思考の枠組みにとらわれて世の中を見ているのか、それはその思考をずらしてみないことにはわからないんですよと。
イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。
何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)
> 横から見たり、上から見たらどのように見えるのか。
>うまく自分の思考自体をずらして別の角度から見てみる。
>そうしたメタな思考をすることが教養だと思うのです。
>それを身に着けないと。
> ずっとコツコツ真面目に同じことをやるのも人生ですが、メタ思考がないと、気付けばコツコツと人の作ったルールを守っているだけ、というふうになってしまうと思います。
>それだと最初から勝負に負けているので、まずはそのことに気付いてほしいなと。
>徳成 日本は昔から天変地異が多いから、どうしてもコツコツ思考になりがちなんですよね。
>だって一生懸命頑張って作っていたお米が、自然災害で一晩でダメになるとか、当たり前だったから。
>あと1週間で収穫できる作物が台風で全部やられちゃう、みたいなことを長い間、何回も繰り返してきたから、危機に備えて蓄えておく、という保守的な国民性になったんだと思うんですよ。
>粘り強く、我慢強くなった。
そうですね。日本人にはこれしかない。
> かつ江戸時代に幕藩体制が300年近く続いたから、お上の言うことに従うことにも慣れ過ぎている。
そうですね。日本人には意思がない。だから、指示待ち人間になっている。
>だから人様のルールの下で戦うことに疑問を感じないんでしょうけど、本当は良くないですよね。
そうですね。日本人は思考停止になっている。日本人には現実 (事実) があって、非現実 (考え・哲学) がない。
>堀内 だからといって、ではこのゲームから抜けます、というわけにはいかない。
>江戸時代の人口はおおむね3100~3300万人だったと言われています。
>今は人口が減り始めているといっても1億2500万人ほどです。
>それでも江戸時代の4倍ぐらいいるわけです。
> マルクスは晩年、脱資本主義という視点から循環型経済を唱えていて、マルクス主義研究者の斎藤幸平氏もこれを支持しているのですが、鎖国をしていた江戸時代ならいざ知らず、これだけグローバル化した今の世界で、地域社会の中だけで循環してやっていけるのかと思うわけです。
> 世界に目を向けると、スペイン風邪の流行によって世界人口の数%が減少したと言われる第一次世界大戦直後は約18億人でした。
>これが今や、80億人を超えている。
>4倍以上です。
> それを循環型社会に戻すとなったとき、ではこの余剰人員をどうすればいいんだ?という話になってきます。
>地産地消みたいなことができたら一番いいのでしょうが、地球がこれだけの人口を養っていかなければいけない今、すべてを循環型経済とか脱資本主義に戻すというのは、私は現実味がないと思っています。
> つまり、資本主義というゲームは18世紀ぐらいから始まっていて、我々は知らないうちにそこに参戦しているのです。
>今さらそこから足抜けができなくなっているということです。
> そうであるなら、このゲームのルールをどのように持っていったら少しはマシに戦えるのか、私などはそこを一生懸命考えるのですが、少なくともエグゼクティブくらいのレベルの人は、この問題をきちんと理解してくださいね、というのが私の訴えかけていることなのです。
毬蹴りは世界中で行われていた。イギリス人がルールを作ったので国際試合が可能になった。
日本人がルールを作れば相撲の国際試合も可能になりますね。
為せば成る なさねば成らぬ何事も 成らぬは人の為さぬなりけり。上杉鷹山
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>現代ビジネス >日本人はなぜかくも神社に詣でることを好むのだろうか >「教え」のない宗教として神道というありかた >島田裕巳の意見 >・13時間
>東京十社
>2024年の幕開けは、能登半島地震など心を痛める話題が続いたが、多くの人たちが神社に初詣にでかけた。
>初詣の対象になるのは神社だけではなく、寺院のこともあるが、多くは神社である。
>私も、今「東京十社」について取材を重ねているので、そこに含まれる神田明神や品川神社を訪れたが、やはり参拝客は多かった。
>とくに神田明神の場合には、仕事始めの日に訪れたこともあり、企業のサラリーマンが集団で参拝に訪れている光景に接した。
>おかげで、神田明神の前の道路は通行止めになっていた。
>東京十社とは、明治元年に明治天皇が幣帛を捧げた准勅祭神社のことで、昭和天皇の在位50年を祝って、十社を巡拝する企画が持ち上がった。
>そこには、神田明神や品川神社の他に、根津神社、亀戸天神社、富岡八幡宮、芝大神宮、赤坂氷川神社、日枝神社、白山神社、王子神社が含まれる。
>そのなかには、祭で知られるところもあり、昨年私は、富岡八幡宮の深川八幡祭、芝大神宮のだらだら祭、神田明神の神田祭も訪れた。
>どこもコロナ流行の影響で4年ぶりということだったが、参加者も見物客も多く、祭りは活況を呈していた。
>ほかにも、根津神社のつつじまつり、白山神社のあじさいまつり、亀戸天神社の藤まつりも訪れた。
>「やはり祭はいいものだ」。
>祭の参加者をはじめ、参拝客や見物客の表情は明るかった。
>他宗教の礼拝施設に神社ならではの魅力
>おりしも、NHKの大河ドラマは「光る君へ」で、『源氏物語』の作者紫式部が主人公である。
>その第1回では、紫式部の母である「ちやは」が、夫の藤原為時の仕官がかなうようにと、山のなかにあるいくつもの社を訪れるシーンが登場した。
>紫式部が『源氏物語』を書いたのは、西暦1000年前後のことだった。
>それから1000年以上の歳月が流れたものの、私たちは、紫式部の母のように社を詣で、そこで祈りを捧げている。
>祈りはどの宗教でも行われることで、それぞれの宗教では固有の祈りの場が用意されている。
>仏教なら寺院、キリスト教なら教会、イスラム教ならモスクである。
>神社もその一つになるが、神社には他の礼拝施設にはない特徴がある。
>まず何より、オープンであるところに特徴がある。
>なかには開門と閉門の時間が決められている神社もあるが、ほとんどは24時間開かれていて、鳥居を潜れば、誰もが神社に詣でることができる。
>寺院だと、著名なものになれば、仏像や建築物などの文化財も多く、拝観料が必要である。
>神社には、寺院に比べると文化財が少ないせいもあるが、拝観料をとるところはほとんどない。
>神社が、インバウンドの対象になるのも、その点が大きい。
>京都や奈良の寺院をめぐれば、拝観料だけでかなりの額になるが、神社ではその費用がかからない。
>しかも、神社には鎮守の森が形成されていて、自然が豊かである。
>森林浴ができるところも少なくない。
>東京の明治神宮などは、創建から104年しか経っていないが、立派な鎮守の森になっている。
>これは計画に従って植林された結果で、明治神宮はあたかも古代からそこに鎮座しているようなたたずまいを見せている。
