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翻訳家という仕事2 ~評論家・翻訳家 清水眞砂子さん~
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2011年05月12日 13:13
翻訳家という仕事
評論家・翻訳家 清水眞砂子さん (掛川市在住)

翻訳家という仕事1より

■現実の世界と空想の世界を旅する
高校の教師を辞めたとき、一日8時間労働しないと食べていかれないのは当たり前と思っていましたから、私は一日最低8時間は机に向かいました。でも実際、仕上がる日本語文は1時間分、手書き原稿で400字詰4枚でした。今もそうです。では残りの7時間は何をしているかといえば、必死になって言葉を探しています。それから調べ物。何回も何回も下読みをするわけだから、事前に調べているはずなのに、本気で文章を書こうとするとまだまだわからないところが出てくる。調べて調べて、考えて考えて、ようやく1時間分の仕事ができるのです。

翻訳する際には、作者の持っている知識、さらには哲学にできるだけ近づき、できればそれをものにしていなければいけないわけです。あるときは魚のことを一生懸命に調べ、あるときは歴史の本を徹底的に読み、あるときはケーキの作り方、パンの焼き方、生地のねかし方まで勉強します。だから、ひとつの作品を訳し終えたときは、ひとつの部屋ひとつの世界に入っていくドアの鍵を手にしたみたいな感じです。例えば、アフリカのジャングルの動物物語を訳し終えた後は、ジャングルの動物たちの習性に詳しくなっているとか(笑)。

ただ、調べればわかるものでないものはたくさんあります。20代後半に『かぎっ子たちの公園』を訳したとき、作品中にロンドンのバス路線が出てきたのですが、そのバスから見える景色がどうしてもわからない。何番線の何番のバスに乗ると、建物の向こうにこういう景色が広がっている……と書かれているのに、私はロンドンに行ったことがないわけです。今だったらインターネットで調べられるかもしれませんが、当時はお金もないし、行くこともできない。ではどうしたかといえば、東京に行って旅行会社のパンフレットや写真を集め、景色の広がり方を想像しました。あのときは日帰りでいいからロンドン行きたい、一回でいいからそのバスに乗りたい、と思いましたね(笑)。



「ゲド戦記」の第二巻では、墓所の巫女になった幼いテナーが神殿の階段をのぼる場面があります。あれはマヤの神殿の感じかなと思っていたのですが、そうすると「行きたくて行きたくて」しかたがない。どうしても感じて確かめておきたくなる。つまり、5歳の女の子にとって神殿の石段がどのくらいの高さなのか、歩幅はどれくらいなのか、息を切らしながらのぼったのか、よじのぼるようにしてのぼったのか、それがわからないと文章のリズムや文章の呼吸がわからない。
この時は訳し終えて本になる直前に、メキシコに行くチャンスがきました。それが私にとっての初めての海外旅行でした。ある夕方、私はひとり国立人類学博物館にいました。マヤの部屋があり、あの玄室もありました。壁に掛けられた神殿の配置図は、墓所の地図にそっくりでした。来てよかったと思いました。
私の旅は今もそんな旅です。空気だとか、土のにおいだとか、そこに行かなくてはわからないことがありますから。もちろん、素晴しい人々にもいっぱい出会ってきました。そんな人々とは15年20年と交流が続き、友情を育んできています。

■言葉を決めていく
でも、言葉ではいっぱい失敗もしているんですよ(笑)。
イギリスのヨークにあるバイキング博物館に行ったときのことですが、シャーレに入った土くれの前に人だかりができていました。「feces」と書かれている。でも意味がわからなかったので、「これは何ですか?」とそばにいた紳士にたずねました。彼は
「stools」と答えてくれました。でも、私にとっての「stool」は椅子しかない。そこで私はまた「stoolsって何ですか?」と聞きました。すると相手は「いい加減にわかってくれませんか」という顔をするんです。それではっとしました。わかりました。「feces」は人糞だったのです。私は「人糞って何ですか?」と聞き、さらに「うんちって何ですか?」と人のいっぱいいるところで何度もその紳士に聞いていたわけです。本当に恥ずかしい(笑)。



そんなふうに翻訳をしていると、それぞれの分野に死角といっていいところがあることがわかってきます。児童文学作品には「人糞」なんて言葉はまず出てきません。生物学や医学の分野の人だったらすぐわかるでしょうが、児童文学では出てこない。そういう言葉ってありますね。
言葉についていえば、以前、ヨークの若い友人夫婦がわが家に泊まりに来たとき、私の話す英語は少し古いと言うんです。私が話している英語って、日本でいえば大正昭和の言葉のように感じられるらしい。私の場合、本から入った言葉が多いから、少し古い言葉がいっぱい出てくるんでしょうね。
でも、だからといって翻訳する場合、現代風の言葉で訳せばいいかといえば、これまた違うんです。そのとき流行した言葉はあっという間に古びます。ひものでいえば「一夜干し」「二夜干し」くらいの言葉がちょうどいい。言葉ってどんどん変わるから、長持ちする言葉を使わないと。十年持たせ、二十年持たせる言葉って一体どんな言葉なのでしょうかね。乾きすぎるとつまらないからちょっと干した言葉、生干しくらい(笑)、噛んでいくと味の出る、そういう言葉がいいのではないかと思います。

