>現代ビジネス >秋篠宮さまの「言葉ずかい」は「次期天皇」にふさわしいものか? ジャーナリストが抱いた違和感 >滝沢慎二によるストーリー >・11時間 >秋篠宮さまが11月30日に58歳の誕生日を迎えられ、それに先だって記者会見が行われた。 >宮内記者会所属の記者たちを前にした秋篠宮さまの回答は、飾りのない「フランク」なものだった。 >だが、「ぐずぐずしていた」とか「といったところでしょうか」などという表現は、“次期天皇”がオフィシャルな場で発する言葉としてはあまりにくだけすぎていて、ふさわしい品位や国民への誠実さを欠くと言えないだろうか。 >「反省」に続く言葉 >記者会からの最初の質問は、巨額の費用を伴った秋篠宮邸の改修についてだった。 >当初計画からの変更点が公表されなかったことや、次女佳子さまがいつのまにか分室で“独り暮らし”をしていることが、広く国民の疑問と関心の的になっているだけに、一番手の質問項目となったようだ。 >佳子さまの“独り暮らし”は、週刊誌の報道で明らかになり、「ぜいたくすぎるのではないか」との批判が高まった。 >宮内庁は今年6月30日になって、加地隆治皇嗣職大夫が記者会見で事実を認め、「大きな変更点であるため、説明すべきだと考えた」と釈明する一方で、「非常に大きな変更点で、(今)説明すべきだと考えた」と説明した。 >記者会見で秋篠宮さまは、こうした公表までの経緯やタイミングについて語り、最終的に「私自身がそのことについて、かなりぐずぐずしていたということがあります。 >つまり引き延ばしてしまい、非常にタイミングとして遅くなったなというのが反省点です」と話した。 >記者会加盟のマスコミ各社はこの部分を取り上げて、「先延ばしを反省」「遅くなったのが反省点」などと、秋篠宮さまの“反省の気持ち”を報じた。 >だが、宮内庁ホームページに公表された「発言の全文」を読むと、「反省点です」の後ろには、目を疑うような言葉が続いている。 >「といったところでしょうか」というのが、それだ。 >秋篠宮さまは、正確には「遅くなったなというのが反省点です、といったところでしょうか」と発言したのだ。 >私には、どうしてもこれが、「反省点です、とでも言っておきましょうか」と言ったも同然のように聞こえてならない。 >会見のノーカット版映像を見ると、秋篠宮さまは「反省点です」と話した後、しばらく考えを巡らせた上で、「といったところでしょうか」と続けており、考えた結果、もうこれ以上話すことはないと判断して、そう口にしたのだろう。 >だが、語尾にこのような言葉がつく表現を、素直に「反省の表明」と解釈できるだろうか。 >そもそも、なぜ簡潔に「反省点です」と言い切らないのだろうか。 >斜に構えたような言いようは、皇族としての誠意を疑われるとは考えないのだろうか。 >皇族の発言を企業の不祥事謝罪会見と一緒にしたら不敬だと感じる人もいるだろうが、それでもあえて言いたいと思う。 >社長が「申し訳ありませんでした。 >反省しております」と頭を下げた後、顔を上げて「と、いったところでしょうか」と口にしたら、見た人はなんと思うだろうか。 >恒例の「原稿なし」 >もともと秋篠宮さまは毎年の記者会見で回答の原稿を用意せず、その場で考え考えしながら話すのが恒例だ。 >原稿を手元に置いて話す兄の天皇陛下に比べ、「よりフランクな」「くだけた」皇族であることをアピールしているように見える。 >そうした慣例が生み出す現象だと思われるが、回答の冒頭に「んー」とか「そうですね」などの意味のない言葉が挟まることが多い。 >また、複数の質問を同時にされた場合、質問がなんだったのか分からなくなり、「あとは?」「それから?」「なんでしたっけ?」などと記者に聞き返すこともしばしばだ。 >これも比較するのは不敬なのかもしれないが、一般の会社経営者や政治家の場合であっても、公式な場での発言であれば、これよりはよほど整理してから言葉が発せられているように思う。 >秋篠宮さま誕生日 “佳子さま別居”そして“クマ被害”にも言及 >皇族として、発言のすべてが、省略されずに半永久的に記録に残ることを知っているのなら、あらかじめ出されている質問のメモぐらいは用意して会見に臨むのが常識ではないだろうか。 >「プライバシー」に当たるのか >秋篠宮さまは今回の記者会見で、佳子さまの住まいを明らかにしていなかったことについて「どこに住んでいるかというのはプライベートなことになります」「セキュリティ上のこともありますので、そういうことから公表しなかったわけです」と語った。 >だが、これにも疑問を感じざるを得ない。 >そもそも国民は宮邸の間取りや居室の位置を知りたがっているわけではない。 >宮邸の居室部分から離れて別棟に一人で暮らすというのは、一般人からしてみれば「宮邸を出ていった」あるいは「宮邸が分離した」という感覚に近いだろう。 >仮に常陸宮さまが常陸宮邸を出て別の邸宅に移ったら、それは広報されるべきことだと思う。 >秋篠宮邸の公室部分や居住部分がどういう位置関係にあるのか正確には分からないが、佳子さまが分室に住むようになったことに伴い、新たな玄関が作られるとの報道もある。 >こうした大規模な工事計画の変更を知らせずにいておいて、「いつの間にか別のところで暮らしていました」というのでは済まされないのではないか。 >現に6月には皇嗣職大夫が「公表すべきだった」という態度を示し、今回の会見で秋篠宮さまも「反省」を口にした。 >それなのに、なおもってプライバシーやセキュリティを持ち出すのは、いいわけがましく、「本当は自分たちが正しいが、責められるから公表し、反省も口にしておいた」といったニュアンスで受け止められても仕方がない。 >そもそも今回の宮邸問題に批判的な多くの国民は、公表の時期が遅かったことに憤っているのではなく、宮邸の改修自体にお金がかかりすぎていることに憤っている。 >節約のため娘二人の部屋を設けないことにした、と言うのなら、それが反対に経費増大になったという指摘は真実なのかどうか、具体的な金額をあげて説明して欲しかったはずだ。 >秋篠宮さまがその思いに応えず、計画変更を公表した時期だけに「反省」の気持ちを限定したのは、問題を矮小化して済ませようとしているようにも見えてしまう。 >次期天皇の自覚 >そもそも世間では、天皇陛下と秋篠宮さまの年齢が5歳しか違わないことなどから、秋篠宮さまは結局、将来即位しないのではないか、と見る向きも多いように思う。 >上皇さまが「退位」できたのだから、「即位を辞退」することも可能だろう、との見方だ。 >だが、上皇さまは、本人だけに適用される特例法という、一種の「超法規的措置」をもって退位にこぎ着けた。 >「即位の辞退」も憲法や皇室典範で想定されていない以上、実現させるためには「秋篠宮文仁親王一代限りの特例法」を再びつくらなければならないだろう。 >そうした道筋が現在どこにもない以上、皇位継承順1位の「皇嗣」である秋篠宮さまには、どこまでも「次期天皇」の自覚と心構えをもって身を処していくことが求められる。 >現状でそれができているのだろうか。 >会見では、「秋篠宮家へのバッシングととれる一部報道やSNS上の声」に対する考え方も質問された。 >秋篠宮さまは、そうした声がネットユーザー全体の中で多数派なのか少数派なのか分からない、とし、「私もこれから少し調べてみる必要はあるのかなと、(中略)全体の利用状況といいますが、そういうもののことですけれども、して(調べて)みたいと思います」と述べた。 >これにも強い違和感を覚える。 >次期天皇が、自ら目を皿のようにして、ネット上で自分の悪口のような書き込みをした人々の詳細やネットそのものの利用状況を「調べて」いくのだろうか。 >小室圭さんとの結婚が物議を醸した長女小室眞子さんの会見でも感じたことだが、こうした態度の後ろには、国民を、自分たちに味方する者と敵対する者に選別し、敵には対抗していこうとする意思を感じてしまう。 >一皇族としてはまだそれが許されるとしても、天皇や次期天皇の姿としてそれが正しいのだろうか。 >批判や中傷に対する「反論」が極めて制限されてしまう天皇や皇族の立場には、同情しなければならない。 >根拠のない誹謗中傷で個人の人格がおとしめられることも、あってはならない。 >だが、天皇や次の天皇が、その地位にある者として語る言葉には、おのずと自己を律する重みや、国民への真摯な思いが必要になるはずだ。 >今回の秋篠宮さまの言葉が、“天皇になる者”としての自覚に裏打ちされているかどうか、私たちは厳しい目で見る必要があるのではないだろうか。
秋篠宮さまに法律違反の有る場合にはそれを指摘して早速処分すべきですね。 しかしそうでない場合には気を付けないといけませんね。不当な ‘言いがかり’ を付けられて最悪の場合には大切な個人が命を落とす場合もあるからです。 日本人は思考を停止している。だから日本人には真っ当な考えがない。良い気分・雰囲気・感情を追い求めて小世界を作っている。これが危険の原因である。 こういったことは、学校でもそれ以外の集団でも起こる。宝塚歌劇団のようなところでも起こる。 たとえば、宗教教団は「宗教」の掟で包まれた別の世界になっていることが多い。 オウム真理教教団(1995年に地下鉄サリン事件を起こした)では、教祖が気にくわない人物を殺すように命令していたが、それは被害者の「魂を高いところに引き上げる慈悲の行い(ポア)」という意味になった。 また教祖が周囲の女性を性的にもてあそぶ性欲の発散は、ありがたい「修行(ヨーガ)」の援助だった。 また、連合赤軍(暴力革命をめざして強盗や殺人をくりかえし、1972年にあさま山荘で人質をとって銃撃戦を行った)のような革命集団でも、同じかたちの小世界がみられる。 そこでは、グループ内で目をつけられた人たちが、銭湯に行った、指輪をしていた、女性らしいしぐさをしていたといったことで、「革命戦士らしく」ない、「ブルジョワ的」などといいがかりをつけられた。 そして彼らは、人間の「共産主義化」「総括」を援助するという名目でリンチを加えられ、次々と殺害された。 学校も、宝塚歌劇団も、オウム教団も、連合赤軍も、それぞれ「教育」「修行」「宗教」「共産主義」という掟で包み込んで、内側しか見えない閉じた世界をつくっている。
アッケラカンとした世界の中でドライに割り切るセンス (判断力) が必要ですね。
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