>他の宗教の礼拝施設だと、自然のなかにあることは少なく、また、観光地化されたものを除くと、信者以外の人間はなかに入りにくくなっている。
>鎮守の森のなかの参道を歩き、しだいに社殿に近づいていく。
>それによって自ずと敬虔な気持ちが高まってくる。
>これは、神社の大きな魅力であり、だからこそ神社をめぐる人たちが少なくないのだ。
>原初からの拝礼対象としての「岩」
>もともと神社には社殿はなく、礼拝の対象になっていたのは、巨大な岩、磐座であった。
>あるいは、磐座がある山、神体山だった。
>古くからの歴史を持つ神社で至る所に磐座を見かけるのも、神社のそうした歴史が関係している。
>昨年の暮れ、私は滋賀県にある日吉大社の奥宮を訪れた、それは、相当にきつい登りが続く山道を通っていくのだが、そこには桃山時代に建てられた牛尾神社と三宮神社が鎮座し、その中央に「金大厳(こがねのおおいわ)」と呼ばれる磐座が鎮まっていた。
>日吉大社の信仰は、この磐座からはじまるようなのだ。
>これも昨年3月のことだったが、久しぶりに伊勢神宮を訪れた。
>伊勢神宮は内宮と外宮からなるが、そのときの私は、どちらも訪れなかった。
>私がめざしたのは、「内宮磐座」であった。
>「大晦日の大祓式」身を清めてスッキリと新年へ 自らを振り返るいい機会にも
>内宮磐座は、内宮の北側にある。
>伊勢神宮の事務を司る神宮司庁の近くにあるものの、神宮の側はそこを聖域とはしていない。
>したがって、表示も出ていないのだが、グーグル・マップを開くと、はっきりと内宮磐座と出てくる。
>それは男根を思わせる直立した磐座で、内宮の社殿で参拝すると、はるか北にこれを拝む形になっている。
>20年1度の式年遷宮最初の儀式である「山口祭」は、この磐座の脇にある開かれた場所で営まれる。
>やはり伊勢神宮の信仰はここからはじまると思わせるものである。
>神社で祈るということ
>このように、神社を訪れることで、私たちは古代に思いを馳せることもできるのだが、そこでの礼拝の仕方にも特徴がある。
>祈る、礼拝するという行為は、どの宗教にも見られる普遍的な行為で、基本は、誰もがいつどこででも行うことができる。
>礼拝のための施設を訪れなくても、かまわないのだ。
>私は数年前のこと、千鳥が淵に花見に出かけたことがあったが、道端に座り込んで一人礼拝をしている外国人の女性の姿を見かけた。
>イスラム教徒のようだったが、イスラム教では礼拝の時刻が決まっており、彼女はその時刻が訪れたので、メッカの方角にむかって祈っていたのだ。
>私たちも、家の神棚に向かって祈ることもできるし、朝日や夕日に向かって祈ることもできる。
>だが、これはどの宗教にも見られることだが、人々は個人としてではなく、集団で祈ることにむしろ喜びを感じており、それは礼拝施設で行われる。
>キリスト教だと日曜日に集団礼拝があり、イスラム教だとそれが金曜日になる。
>仏教の場合でも、それぞれの寺院には定められた行事の日があり、その日に出かけていく。
>神社だと、初詣が圧倒的に多い。
>祈りについての神社の特徴は、まず、祈りのことばが定まっていないことがあげられる。
>最近の神社では、二礼二拍手という所作が推奨されているものの、祈りの文句というものはない。
>こころのなかでどう祈ればよいのか、社殿には何も掲示されていない。
>他の宗教であれば、それぞれに祈りの文句が定められている。
>仏教にも念仏や題目、あるいは真言などがある。
>私は、神道の特徴は「ない宗教」というところに求められるのではないかと考えている。
>詳しくは、最近増補版を刊行した『神道はなぜ教えがないのか』(育鵬社)を見ていただきたいが、開祖も教えも聖典も救いもないのが神道の特徴であり、そこには祈りの文句がないことも含まれる。
>個人で自由に祈ってかまわない
>逆に言えば、何を祈ってもかまわないということであり、私たちは世界平和から合格祈願まで、神社の社殿の前でさまざまに祈るのだ。
>集団で礼拝が行われる場合、一般の宗教では、そこに集まった人々は同じ所作をし、定められた祈りの文句を唱和する。
>ところが、初詣の際に、神社に膨大な数の人が集まってきても、そうした形にはならない。
>それぞれの人間が個別に祈りを捧げるだけで、集団で一斉に祈るわけではない。
>メッカへの巡礼において、イスラム教徒は中心にあるカーヴァ神殿にむかって一斉に祈りを捧げる。
>神社でも、そうしたやり方をとることが可能なはずなのだが、神社を訪れた人々は、長い時間列に並んでも、拝殿の前にたどり着くまでは祈ったりしない。
>もし、神社でも集団での祈り、あるいは同じ所作で同じ祈りの文句を唱えるよう求められたとしたら、私たちはそれに戸惑い、違和感を持つのではないだろうか。
>個人で自由に祈ることができる。
それは日本人の自由ですね。
>そこに、神社における礼拝の大きな特徴がある。
>あるいは私たちは、そこで、「宗教」と「宗教とは言えない何か」の区別をしているのかもしれない。
>神社での礼拝は後者なのである。
>戦前に、神道は宗教の枠から外された。
>そこには、神道の祭祀を国民に強制しようとする政府の政策が反映されていたが、一方で、神道を宗教と見なすことが難しいという事情もあったはずだ。
>戦後、神道も宗教となり、神社は宗教法人となった。
>だが、神社はオープンな空間であり、信者以外の人間にも開かれている。
>ない宗教である神道は、宗教ではないのかもしれない。
>私たちは改めてそのことについて考えてみる必要があるのではないだろうか。
そうですね。神道は自然崇拝ですね。世界中で見られますね。
日本人の文化には形式があって内容が無い。
たとえば、生まれた時には宮参り、結婚式はキリスト教会、葬儀の時は仏式のご厄介になる。と言ったようなものである。内容が無いからそれだけ余計に形式には力が入る。だから、改革運動は難しい。内容を考える欧米人には日本人が不可解な民族に映る。
供養は日本人の年中行事である。毎年供養 (針供養のようなもの) を繰り返しているが進歩がない。‘過ちは繰り返しませぬから’ と言うが、何が過ちかを説明しない。日本人の供養は歌詠み (気分・雰囲気・感情) であって哲学 (内容) ではない。‘もうこりごりだ’という感想の公表である。だから同じ過ちを避ける手段は得られていない。深堀しなければ真の反省にはならない。
何が過ちであるかを知る努力がなければ楽ちんではあるが、思考停止の人間にはこれしか道がない。だから人間そのものの改革が必要である。
我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英語にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。
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>SPA! >高2息子「大学には行かず芸人になる!」VS大学は出てほしい親。大卒芸人、笑い飯・哲夫が対応法をズバリ回答/がんばらない教育 >日刊SPA!によるストーリー >・1日
>芸人として活躍しながら、小・中学生向けの補修塾を経営する笑い飯の哲夫。
>そんな彼が子どもの教育に悩む親たちの相談に答えた週刊SPA!の連載が『がんばらない教育』という一冊の単行本になって12月22日に発売!
