まち本!の「清水眞砂子さん講演録1「放課後というたからもの 学童保育のもつ力」」
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清水眞砂子さん講演録1「放課後というたからもの 学童保育のもつ力」
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2011年03月08日 13:42
『ゲド戦記』(ル=グウィン著)の翻訳者としても知られる児童文学翻訳家で評論家の清水眞砂子さんが、地元掛川で講演された講演録をご紹介できることになりました。
原稿用紙にして23枚分。多くの示唆に富んだお話、じっくり読んでいただければと思います。
(原稿量が多いため、2回に分けて掲載します)

<講演録>
「放課後というたからもの 学童保育のもつ力」
講師:評論家・翻訳家 清水眞砂子 氏



■放課後の時間とは
普段、講演をさせていただくときにはかなりの準備をするのですが、実は今回ほど苦しんだ講演はありませんでした(笑)。社会の中で「学童保育」というものがどういう位置づけなのか、私自身にわかっていないこともあります。関っている方に聞いても自分の立ち位置が把握できず、一方に「こうなのだ」と決めてしまわない方がいいという思いもありました。そもそも私自身、教員を三十四年もやってきて「教育とは何か」「学生とどう向き合えばいいか」がわからないくらいなのですから。
昨日は、京都のシンポジウムに呼ばれて行ってきました。「子ども」と「夢」は切り離せないものになっていて、子どもは夢を持っているという前提でお話が進んでいました。振り返ってみると、自分が子どもだったとき「夢」など持っていなかったように思います。あるとき、実家の子どもに「大人になったら何になりたい?」と聞いたら、「おばちゃん、それ、ぼくが一番苦手な質問だよ」なんて言われたりして、それでハッとするわけです。そうだよな、大人は勝手に「夢は何か」と聞くけれど、大人だって今の職業を夢を持って選んだかといえば行きがかり上なった人が八割、九割なのではないかと思うんです。そういう現実をどこかに置いて、「夢」だの「希望」だの言っている。子どもは聞かれたから答えるけれど、私は何と愚かな質問をしてしまったんだろうと思いました。
学童保育がどうしてこんなに難しいんだろうと考えたとき、隙間の文化だからではないかという気がしてきました。学校という枠にも、家庭という枠にも入らない時間と空間。でも、隙間だからできることがたくさんあるわけで、ここで何に出会えるか、それはおそらくその子のその後の人生に大きな影響を持つだろうことも想像できます。
私自身、放課後ほど解放された時間はありませんでした。学校の授業もきらいでなかったし、知識が増えることは世界が広がることで楽しかった。でも、学校が終わるとランドセルを置いて隣の集落まで出かけて行って遊びました。六十年前といえばまだみんな貧しく、我が家は引揚者ですからさらに貧しく、家の手伝いもしなければいけない。田植えも小学校三年生からやっていましたし、労働は当たり前、また子どもにとっても家族の労働を担うのは誇りでもありました。でも一方で、ものすごく遊んでいました。それでいながら、まったくひとりの時間もけっこう持っていました。物理的にひとりなのではなく、まわりに友だちや家族がいたかもしれないけれど、ひとりで世界や自然と向き合っていた。そんなときに、子どもはいろいろなものに出会えるのです。『青春が終わった日』という自伝を書いて気づいたのですが、その後の人生の土台となったのは、その「ひとりでいるとき」に出会ったものでした。
放課後をイメージしたとき、私は二つの作品を思い出します。一つは1930年代に書かれたアーサー・ランサムの休暇物語。これは夏休みの物語ではあるけれど、まさしく放課後の物語でもあります。湖水地方の小さな島で子どもたちだけの時間、誰からも束縛されない生活が展開されるのですが、そのとき子どもだけが孤立して放り出されているかといえばそうではなく、何かあったときには大人がすぐ手助けできる体制ができている。でも素敵なのは、大人たちが手助けしようと四六時中、待ち構えているのではないのです。子どもの方ばかり向いているわけではないのです。私には、子どもの文学に大好きな大人の登場人物が何人かいるのですが、その中のひとりがこの休暇物語の『ツバメ号とアマゾン号』に出てくるジャクソン農場のおばさんです。このおばさんは農場を営むのが本来の仕事ですから、子どもの方などほとんど向いていない。むしろ「ついで」に必要とあらば子どもの手助けをする程度です。この距離感がいい。大人が大人としての生活をきちんとやっている。そういう大人を見ながら育つことがどんなに大切か、本を読みながらいつも思います。おそらく、学童保育の指導員の皆さんはこのような存在なのではないでしょうか。
もうひとつは、カニグズバーグの『ベーグルチームの作戦』という物語です。『そして、ねずみ女房は星を見た』の中でも取り上げましたが、ここには、放課後ひとりになれない子どもの姿が描かれています。学校という場所には先生がいて友だちがいる。家庭には親がいて兄弟がいる。そんな子どもが親の目からも先生の目からも離れてひとりになれるのは「放課後」という隙間の時間だけ。この作品ではひとりになれることが保障されるはずの時間が、町内の野球チームの監督にお母さん、コーチにお兄さんがなってしまったことで奪われてしまった主人公がどんな問題を持ってしまうかを、見事に描いています。ここに登場するお母さんも素敵で、ぜひぜひ読んでいただきたい本ですが、作者はこの本の中で「子どもの内的な成長の大部分はひとりでいるときに起こる。あとのわずかな部分が、家族や友だちといるときに起こる」と言っています。



