2018年05月29日(火) 

 

>私は日本が80年代のバブルの時期に大学・大学院を卒業しましたが、その頃はまだ終身雇用・年功序列が前提で、大学は入学時に優秀な学生を選り分けるためのフィルターでしかなく、企業は一流大学の学生であれば、大学での成績など全く関係なく採用し、必要な職業訓練は就職してからしてもらえる、そんな時代でした。

 

一種の徒弟制度ですね。社畜というのかな。

 

>しかし、その後、コンピュータ、インターネット、モバイルデバイスなどによって、世界は大きく変わりました。

>シリコンバレーを中心に、あらゆる産業をソフトウェアが飲み込むという大変革が起こり、数多くのベンチャー企業が生まれ、その中で、Microsoft、Apple、Amazon、Google、Facebookなどの企業が、旧来型の企業を追い抜いて成長して来ました。

>日本は、この大きな変化に全くついて行くことが出来ていません。

 

日本人は、ソフトウェアに弱い。

 

>未だに高度成長期を支えてきた大企業が社会全体に大きな影響力を持っているし、就職先としての人気です。

>政府も、その手の大企業を護送船団方式で守るという、時代遅れの政策しか取れません。

 

戦前の方式は、続けられていますね。

 

>ベンチャー企業は、以前よりは立ち上げやすくなったとは言え、資金面でも人材面でも、米国と比べると格段に難しいのが現状です。

>この「なぜ日本が変化に対応できないのか」という疑問は長年私の中にありますが、その大きな原因になっているのが、日本の官僚システムだと私は見ています。

>米国では、政治家が法案を作るし、政権が変わるたびに官僚のトップクラスがすべて入れ替わるし、政治家が思い切った政策の変更をすることが可能です。

 

米国人には意思 (will) がある。意思のあるところに、方法 (仕方) がある。Where there’s a will, there’s a way. 自由とは、意思の自由のことである。意思は、個人個人で違っている。個人主義であるから、自他ともに個人の意思を尊重する。政治家が法案を作って、自らの意思を示す。米国人は、自由が大好きである。

全ての考えは文章になる。文章にならないものは、考えではない。恣意は文章にならないから、議論の対象にもならない。恣意を表せば、’恥を知れ’ (Shame on you!) と言って一喝される。

 

>それに対して、日本では、法案を作るのは政治家ではなく官僚だし、政権が変わっても官僚は入れ替わらないため、政策の継続性がとても高いのです。

 

日本人には意思がない。意思のないところに方法 (仕方) はない。仕方がないからあきらめる。無為無策でいる。政策の継続性が高いです。

日本人には、意思がない。意思は未来時制の文章内容であるが、日本語文法には、時制 (tense) というものがない。だから、日本人には未来時制もなく、意思もない。優柔不断・意志薄弱に見える。

日本人には、意思はないが恣意 (self-will) がある。恣意 (私意・わがまま・身勝手) は文章内容にはならない。ばらばらな単語のままでいる。恣意の自由は ‘自由のはき違え’ になるので、認められない。意思がなければ、自由にも意味がない。だから、’不自由を常と思えば不足なし’ となる。昔の伝統は生きている。

 

>さらに悪いのは、官僚組織をピラミット型に保つためには天下り先が不可欠で、その天下り先が変化への抵抗勢力となってしまう点です。

 

日本人の社会は、序列社会ですからね。序列のきずなが、変化を妨げます。

日本語には、階称 (言葉遣い) というものがあります。上とみるか・下とみるかの判断が必要になります。上下関係を考えると、序列が出来上がります。

上下関係と上意下達で、上位の者の恣意を伝える方法が確立されているため、リーズン (理性・理由・適当) の入る余地がありません。この理不尽 (unreason) が、変化への抵抗勢力になっています。

 

>私が以前から指摘している「ゼネコンスタイルのソフトウェア作り」がいつまでたってもなくならない一番の理由は、日本のIT産業がIBMと戦っていた頃の「公共投資を使ったIT産業の育成」という時代遅れの政策が未だに続いており、そこで甘い汁を吸い続けているゼネコン企業にまっとうな進化圧がかからない点にあると私は思います。

 

日本語に関する思考停止が、問題に対する解決を遅らせています。言語は考えるための道具ですから、注意深く手入れをすることが必要です。                                                                                                                                                                                

 

>つまり、ますますソフトウェアが重要になっていくこの世の中で、日本企業の国際競争力を上げるには、霞ヶ関とITゼネコンの癒着・依存体制を破壊し、正しい形の進化圧をソフトウェア産業にかけて企業の新陳代謝を高めるしかないと私は考えています。

 

日本人の癒着・依存体質は、序列関係と思考停止により強められているのでしょう。

 

>もちろん、霞ヶ関の官僚自身は決してそんな政策は提言して来ないので、政治家がリーダーシップを持って痛みを伴う改革をしなければならないので、そこが一番難しいかも知れません。

 

霞が関の官僚は、政治家の意思で動く人たちですから、指導性はありませんね。政治家に意思がないのでは、指導性は発揮できませんね。そこが一番難しいところですね。

外国人は日本語を話しても、日本語思考には陥りませんね。日本人も英米流の高等教育を受けて、指導性を発揮できるようにしたらよいでしょうね。

 

 

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閲覧数845 カテゴリアルバム コメント0 投稿日時2018/05/29 11:55
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