>◆息子が将来は芸人になりたいと言い出しました
>相談者◉48歳男性・会社員(妻、息子16歳)
> 息子は現在高校2年生。
>進路について話していたら「大学には行かずにNSCに入ってお笑い芸人になりたい」と言い出しました。
>お笑いが好きなのは知っていましたが、芸人になりたいと言い出すとは思わず戸惑っています。
> 夢を持つのはいいことですが、厳しい世界で成功できるのは一握り。
>うまくいかなかったときに就職しやすいように大学は行ったほうがいいし、芸人を目指すにしても大学でさまざまな知見を広げるのは悪いことではないと思います。
我が国は序列社会の国ではありますが、細い序列の階段を昇り詰めるのを成功と考えないほうがよいですね。人生の進路は多種多様であると考えるべきですね。
トットちゃん (黒柳徹子氏) のように自分の好きなことだけをやっていれば、仕事に神経は集中して能率は上がるし、それ相当の成果が期待できますね。
我が国の序列競争にかまけて自己の欠点の修復のみに時間をかけている人は、切って揃えられたような性能の人間になって規格に合格した設備の一部となっていずれは廃棄処分に付せられでしょうね。自己実現の道は難しい。
> 勉強がイヤで安易に「芸人になりたい」と言っているようにも見えてしまいます。
受験勉強ばかりが勉強ではない。序列競争ばかりが競争ではない。我々の序列は国際社会で通用しない。人間をもっと大きく広げよう。
>大卒の芸人として活躍する哲夫さんのアドバイスをいただけないでしょうか。
>◆哲夫のアンサー
> これはなんのアドバイスを欲していらっしゃいますか。
>限られた文字数で端的にお答えしていますので、相談の的を絞っていただいたほうが提案に満足してもらえるかと思いますが、今回は朧げな相談なので困惑しています。
>なんか、バッターボックスで構えていたら、ボールを投げるはずのピッチャーから、うどんの麺がいっぺんに20本くらい飛んできた感じです。
>「さあピッチャー讃岐投手、第一球投げました。
>ストレートのうどんがいっぱいだ。
>バッター、麺が多すぎて打てない」と、ラジオから聞こえてきそうです。
>また、ラジオのスピーカーの小さい穴の群れから無数のうどんがぐにゅっと出てきそうです。
> さて、プロの大卒芸人の表現力を味わっていただいたところで、勝手に相談の的を絞らせていただきます。
>◆「大学に受かったら芸人になってもええぞ」と言えば一発
> とにかくお父さんは、息子さんを大学に進学させて、そのまま大卒で就職させたいから、今、どうすれば大学入試のための勉強をさせることができるか、というご相談ですね。
> また、子どもの夢は大事にしてあげたいけれど、息子さんが芸人として成功するのは99%無理だから、さりげなくあきらめさせてあげる方法はないか、という第2の相談もありますね。
>では早速、解決策を講じてまいります。
> しかしながら、ご相談が2つに分かれているため、これらをまとめて一気に解決しようとすると、朧げな回答になってしまう恐れがあります。
>朧げはもうこりごりですので、2つのご相談に対して、一つ一つ個別に回答いたします。
> まず一つ目のご相談ですが、これは簡単に解決します。
>「大学に受かったら芸人になってもええぞ」と言えば一発です。
>息子さんは直ちに受験勉強を始めるでしょう。
> 次に2つ目のご相談です。
>そもそも、同じ人間が16歳で志す夢と、18歳で志す夢と、20歳で志す夢が全て同一かというと、ほぼそんなことはありません。
息子さんも18歳になれば日本人として必要なことはあらかた吸収していますね。だから、わざわざ大学で学ぶ必要はない。日本の大学は遊ぶところだという見方もある。
‘(略) しかしいったん、大学に入れば、控えめに表現しても、成績と出席の基準はたるんでいる。大学を含め、日本の子供たちが習うものごとの中核は、主として十八歳までに吸収される。’ (フランク・ギブニー)
>成長の過程で憧憬は右往左往します。
>しばらく放っておきましょう。
それが良いですね。自分自身で自分の道を探す癖を付けましょう。
>◆芸で大成したいなら、身の回りのことは一人でこなすべき
> それはそうと、芸人になりたいと言えて、それを親御さんが頭ごなしに否定しない家庭っていいですね。
そうですね。
>ただならぬ温かさを感じました。
>おそらく、洗面所にはふわふわのタオルが掛かっているようなお家ではないでしょうか。
>息子さんからしても、居心地のいいお家に違いありません。
> しかし、居心地のいい親元で芸の下積み時代を過ごしてヒットした芸人を知りません。
>芸で大成したいなら、早いうちに親の手を離れる必要があります。
好きなことはすぐに覚えられるでしょう。
>洗濯など、身の回りのことを一人で熟していくことによって、自分自身が商品であり表現者であることを自覚し、成功の妨げとなる甘えを捨てられ、ダウニーなどの語彙を養えます。
> 自宅から通えない大学だったら売れるかもしれません。
>★成長の過程で夢は右往左往するからしばらくは見守ろう
そうですね。
中川淳一郎氏は ‘得意と苦手を自分で判断させるアメリカ’ について書いていますね。日本人の視野を広げるのに役立ちますね。
(略)
>【笑い飯・哲夫】
>’74年、奈良生まれ。
>関西学院大学文学部哲学科卒業。’
>00年に西田幸治と漫才コンビ・笑い飯を結成。
>『えてこでも分かる笑い飯・哲夫訳 般若心経』(ヨシモトブックス)など著書も多数
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>現代ビジネス >日本人の「ダサさ」に影響を与えたのは「学校」だった…アメリカの教育との決定的な違い >中川淳一郎の意見 >・7時間
>国際的な存在感を失い安く買い叩かれる日本。
>アメリカ、タイ、ラオス、唐津で暮らした中川淳一郎氏が怒りと共にダサさ脱却を考える『日本をダサくした「空気」 怒りと希望の日本人論』(徳間書店)から一部抜粋して紹介する。
(略)
>得意と苦手を自分で判断させるアメリカ
>一方、アメリカの教育はまったく異なった。
