まち本!の「一書簡が170年前の世相を垣間見せる~郷土史家 浅井保秀氏の講座~」
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一書簡が170年前の世相を垣間見せる~郷土史家 浅井保秀氏の講座~
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2010年06月11日 09:43
平成22年6月5日(土)、掛川市竹の丸において竹の丸塾が開催された。竹の丸塾は、「地元の研究者の方々を講師に招き、郷土の歴史や文化を再発見する講座」である。今回は郷土史家 浅井保秀先生をお招きし、「里道稲荷の創建と信仰」についてお話を伺った。



■「里道稲荷」を調べるきっかけ
掛川市下俣にある里道稲荷。「どうしてここにお稲荷さんがあるのだろう」と不思議に思っていた。
11年前、「天保掛川 宇洞山(うどうやま)眺望図考」を出版したとき、江戸時代の文人大庭松風さんの子孫大庭せいさんから連絡をもらった。大庭家は代々掛川宿下俣の庄屋であり、宇洞山は松風が大庭家に立ち寄る文人墨客を景勝地として案内したであろうとされる場所であった。
大庭せいさんと話をする中で、また大庭家の古文書を見せてもらう機会を得て、どうやら「里道稲荷」の創建には、大庭松風が関わっているらしいということがわかってきた。



■狐つきの話
大庭家には、天保5年(1843年)に下俣村の百姓3名が大庭家に送った書簡『一札之事(いっさつのこと)』が残されている。その中に、大庭家の隣家の下女いさに狐がついたという記述がある。文化10年(1813年)のことである。
いさは「私は宇洞山から来ました」と繰り返す。宇洞山は現在の掛川市役所のあたりだが、狐がいることは知られていたし、狐穴もあった。松風が狐につかれたいさに対してきつく諭したところ、いさは狐の声で「それは申し訳ありません。さっそく退きます」と言ったそうだ。
その夜、いさの身体から狐は離れ、いさは元通り元気になった。
この話が、「里道稲荷」を作るもとになっているのである。



■祠建立まで
当時、狐は聖獣であり、お稲荷さんの使いとされていた。
それから20年あまりのあいだ、狐穴に立願した人の願いが叶ったという話が評判となり、その後ひましに参詣する人が増えていったという。
しかし、あまり多くの人が来るようになる場所は、どうしても藩や幕府に目をつけられやすい。松風は先手を打ち、祠建立の願書を出した。2ヶ月後、「小さなものなら苦しからず」と許可がおりた。
村人たちは狐穴付近を大庭家のものとすることを承諾し、松風は狐穴のあったところに祠を建立した。
狐の住んでいるところは聖域である。村人たちは「松風さんに管理してもらえれば、狐もおとなしくしているだろう」と思ったのだろう。村人たちは、松風に管理を任せた。
そうした約束事を『一札之事(いっさつのこと)』として書き残し、松風に送っている。これが出てきておかげで、「なぜ、里道稲荷ができたのか」というのこがわかったのだ。170年前の書簡が残っているということは、大変なこと。今、改めて「昔、こういうことがあったのだ」と知ってほしいと思う。



■その後の「里道稲荷」
明治8年(1874年)、祠は宇洞山から利神社にうつされた。明治の神社統廃合政策「一村一社」の影響だろう。
ここで不思議なのは、利神社にうつってからご利益が変わったということだ。金品の紛失、盗難など「失せ物」にきくと評判になった。実際、驚くほどご利益があって実例集が残っているほどだ。また、「現代でもきく」という人もいるという。
明治28年(1895年)、里道稲荷は大庭家敷地内の鬼門除けの地にうつされているが、その理由は明らかではない。

時代が変わることで面白いこともある。神の使いだといわれていた狐も、時代が下るにつれそうした対象ではなくなってきた現実もある。

人々の信仰を集めてきた里道稲荷。「お稲荷さん」は当時の人々の暮らしに、密接につながっていた。暮らしや、世相を、見守り続けたのだ。
下俣の「里道稲荷」の創建には大庭松風が大きく関わり、当時の様子や人々の暮らしをも垣間見ることができる。そして、心の病の問題は江戸時代でも実際に起きており、今回のように「狐つき」という形で捉えられる場合もあり、「信仰による治療が行われていたということがわかる。



■信仰とは「信じること」
30年ほど前、私は事故で生死の境をさまよい、同じ年、生まれたばかりの息子も病気で苦しんだ。そうした経験から、このエピソードは非常に身近に感じられ、神に祈りたいという気持ちもよくわかるのだ。
信仰とは、簡単にいうと「信じること」であると思う。私は特定の宗教はないけれど、30年前のあの事故から、また息子の病気から、神様という存在を信じるようになった。
心の豊かさは、その人の心の在りようで決まる。物事の判断も、人それぞれの心の在りようで決まる。だから、難しい。
無作法で無鉄砲者ですが、私も心の在りようを常に平らにするため、学び、これからも何とかやっていきたいと思います。ありがとうございました。



最後に、自分自身へのメッセージとして、論語の中から記します。

夫子(ふうし)の道は忠恕(ちゅうじょ)のみ

人間の道は、誠と思いやりである。



レポート:いいじゃん掛川編集局/河住雅子

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Re: 一書簡が170年前の世相を垣間見せる~郷土史家 浅井保秀氏の講座~
【返信元】 一書簡が170年前の世相を垣間見せる~郷土史家 浅井保秀氏の講座~
2010年07月26日 08:49
確認しました。
大場家ではなく、大庭家ですね。
大変、失礼しました。
さっそく修正しました。
ご指摘、ありがとうございました!
河住/いいじゃん掛川編集局
Re: 一書簡が170年前の世相を垣間見せる~郷土史家 浅井保秀氏の講座~
【返信元】 一書簡が170年前の世相を垣間見せる~郷土史家 浅井保秀氏の講座~
2010年07月25日 17:11
ご指摘ありがとうございます。
今、手元に資料がないため、明日確認しまして修正します。
ありがとうございました!

河住/いいじゃん掛川編集局
Re: 一書簡が170年前の世相を垣間見せる~郷土史家 浅井保秀氏の講座~
【返信元】 一書簡が170年前の世相を垣間見せる~郷土史家 浅井保秀氏の講座~
2010年07月25日 16:23
大場家とありますが、大庭家のまちがいでは?