翻訳は、文化や習慣が違うことによる難しさもあります。現実の、まさに写実的な作品を訳すときは特にそうですね。
マーガレット・マーヒーの『ヒーローのふたつの世界』には、互いにファーストネームで呼び合う家族が出てきます。子どもが「お父さん」「お母さん」ではなく、名前で呼んでいる。私はそういう家族関係を体験していないので、会話のあり方やその空気がつかみにくいのです。名前で呼び合う家族の関係をどう表現していくか、言葉を決めていくか、とても難しいですね。
同じマーヒーの『ゆがめられた記憶』では、アルツハイマーのおばあさんと自分の精神の居場所を探している青年が出てきます。ある晩、スーパーの駐車場で二人は出会い、ほんの何日間かを過ごすわけですが、原文を読んでいると、作者がこのおばあさんをとても尊敬しているのがわかるんです。おばあさんの人生を大事にして、まるごと受け止めようとしている。私はその作者の想いを伝えなければいけない。日本の読み手がおばあさんに尊敬や愛情を抱くような日本語にしなければいけない。日本にこの人たちがいたらどんな日本語を使うかを懸命に考え、注意深く言葉を決めていきました。



「ゲド戦記」では、「whole」を「全きもの」と訳しました。「whole」は「complete」でも「perfect」でもない。光も闇も、善も悪も、全部含めて人間として引き受けようとする考え方がル=グウィンの中にあったのだと思うのです。でも、あの訳でよかったのか、ずっと気になっていました。最近また読み返して、「ああ、これでよかった」「間違えていなかった」と心からほっとしました。言葉というのは本当に怖いと思います。

言葉は、根っこを考えることによってその言葉の本来の意味がわかり解放される、ということがたくさんある。例えば「compliance」も、企業や体制側が「法令順守」という意味で使い始めるとその使い方しかないと思ってどんどん縛られていく。けれど、語源を調べると、そのまやかしに気がついて、自分を解放することもできる。

ところで、前にも言ったように言葉は、特に優れた書き手の言葉は、非常に論理的だから、こちらが「無」になっていないと、こちらの論理を無理やり持ち込んで何とか辻褄合わせをしようとして誤訳してしまう。原文がきちんとしているのに、自分のものさしを強引に当ててしまって後悔することがしばしばあります。
ただ、自分を無にするといっても、訳者はそれまでの人生で獲得した言葉を使うわけだから、どうしたって完全には「無」にはなりえず、翻訳というのはまさしくその矛盾の中にある仕事だと思います。訳者は黒子に徹しなくてはいけないのですが、それがとても難しい。
とはいえ、「言葉を選んで決めていく」作業はとてもスリリングな作業で、やり出すと夢中になってしまいます(笑)。

■掛川で暮らすこと
考えてみると、私は大学時代の2年間だけ静岡に暮らし、後、東京の短大で教えていたときは1週間に2泊3日のペースで東京にいましたが、それ以外は5歳で引き揚げてからずっと掛川に暮らしてきました。15年ほど前、「子どもの頃、あんなにも掛川を出たいと思っていたのに、なぜ私は掛川から出なかったのだろう」と考えたことがありました。そして、「出る必要がなくなったのだ」とわかりました。
カニグズバーグが『クローディアの秘密』の中で、「グループの中にいながら決してその一部にならない技術」について書いているけれど、私も本その他のおかげでその技術を身につけることができた。おかげで出る必要がなくなったのかもしれないと気づいたのです。
掛川にいながら、私はどこにでも行けます。本は時空を超えて、いくらでも旅することを可能にしてくれますし、日常生活でも手紙があり、Eメールがあり、電話がある。私たちは、オーストラリアの友人ともスウェーデンの友人ともよく電話で話をします。
子ども時代は「外に世界があり人々がいる」とわかっていても出られませんでした。でも少しずつ少しずつ、私は外の人々とつながる力を身につけてくることができました。
今、私の魂はここに引き留められているわけではありません。どこにでも行くことができる。だから、物理的にこの町を出る必要はないのです。というわけで、私はこうして掛川に暮らしています(笑)。



◎インタビューの中に登場した本
「ゲド戦記 全6巻」 アーシュラ・K・ル=グウィン作 清水眞砂子訳 岩波書店 (第41回日本翻訳文化賞受賞)
『トムは真夜中の庭で』 フィリッパ・ピアス著 高杉一郎訳 岩波書店
『かぎっ子たちの公園』 エリック・アレン作 清水眞砂子訳 大日本図書
『ヒーローのふたつの世界』 マ-ガレット・マーヒー作 清水眞砂子訳 岩波書店
『ゆがめられた記憶』 マ-ガレット・マーヒー作 清水眞砂子訳 岩波書店
『クローディアの秘密』E.L.カニグズバーグ作 松永ふみ子訳 岩波書店

取材レポート:いいじゃん掛川編集局/河住雅子
(平成23年3月29日、ご自宅にて)

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Re: 翻訳家という仕事2 ~評論家・翻訳家 清水眞砂子さん~
【返信元】 翻訳家という仕事2 ~評論家・翻訳家 清水眞砂子さん~
2011年05月13日 09:46
「ゲド戦記」では、「whole」を「全きもの」と訳しました。

…この言葉に作者の意をこめた清水さんの真摯さが伝わってきました。
近々 本棚から取り出して読み直してみますね。