>4年制の高校に入ると、得意不得意に応じて明確なクラス分けがされる。
>数学の場合は、学年の異なる生徒が同じ教室にいるのが普通だった。
>ザッと分けると私の高校では数学の授業についてはBasic ‒Algebra(代数の基礎)、Pre ‒Algebra(代数の初級編)、Algebra(代数)、Geometry(幾何学)、Algebra 2(代数2)、Pre ‒Calculus(微積分の基礎)、Pre ‒Calculus Accelerated(微積分の基礎上級編)、Calculus(微積分)となっていた。
> 受講する授業は各人の判断と将来なりたいもの、そして頭の良さに従っている。
>この数学については、数学が不得意な者は4年間数学の授業を取り、なんとかGeometryまでいって終わりになれる。
>数学が得意な者は1年次にAlgebraを取り、2年次にGeometryとAlgebra 2、3年でPre ‒Calculus Accelerated、そして最終年にCalculusを取る。
>だが、Calculusにまでいける生徒は300人いる1学年の生徒の内、20名程度だった。
>さすがにこの科目は4年生しか受けられない。
>まさに数学エリート達が受ける授業だったが、他の生徒は「オレは数学は苦手だが、体育は得意だ」と自信を持っていた。
>秘書になることを決めている生徒(ほぼ全員女性)は、こうした数学の授業は最低限取得し、簿記・タイプライティング・ワープロなどの授業を取っていた。
>こちらの方がよっぽど多様性を尊重しているし、その分野で極めて優秀な者が同じようなレベルの者同士で切磋琢磨でき、能力を高められるのだ。
>もちろん、日本でも高校以降は偏差値に応じ学校のレベルが変わっていくが、市に数校しかないようなアメリカの小都市(ただし面積はバカでかい)では、居住地域に応じた公立高校へ行くしかなくなる。
>するとその中で各人の得意分野を自分で判断し、自分の道を自分で切り拓くしかなくなるのだ。
>不得意な者を得意な者が待つような教育はここにはない。
>さらに、この公立の高校教育で、「オレが得意なものはあるが、オレができないものもある」は明確に培つちかわれる。
>デブの数学オタクはスポーツが得意な人間とは接しない。
>逆も然しかり。
>だから、アメリカは、一芸に秀でた人材を次々と輩出し、世界の覇権を握ったのであろう。
そうでしょうね。
>日本の人材は基本的には都会であれば、人気の大企業を志望し、地方であれば地元のより名の通った企業や公共機関・役所やインフラ企業で働くのが黄金コース。
>そこに乗れた人々は「いいところにお勤めで……。お父様、お母様も鼻が高いでしょう」と言われるものだ。
>或いは、地元の人から「お前がオレらの中の出世頭!」なんて言われる。
>とは言っても地方であれば、将来的に家業を継ぐための準備ができるところへいくこともあり、これは実に地に足が付いた生き方である。
>決して「周囲を見て自分もコースを決める」ではないので、立派だと思う。
>変人を認め、レールを外れても後ろ指をさされない社会
>アメリカ時代、よくつるんでいたのは数学・物理好きで優秀なnerd(うすのろ、ダサいヤツ、陰キャ)達だ。
>当然私もnerdだった。
>彼らと一緒に数学や物理等の学校代表として州大会にも出たことがある。
>彼らは一人を除き、全員大学へ行ったが、その後の進路が面白い。
>物理の大学教授、整形外科医、引きこもり、ペットフード工場社員である。
>一人だけ大学に行かなかったジェフは、大学に行くための奨学金を得るため、海軍に入る。
>するとそこで優秀だと認められ、結局海軍に残り、幹部になってしまったという。
>そして、イリノイ州では優秀とされるイリノイ大学に行ったスティーブは、実家に戻ったと言っていた。
>彼は一切勉強しないが、毎度数学のテストの点は良かった。
>テストが開始すると、「E=mc2」とだけテスト用紙に書き、問題を見る。
>当然公式は分からないのだが、アインシュタインの相対性理論を理解しているため、そこを起点に自ら公式を作り出し、問題を解いていくのである。
>しかし、致命的な欠点があった。それは「e」と「i」のスペルを間違えるのだ。たとえば、「ウナギ」を表す「eel」は「iil」となってしまう。
>「空気」である「atmosphere」は「atmosphire」で、こちらは一つのeは正確だが、一つは間違えてしまう。
>江戸っ子が「ひ」を「し」と発音してしまうのと同じと考えていいのかよく分からないが、とにかくスティーブに関しては「なぜお前はあんなに頭がいいのに、そんな簡単なことはできないのだ!」といつも思っていた。
>そんな彼が実家の地下室で取り組んでいたというのが、ビールの醸造である。
>その地下室には何度も行ったことがあるが、相当広い。
>確かにここなら醸造所にできそうだ、と思うものだった。
>会ったのは32歳の時だったが、「毎週シカゴに樽を持って行くんだよ。
>そしてカネをもらう。
>翌週もビールを売りに行ってまたカネをもらう。
>これの繰り返しだ」と語っていた。
>スティーブ・ジョブズとジェフ・ベゾスもそうだが、とかくアメリカの偉人は「自宅ガレージで制作を開始した(創業した)……」的なエピソードが多い。
>私の友人のスティーブの場合は「地下室で醸造を開始した」のだが、残念ながら今検索しても彼のビールはメガブランドにはなっていなかった。
>というか、アメリカ人はあまりにも同じ名前が多過ぎて検索できないのである。
>同じように数学・物理好きであっても、こうしてその先の道は多様な国の方が変人は認められるし、レールを外れても後ろ指をさされない社会である。
>何しろ「かくあるべし」が、よっぽど保守的な家に育った人間以外は、特に決められていないのである。
>日本は社会全体で「かくあるべし」を規定し、そこから外れた者は徹底的に糾弾の対象になる。
>だから周囲の目を気にし、怒られないことを仕事の最大のモチベーションにしてしまうのだ。
そうですね。
>「失われた30年」になるのも当然の話なのである。