■ひとりでいる時間の大切さ
ひとりでいる時間を持てるか持てないか、これは非常に大切な問題です。去年の秋、群馬県でひとりの少女が自殺をしました。いろいろな報道を追いながら、私は「あの自殺はなぜ防ぎえなかったか」を考えていました。今もです。例えば、あの小学校六年生の子に『もりのなか』という絵本を紹介してやる大人はいなかったのでしょうか。『もりのなか』は、子どもがひとりでいることの豊かさ、もちろん怖さや不安もあるけれど、ひとりでいたからこそ体験できた素晴らしい世界が描かれています。あの子のまわりにこうした世界を伝えてやる人がひとりでもいたら、と思うのです。新聞報道もそうですが、誰も彼もが「あの子はかわいそうだった」「ひとりでいてかわいそうだった」という。「ひとりでいてかわいそう」と「ひとりでいる子をいじめること」は、実は銅貨の裏表じゃないかと思うのです。ひとりでいることがマイナスだと考えるからかわいそうだといい、ひとりでいることをマイナスだと考えるからいじめてしまう。ここにあるのは「同じものさし」です。そのことに私たちは気づいていないのではないでしょうか。
ひとりでいることはそんなにかわいそうなことなのか。ひとりでいることはそんなに避けなきゃならないことなのか。私はそうではないと言いたい。ひとりでいることの豊かさを、大人たちが自分の成長過程の中でどれくらい実感しているか、ひとりでいることの必要性をどれくらい感じているか……。私たちはいつも群れてばかりいる。メル友が何人いるかを競うような空気の中にいる。友達といることが素敵なことであって、ひとりでいることは避けるべきことという思い込みの中にいる。放課後は、そうした豊かな時間を獲得できる時間でもあるのです。放課後がいかにそのための自由な時間と空間を子どもたちに保障してやれるか。私たちはこのことをどこかでちゃんと押さえておかなければいけないのではないでしょうか。そうしない限り、群馬で起こったようないじめによる自殺はなくならない。みんなでいることがいいことで、ひとりでいることが悲しいこと、そんな価値観だけで生きていたら同じようないじめはずっと続くでしょう。この既存の価値観に対抗しうる価値感を、子どもたちは持つことができないでいるのです。ちゃんと別のものさしがあることを伝えてやる人がいないと、子どもたちは大多数のものさしの中に巻き込まれて「ひとりでいることはさみしいこと」と思い込まされてしまいます。
私は大学に入学してくる学生に、毎年毎年「せっかく大学に来たのだから、ひとりでいる時間をたくさん持って下さい」と言ってきました。すると、これまた毎年、いく人かの学生が私の研究室にやってきてそっと言うのです。「先生、ひとりでいてもいいんですよね」と。そういうふうに思い込まされているんです。最近、もう一つ、「悩んでもいいんですよね」という学生もかなり出てきました。悩むこと、悲しむこと、怒ることはいけないことだと思っている。私たち大人は、子どもに明るく振る舞うことを押しつけているのです。喜怒哀楽の半分が欠けてしまって、それで人間らしいといえるのでしょうか。もちろん、危険なことに巻き込まれてほしくはないわけですから、子どもがひとりでいるときにはそれを遠くから見守る大人の目が必要です。ジャクソン農場のおばさんのような人がそばにいて、一人の時間が保障され、安心して一人の時間に向き合える、放課後がそんな時間になればいいなと心から思います。



■日常をともに生きる共同者として
さて、私は学童保育の子どもを「生活の共同者」と捉えたらどうだろうと思ったことがあります。「共に生きていく共同者」として捉えるということです。「これって学童保育を考えるとき、助けになるかもしれない」と思われる作家の佐々木赫子さんのお話がありますので、ご紹介しますね。
佐々木さんは高校の先生をしていて、二人のお子さんを保育園に入れていました。ある夕方、保育園に迎えにいったとき、お子さんたちの髪に夕日があたって美しく輝いていたのを見て、「子の子たちをどうしても自分の手元で育てたい」と思われたのだそうです。佐々木さんは高校の先生をやめました。何をしたかというと、彼女は専業主婦にしかできない育て方をした。べたべた甘やかすことではありません。二人の男の子に生活技術を徹底的に仕込んだのです。料理も、掃除も、洗濯も、手づくりのアイスクリームも、働いている親にはできないこと、家にいるからこそできることは何かと考え、その一つは生活技術を教えることだと気づいたと言います。男性であろうと女性であろうと、基本的な生活技術はちゃんと身に付けておいた方が人生楽しい。「便利」である以上に「楽しい」のですもの。学童保育は、こういうことができる場だと思いました。
生活の共同者として子どもを捉えるということは、大人もありのままの姿を見せることです。大人だって間違うこともあるわけで、欠点を抱えながら、でも少しずついい方向に努力する。その姿を見せることが子どもの手本になり、子どもの努力を支える力になるのです。そういう大人たちをそばで見ることのできる子どもって、いいなと思います。それは、学校より学童保育の場の方がずっと自由にできるでしょう。遊びや暮らしが中心になる学童保育は、全人的にいろいろなことができる、非常に可能性に富んだ場所だという気がするのです。

講演録2につづく

※この講演録は、主催者と講演者の清水眞砂子さんに確認を取ったうえ、掲載しています。

講演録作成:いいじゃん掛川編集局/河住雅子

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