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記憶と記録の間を埋める~郷土史家 関七郎氏の講座~
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2010年05月26日 10:39
平成22年5月15日(土)、掛川市竹の丸において竹の丸塾が開催された。竹の丸塾は、「地元の研究者の方々を講師に招き、郷土の歴史や文化を再発見する講座」である。今回は郷土史家 関七郎先生をお招きし、「掛川城と懸河駅について」のお話を伺った。



地方の歴史、自分の暮らすまちの歴史について、考える機会をいただいたような講座だった。
まず冒頭。
「その家で語り継がれていることも、3代、5代遡っても明治の頃となってしまう」と関先生。
確かに、例えば40代の私だったら、60代の母から母の祖父の話を聞くことができるのが限界。これが3代前だ。あと10年早かったら祖母が生きていた。祖母からそのまた祖父の話を聞けて4代前。

旧家の記録も戦乱や災害、旧家の没落などでなくなっている。また、明治の改革で掛川城の記録さえ紛失したものもあるという。
記憶と記録が大きく失われていく。どんどん失われていく。
郷土史家とは、記録と記憶の隙間を埋めて行く仕事なのかもしれないと、ふと思った。



東海道ができる前の「鎌倉街道」についてのお話は非常に興味深かった。
鎌倉街道はいったいどこを通っていたのか。
関先生の考えでは、現在の神明町、不動院と神明神社の間を抜け、旧東高の跡地の中を通り、さらに掛一小の中を通り、お城の北側、そして現在の国1の少し南側を通っていたのではないか、ということだった。



休憩時間には、地図を見ながら受講者が関先生に質問する場面が多く見られた。
東海道はイメージできる。どこを通っていたのか、何となく知っている。
でもその前の、「鎌倉街道」に想いを馳せたことはない。東海道ができる前に道が存在していたことすら、想像したことはなかった。でも、人は暮らしていたのだ。

自分の暮らすまちの歴史――。
「歴史」という言葉に押し込めることのない、もっと自由な、もっとぼんやりしたまちのイメージや、そこに暮らす人々の息づかいを感じたい。今、私たちが暮らすこのまちは、昔、どんなふうになっていたのだろう。水や人の流れ、買い物はどうしていたの、人々は日々をどのように動き、暮らしていたのだろう。
関先生のお話を聞きながら、自分の暮らすまちのことをもっと知りたいと思った。

もしかしたら、関先生も、こんなところからスタートしているのかもしれない。
先生の頭の中には、どれだけの歴史、資料がつまっているのかと考えると途方もないほどだ。一つ一つ調べ、想像し、また調べ、そうして一つ一つ歴史の隙間を埋めて行く。
途中、先生がおっしゃっていた「勘定が合うだろうか」の言葉どおり、系図や年表から想像し、勘定が合うか計算し、資料や現場をあたり、確かめていく。地道な学問だ。でも、誰かがやらなければ土地の記録と記憶はどんどん失われていく。



先生の目には、今の掛川のまちがどのように見えるのだろう。
講座が終わったあと、先生に質問してみた。
「資料をあたり、現場を見ていると、当時の町並みが目に浮かぶときはありませんか?」
関先生は穏やかに笑って、「ありますね」と答えられた。


[おまけの感想]
「1500年」ではなく、「明応」「文亀」といった年号が当たり前に出てくる関先生。いったいそれは何年??
関先生の頭の中では、長い歴史が、ずっとずっと元号でつながっているのかもしれない。

いただいた資料。
難しい漢字や旧字体でいっぱい。この資料を作るだけで、どれだけ時間がかかったろうと思う。漢字変換しても、きっと出ない字がいっぱいあっただろう。途方もない仕事だ。

それでも、「知りたい」「調べたい」という気持ちが勝るのだ。なんと豊かなのだろうと、思わずにはいられなかった。

関先生、ありがとうございました。



今後の「竹の丸塾」の予定は、竹の丸苦楽部コミュニティ内「竹の丸塾」をご覧ください。
http://e-jan.kakegawa-net.jp/c.phtml?g=146933

[レポート:いいじゃん掛川編集局/河住雅子]

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Re: 記憶と記録の間を埋める~郷土史家 関七郎氏の講座~
【返信元】 記憶と記録の間を埋める~郷土史家 関七郎氏の講座~
2010年05月26日 12:41
ゲストさん。
ありがとうございます!
さっそく修正しました~。

河住
Re: 記憶と記録の間を埋める~郷土史家 関七郎氏の講座~
【返信元】 記憶と記録の間を埋める~郷土史家 関七郎氏の講座~
2010年05月26日 12:32
例として出ている母君の歳ですが、60代が60台になっていますよ