日本人は思考を停止している。 だから、日本人には現実 (事実) があって非現実 (考え・哲学) がない。それで、日本文化には形式 (儀式) があって内容 (教義) がない。
だから、我々はその分余計に形式に拘る事になる。
内容が無いのであるから拘る形式もつまらぬことになる。
いいがかり(a false charge) とは、つまらぬことを口実にして無理をいう事である。まっとうな事が存在しなければ、つまらぬ事もつまらぬ事では終わらない。だから、無理はいじめになる。
日本人はこの言いがかりに日常的に苛まれている。他人の目恐怖症により精神的に疲れている。
たとえば、学校では校則があって「教育」「学校らしさ」「生徒らしさ」という形式に関する ‘いいがかり’をつけられて、学生にまっとうなルールが働かなくなる。上級生も自ら進んで「態度が悪い」「その身は何だ」と下級生の指導をしたがっている。マウント (注) の姿勢をとるのですね。普通の学生は対処のしようも無く自殺者も出る。宝塚歌劇団でもいじめは起こる。
こういったことは、本質に関する言論の自由を封じられた学校以外の集団でも起こる。たとえば、宗教教団であるオウム真理教教団(1995年に地下鉄サリン事件を起こした)では、教祖が気にくわない人物を殺すように命令していたが、それは被害者の「魂を高いところに引き上げる慈悲の行い(ポア)」という意味になった。また教祖が周囲の女性を性的にもてあそぶ性欲の発散は、ありがたい「修行(ヨーガ)」の援助だった。これも言論の自由を封じると理不尽ないいがかりをつけられる例である。
また、連合赤軍(暴力革命をめざして強盗や殺人をくりかえし、1972年にあさま山荘で人質をとって銃撃戦を行った)のような革命集団でも、グループ内で目をつけられた人たちが、銭湯に行った、指輪をしていた、女性らしいしぐさをしていたといったことで、「革命戦士らしく」ない、「ブルジョワ的」などといいがかりをつけられた。そして彼らは、人間の「共産主義化」「総括」を援助するという名目でリンチを加えられ、次々と殺害された。 これも言論の自由を封じると理不尽がはびこる例である。
(注)「マウント」とは、人類を含めた哺乳類が、相手の上に向かい合った状態で馬乗りになる、乗りかかる行為を指す。
登る、乗る、またがるを意味する“mount”が由来。
マウントを取る行為は、自分の優位性をアピールすることを意味する。
その延長で、容姿や仕事、お金や恋愛について話す様々な場面で、互いに“格付け”し合い、相手よりも上に立とうとする言動や行為の全般を表す。
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>まいどなニュース >この異常事態は誰のせい? 30年間上昇していない「日本人の給料」の上げ方 >まいどなニュースによるストーリー >・3日
>何かと出費がかさむ年末年始。
>この機会に「お金」、そして政府が経営者に促すものの一向に上がらない「給料」についてじっくり考えませんか。
>日本人の給料の現実と、上げ方をわかりやすく解説した本が話題です。
>その名もズバリ「給料の上げ方」(デービッド・アトキンソン著、東洋経済新報社)。
>著者は2017年から日本政府観光局特別顧問、2020年から政府の成長戦略会議委員などを歴任した伝説のアナリスト。
>給料の本質を明らかにし、給料を引き上げるために動き出せる戦略と戦術を紹介しています。
>「30年上がらない賃金」
>本署は冒頭から「日本人の給料」の現実について、以下のように解説しています。
>日本人の給料は、この30年間ほとんど上がっていません。
>一方、同じ時期に、税金と社会保障費の負担が増えたため、手取り収入は大きく下がりました。
>第二次安倍政権以降、岸田総理も含めて、歴代総理大臣は企業の経営者に「賃上げ」を訴えてきました。
>しかし、残念ながらその効果は微々たるものにとどまっています。
>一方、他の先進国では給料がコンスタントに上昇し続けています。
>なぜ、日本と海外の国々ではこんなに違ってしまったのでしょうか。
>答えは「海外では個人が給料を上げる主役になっているから」、この一言に尽きます。
そうですね。
>先進国では7割以上の労働者が、自分の給料を上げてもらうよう、毎年経営者と交渉しています。
>一方、日本人労働者を対象としたある調査では、7割以上の人が「賃上げを求めたことはない」と回答しています。
そうですね。日本人には意思がない。
>逆に言うと、自ら賃上げを求めたことのある人は日本では3割にも満たないのです。(本書より)
>「異常事態が30年続いている」
>経営者への賃上げ交渉の必要性はよくわかる一方、日本人的にはなかなか難しいようにも感じます。
>しかし、このことについても著者は明確に指摘します。
>いつのころに生まれたのかはっきりとはわかりませんが、日本にはお金にガツガツしたり、口に出すことを「はしたない」ととらえる風潮があります。
‘武士は食わねど高楊枝’ ですね。これは江戸時代の風潮ですね。
>そのため、「自分の給料を上げてくれ」と交渉するのが苦手だったり、慣れていないのも理解しています。
>また、日本人特有の奥ゆかしさも、給料交渉をためらわせる要素になっているのかもしれません。
>しかし、給料交渉をすることは、どこの先進国でもごく普通に行われているグローバルスタンダードな行為です。
日本の常識は世界の非常識ですか。
>「恥ずかしいこと」でも「遠慮するべきもの」でもありません。
賃金は経営者と労働者で決めることですね。
>このことは、これからの日本で生きていくうえできわめて重要なことですので、ぜひ肝に銘じておいてほしいと思います。(本書より)
そうですね。
>「会社との関係」を捉え直せば給料は上がる
>「賃金アップを経営者に求める」となると、労働組合が中心の交渉やストライキを思い浮かべますが、本書ではこういった日本の企業における従来型の交渉術ではなく、労働者個々が、平和裏に、経営者に給料に関する希望を伝え、賃金アップを目指すためのメソッドが数多く紹介されています。
>その主な内容は以下のようなものです。
>・給料が上がらないのは「日本人の能力」のせいではない・毎年4.2%の賃上げを実現する・見限るべき社長、ついていくべき社長・「よいものをより安く」では給料は上がらない・あなたは「評価される側」から「評価する側」になる
>言い換えれば、労働者個々が、自らをマネジメントし、ある種の「自営業」「事業主」的な考えを持って「会社と契約する」ことが、給料を上げていくための方法である、といったもの。
そうですね。労働者にも自主性が必要ですね。
日本人には意思がない。だから、受動があって能動がない。
日本語の文法には時制 (tense) というものが無い。だから、日本人には世界観がない。過去・現在・未来の3世界の内容を個別に示す構文がない。
意思は未来時制の文章の内容になる。日本語には未来時制は無く、日本人には意思が無い。だから、日本人は自主性が無く、上からの賃上げを心待ち待っている。もう30年も待っている。
>前述の著者の解説にもある通り、これから先の日本では確かにこういった働き方は、避けて通れないもののようにも思いました。
>「給料が上がらないのは、働く人の努力や能力のせいではない」
>なかなか興味深い内容ですが、著者の優しい筆致によって、わかりやすく「交渉のメソッド」が解説されているのも本書の良い点です。
>最後に担当編集者に聞きました。
>「2020年に、著者のアトキンソンさんに東洋経済オンラインで『日本人の「給料安すぎ問題」はこの理論で解ける』という記事を書いていただきました。
>この記事は200万近いPVを獲得、翌週のテレビ番組にアトキンソンさんが呼ばれるなど、大きな話題となりました。
>多くの人に『日本人の給料は安い』という認識を抱かせるきっかけとなり、この問題についての書籍も何冊か刊行されました。
>本書は、記事で問題提起した『モノプソニー(少数の買い手が多数の供給者に対して独占的な支配力を持つこと)によって給料が抑えられている』状況を、どうすれば打破できるのか、その道筋を書いてほしいと思い、刊行が決まりました。
>給料が上がらないのは、当たり前のことでもありませんし、働く人の努力や能力のせいでもありません。
>雇う側と雇われる側、その関係性を見直すだけで、給料が上がっていく流れをつくることができます」
>本書で紹介されている全てをすぐに実行できなくとも、「対価の交渉意識を持つ」「働く上でのマインドセット」のヒントにつながる解説がたくさんあります。
>ぜひ読んでみてください。
我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英文法にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。
『有能な人材が世界から日本に集まり、ここで世界に向けてサクセスストーリーが生まれるという国家を目指すべきです。 このための具体的な政策課題として (1)英語を第2公用語にする (2)定住外国人に地方参政権を与える (3)インターネットの接続料はじめ知的生産活動の基本コストを諸外国並みにする (4)日本の制度やシステムの中で国際基準と合致しないものを一括して見直す―の4点を提案したいと思います。』 (茂木敏充外務大臣)
我が国の ‘漢字かな’ は世界中何処の国に行っても通用しない。特にローマ字 (alphabet) の代わりに仮名を使用することには害毒がある。仮名漢字表記による学習で自分は世界に通じていると思い込む。だが、これは事実ではない。勝手な解釈により世界に関する独りよがりの解釈は避けられない。私は宿泊先のアメリカ人の名前は知っている。しかし、その綴り方は分からない。つづり字を考えることのない日本人の記憶方法だからである。このような文盲に近い体験の仕方では外国人との文通もできない。地図を見て探すことも難しい。かな書き英語が我が国民の国際化を果てしなく遠ざけているということができる。
国語の勉強は読み書きの練習である。ところが、日本語の仮名漢字表記は難しい。特に漢字の字形と音訓の習得に月日を費やし、目的の勉学の成果が遅れている。私の知人に '〇〇健' という名前の人がいる。彼は周りの人から 'タケちゃん' とか、'ケンちゃん' とか呼ばれている。'一体どちらが本当なのか' と私が尋ねると、彼は 'どちらでも良いのですよ' と答える。'でも、戸籍ではどうなっているのか' と尋ねると、'戸籍にはフリガナがありませんから、どう読んでも良いのですよ' という答えであった。これを '日本人の自由' というのであろうか。'あるべき姿' の追及がない。とりわけ漢字圏以外の国から来た外国人には日本語の漢字は難しい。日本語をローマ字表記にすれば彼らもたちどころに日本語を読めるようになる。能率の良い言語の習得には音読が欠かせない。読み書きが自由になると一人前の大人として活躍できる。筆記試験でも真の実力が発揮できる。外国人の能力に関してより公平な評価をする社会が我が国内に実現する。ぜひローマ字表記を法制化してもらいたい。ローマ字表記を仮名漢字表記と対等な地位にしてもらいたい。日本語をローマ字表記と仮名漢字表記の二刀流表記の国にすると良い。
'為せば成る 為さねば成らぬ 何事も 成らぬは人の 為さぬなりけり' 上杉鷹山 (うえすぎ ようざん)
>(まいどなニュース特約・松田 義人)
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>JBpress >全国学力調査のランク付け、やまません? 教育現場をすり減らす無意味な序列化 >寺田拓真によるストーリー >・10時間
> 文部科学省は12月21日、2024年度の全国学力・学習状況調査を4月18日に実施すると、全国の都道府県教委に通知した。
>この結果は例年、文科省が都道府県・政令指定都市別の平均点を公表し、都道府県によっては市町村別の平均点も公表されている。
>各市町村の判断によっては、さらに学校ごとの公表も可能だ。
>元文部科学省キャリア官僚の寺田拓真氏(現・広島県総務局付課長)は、こうしたランク付けは「ナンセンス」であり「アンフェア」だと訴える。
>それはなぜか?
>寺田氏の新著『教育改革を「改革」する。』(学事出版)より一部を抜粋・再編集し、お届けする。(JBpress)
>#1 “誰一人取り残さない”はずが格差拡大?ICTによる個別学習がはらむ副作用
>#2 楽しそう!でも続かない…個別ICT教育に内在する教育格差“再生産”システム
>教育改革のカギを握るのは「教師の成長」
> 僕の夢は「子どもの自殺をゼロにすること」、そして僕のビジョンは「学校を、もっともっと『自由な場』にすること」です。
>そのためには、表面上の取組ではなく、その根っこにある学校のインフラストラクチャー、すなわち「前例踏襲と横並びの学校文化」を変える必要があります。
そうですね。「前例踏襲と横並びの文化」には夢と希望がない。
> ですが残念ながら、トップダウンによる改革には、この文化を変えることはできず、むしろより強固なものにしてしまいます。
そうですね。上意下達はわが国の古い仕来りですね。
>そうではなく、必要なのはボトムアップの改善なのですが、こちらも残念なことに、現在の学校や教師には、自分自身が変化し、学校文化を変化させていくために必要な「四つのリソース」(カネ、ヒト、盾、自律性)が、いずれも決定的に不足しています。
そうですね。日本人には意思が無い。意思の無い人間には責任もない。
自己の意思を表明すれば当事者・関係者となる。述べなければ傍観者にとどまる。日本人には意思が無いので常に傍観者になっている。わが国は世界の中にあって世界に属していない。
> これを打破するための道として、本書『教育改革を「改革」する』では教師の「真の専門職化」を提案しています。
> ここでもう少し突っ込んで、「四つのリソースの欠如」を乗り越えるために、なぜこれが必要なのかについて説明したいと思います。
> ご覧の通り、四つの要素は互いに作用し、絡み合っています。
>しかし、ここで注目していただきたいのは各要素の中央、互いをつなぐものとして「成長の機会の欠如」が存在していることです。
> これまで教育行政や政治は、様々な法令や通達やプランを策定したり、(競争と管理による)プロジェクト型の予算を立案したりして、現場の改革を(半ば強引に)促してきました。
>しかし、この状況を真に改善するために必要なもの、それは、直球ど真ん中である「教師の人材育成」だと僕は思うのです。
> 言ってしまえば、教育の危機を救うのは、やはり教育の力。
>つまり、鍵を握るのは、「教育行政として、教師に対して、どれだけ成長の機会を届けられるか」だと考えます。
>ナンセンスでアンフェアな理由
> しかし、その前提として行わなくてはいけないことがあります。
>それは、学力テスト(アカウンタビリティシステム)の二つの改革です。
> 学校において子どもたちの多様な価値観が尊重されるようになるためには、学校自体の価値観が多様化されなくてはいけません。
>しかし現状は、学力のみ、それも、学力テストで測定可能な、極めて部分的かつ断片的な学力のみが、(教育行政、政治、メディア、保護者からのプレッシャーも受けながら)学校の価値観を支配していることは、これまで繰り返し述べてきた通りです。
> さらに言えば、支配しているのは、生徒一人ひとりの学力の「状況」や「伸び」ですらなく、自治体や学校の平均点の「順位」と、「全国(県・市町村)平均よりも上か下か」という、極めて矮小化された価値観です。
> ご存じの通り、全国学力・学習状況調査(以下「全国学力調査」)をはじめとする多くの学力テストは、毎年、「同じ学年」の、すなわち「全く違う子どもたち」の状況を測定しています(例えば小学校6年生が調査の対象なら、今年調査を受けた子どもたちは、来年は中学校1年生になり、来年の調査対象は、現在の小学校5年生の子たちになります)。
> そもそもの調査対象の子どもたちが違っているのに、「去年より学力が上がった(下がった)」(さらには「順位が上がった(下がった)」)と議論するのは、明らかにナンセンスです。
> また、これも言うまでもないことですが、子どもたちは学校の中だけで学んでいるわけではありません。
>「ほとんどの生徒が塾に行っている学校」と、「学区に塾なんてまるでない学校」の得点が同じ尺度で比較され、かたや「優れた学校」、かたや「劣った学校」と、社会的なレッテルを貼られるのは、どう考えてもアンフェアというものでしょう。
そうですね。序列思考のたたりですね。
> また、文部科学省自身も、全国学力調査で把握できるのは学力の一部分でしかないことを認めていますし、そもそも、全国学力調査の目的は、スコアによって自治体や学校を序列化することではなく、教育施策を改善することと、学校における指導の充実や学習状況の改善に役立てることにあるとしています1。
> そのような効果があることは認めますが、しかし、現場の実態から言えば、あまりに「副作用」が強すぎます。
>文部科学省が何と言おうと、結局メディアは都道府県や市町村のランキングを独自に集計して大々的に掲載し、保護者や地域住民はそこばかり注目して、平均点に満たない学校は「劣った学校」との烙印を押され、順位が下がった自治体は議会や住民からの叱責の対象となるのです。
そうですね。序列思考のたたりですね。
>では、どんな打ち手があるか
> 本書の中で「盾の欠如」として述べた通り、この状況のままでは、学校を特色化することも、学校の価値観を多様化することもできません。
>また、教師が「リサーチマインド」を発揮し、データやエビデンスに基づく実践を改善しようにも、肝心のデータ自体がありません。
> そこで、まずすべきことは、学力テストについて、以下の二つの転換、すなわち「結果からプロセス」「部分から全体」への転換を行うことにより、「副作用」を低減させるとともに、必要なデータを整備することです。
> なお、この内容は、カリフォルニア州のいくつかの学校区が「No Child Left Behind Act(NCLB)」への対抗策として開始し、現在も実施している「CORE Districts2」という取組に着想を得ています。
>①結果→プロセス: まず、単なる結果ではなく、そこに至ったプロセスを評価するため、自治体や学校における生徒全体の「平均点」ではなく、一人ひとりの生徒の「学力の伸び」を把握する必要があります。
> そのためには、特定の1学年のみを測定するのではなく、ある程度の期間の幅をもって(例えば小学校4年生~中学校3年生など)継続的に測定を行わなくてはなりません(パネル調査化)。
>また、項目応答理論(Item Response Theory(IRT))を活用するなどし、経年での比較が可能な設計とする必要もあります。
> しかし、これでもまだ不十分です。
>なぜなら、上記の通り、学力の伸びも、学校での学習活動以外の様々な要因の影響を受けるからです。
> このため、生徒や家庭の状況(例えば、どれぐらいの生徒が塾や習い事に通っているのか、困難を抱える生徒(障害、発達障害、学習障害、外国籍など)がどれぐらいいるのか、週末の生徒の過ごし方、家庭にある本の冊数など)を踏まえ、同じような特徴を抱える学校の間で、学力の伸びは比較される必要があります。
> 併せて、正解となった数(点数)以上に大切なことは、不正解となったプロセス、すなわち一人ひとりの生徒のつまずきを把握し、それに基づいて、その生徒に必要な支援を行うことです。
>これは、全国学力調査の目的である一方で、同調査を含むほとんどの学力テストからは、この点について有益な示唆はあまり得ることができません。
> なぜなら、これらの調査結果は、教師たちに「多くの生徒がどの問題につまずいているのか」は教えてくれるかもしれませんが、「目の前のこの生徒が、何につまずいているのか」「この生徒がつまずきを乗り越えられるようにするためには、どのような支援を行えばよいのか」については、多くのことは教えてくれないからです。
> この点、慶應義塾大学の今井むつみ教授らによる「たつじんテスト」では、認知科学の知見に基づき、教科学習の基盤となると考えられる「言葉、語彙」「数、形、量」「思考力、推論力」等について、一人ひとりの子どもたちがつまずいているポイントを明らかにすることが可能です3。
>こうした仕組みも活用しながら、学校の努力と生徒の努力の双方について、光の当たる場所を、結果からプロセスへと移行させていくことが必要だと考えます。
>学力のみならず、もっと包括的な調査を
>②部分→全体: これまで繰り返し書いてきた通り、生徒には、(テストで測れる狭い意味の)学力以外にも、様々な能力や個性があり、学校を「自由な場」にするためには、それらが等しく尊重される必要があります。
そうですね。
トットちゃん (黒柳徹子氏) のように自分の好きなことだけをやっていれば、仕事に神経は集中して能率は上がるし、それ相当の成果が期待できますね。
我が国の序列競争にかまけて自己の欠点の修復のみに時間をかけている人は、切って揃えられたような性能の人間になって規格に合格した設備の一部となっていずれは廃棄処分に付せられでしょうね。自己実現は不可能ですね。
>しかし、学力テストのスコアだけでは、学校が、このような生徒の多様な能力や個性をどれほど伸ばすことができたのか、あるいは、伸びるための環境を整えることができたのかは、まったくわかりません。
> 前述のCORE Districtsでは、こうした生徒の全人格的な成長と、それに対する学校の支援の双方を測定するため、ホリスティック・アプローチ(Holistic Approach:包括的アプローチ)を採用し、学力の伸び以外にも、様々な指標を設けています。
> 例えば、「School Culture/Climate」(学校文化・風土)というカテゴリーでは、「先生が学習をサポートする、あるいは、生徒同士がお互いに学習をサポートし合う、学校の文化があるかどうか」「学校のルールが公平なものになっているかどうか」「学校は、心理的に安全な場所であるかどうか」「先生や生徒とのつながりがあり、学校は自分にとっての『居場所』だと感じられるかどうか」などの項目について調査が行われています。
> 驚くべきは、生徒のみならず、教職員や保護者も調査の対象、すなわち調査の回答者に含まれているということ。
>調査の内容(質問項目)のみならず、分析するための視点についても、可能な限り包括的なものとなるよう、試みられているのです。
> 併せて、学力という認知能力に対して、非認知能力である「Social Emotional Skills」(社会情動スキル)というカテゴリーもあります。
>ここには、生徒の自己効力感(Self-efficacy)や、「自分はもっともっと成長できる!」という信念(Growth mindset)、状況に応じて自身の感情、思考、行動を効果的に調整する能力(Self-management)、他者の視点を理解し、共感する能力(Social awareness)などが含まれています。
> もちろん、これらの指標は、生徒の自己評価に基づくものであり、実際の成長や学校の努力以外にも、様々なバイアスなどによって影響を受けます。
>よって、スコアを鵜呑みにできるものではなく、分析や活用に当たっては注意が必要です(特に、ランキング化などは行うべきではありません)。
> しかし、そう言ってしまってこれらを調査の対象から外している限り、この分野の学術的発展も、教育実践の向上も見込むことができません。
>むしろ、そのような発展途上の分野だからこそ、アカデミックと学校現場双方の知見を結集して、研究・実践の精度を磨いていく必要があるのではないでしょうか。
そうですね。
(略)
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>読売新聞 >露外務省、パトリオットの米輸出で日本けん制…ウクライナにミサイル渡れば「敵対行為」 >読売新聞によるストーリー >・21時間
> タス通信によると、ロシア外務省のマリア・ザハロワ報道官は27日の記者会見で、日本政府が地対空誘導弾パトリオットミサイルの米国輸出を決めたことに関し、ウクライナにミサイルが渡れば「明らかにロシアへの敵対行為で、日本は2国間関係で重大な結果を負う」と警告した。
ウクライナはソ連崩壊により核兵器を放棄した。しかし、プーチン大統領は非核国ウクライナに侵攻し核兵器使用をちらつかせて恫喝した。
これにより我が国の非核三原則に依拠した安全神話は消滅した。非核三原則とは 核兵器を「持たない、つくらない、持ち込ませない」の三原則を指すものと1967年 (S42) 12月に佐藤栄作首相は説明した。日本人のお花畑はもうない。
「世界大戦を含むあらゆる戦争はすぐ終わらせられる。講和条約を結んだ場合、あるいは1945年の米国による広島と長崎への原爆投下と同じことをした場合だ」 (ロシアのメドベージェフ前大統領)
‘ウクライナでの戦争の教訓は、抑止力によって未然に戦争を防ぐ方が、侵攻してきた敵を後退させることよりも遥かに望ましいということだ。’ (マシュー・ポッティンジャー)
‘ロシアが力による現状変更を行っている国はG7(主要7カ国)では日本だけだ。北方領土だ。だから、ウクライナ問題で、ロシアを一番強く批判しなければいけないのは日本だ。’ (小野寺元防衛相)
>日本をけん制する狙いとみられる。
それがどうした。
イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。
何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)
> ザハロワ氏は、日本が輸出するパトリオットミサイルがウクライナに渡る可能性は「排除できない」と指摘した。
>ウクライナへの兵器などの供給は「直接、間接を問わず、罪のない犠牲者を増やし、ウクライナの残虐行為を助長するだけだ」と一方的に主張した。
ウクライナの残虐行為はロシアがやっていることですね。自分の事を棚に上げて発言するのは良くない。
> 日本政府は、防衛装備移転3原則と運用指針を改正し、パトリオットミサイルの米国への提供を決めた。
>ウクライナ支援を続ける米国で深刻化するミサイル不足を解消し、インド太平洋地域で米軍の抑止力維持につなげる狙いがある。
そうですね。
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