倉真の、今は廃村となった地区に家を借り、しばしば訪れる辰濃和男さん。朝日新聞社の論説委員、編集局顧問などを歴任した人物であるが、「掛川というまちをどう見るか」についていくつかの文章がある。
ひとつは『生涯学習物語 掛川市制50年史』の巻頭言。
もうひとつは、『新幹線掛川駅開業20周年記念誌』の巻頭言。

昨年、ふとした縁でお会いして、その著作『ぼんやりの時間』にこんな言葉を書いていただいた。
楽しみながら歩けば、風の色がみえてくる。そして今、あらためて辰濃さんの文章を読み返せば、このような厳しい時代だからこその示唆に富んだ言葉の数々が、そこにあった。
あらためて、ご紹介します。
命なりけり年たけて又越ゆべしと思ひきや命なりけりさやの中山(西行) 日坂宿のあたりから旧東海道の坂道を歩いた。かなり険しい道である。小夜の中山で、「命なりけり」の歌碑に出あった。
この歌を詠んだとき、西行は六十九歳だった。陸奥行きは命をかけた旅だった。だからこそ難路を越えたとき「命なりけり」の絶唱が生まれたのだ。
絶唱の背後に、年老いた歌人の「命の滝」がとうとうと流れている。「見てくれ、私のこの命のほとばしりを」と峠に立った西行じいさんは息荒く、山々に向かって叫んだことだろう。
人の命の息吹を与えるものが掛川の山河にはある。私が掛川にひかれる最大の理由は、水や緑にみなぎる生命力であり、大地の豊穣である。その豊穣に寄り添った人びとの温かさである。掛川にはまた、交流の要衝が生んだ文化の深さがある。
別の日、倉真の松葉の滝をへて粟ケ岳まで歩き、阿波々神社前の原生林を歩いた。照葉樹の枝の妖しさ、磐座の岩の力強さ、古代人の祭祀場跡の静寂、ゆれる木漏れ日の遊び心、森を渡る風の声のやすらぎ、はるか南の、帯になっている駿河湾の躍動。
それらの太古から続く命の輝きが人を鼓舞する。掛川という都市の生命力を支えているのは緑であり、緑のふるさとが照葉樹林帯であることを粟ケ岳の森は教えてくれる。
いつものことだが、照葉樹の葉のきらめきに身をひたしていると、ふと、森をかけぬける縄文の人の幻影を感ずることがある。山の神にぬかづく里人の祈りの言葉を感ずることがある。昔の炭焼きびとの汗を感ずることがある。葛糸を紡ぐお年寄りの丸い背中を感ずることがある。そこには常に「命なりけり」の絶唱がある。
その命のみなぎりが全国一の茶どころを生み、緑茶文化の水準を高め、生涯学習都市を生み、新幹線掛川駅や駅前広場や掛川城天守閣を生む力になった。駅や天守閣を生んだ背景に市民の寄付があったのは、そこに尊徳の報徳精神、とりわけ「推譲」の教えが生き続けていたからだと思わずにはいられない。
報徳の根本にあるのは「天地創造の功徳」にいかに報いるかということだろう。私流に解釈すれば、それは天地の命、森の命、水の命に感謝し、その命の輝きに人びとが融和をはかることではないだろうか。
自然との対決ではなくて自然との融和を――。
そこにこそ掛川の未来がある。
平成16年3月 掛川市発行
『生涯学習物語 掛川市制50年史』より
未来風景のある駅 掛川をいちばん掛川らしくしているのは掛川駅だ、といった亡き友人がいる。世界中の駅を見てきたその友人は、とりわけ掛川駅が好きだった。三十三種類、百本の木々が植わっている駅前広場の風景を見て「おしゃれな駅だ」といっていた。
私は、新幹線を降りるとまず掛川駅の南口にでる。金色のモニュメント「合体」に挨拶をし、散策し、木陰に憩う。やがて北口にでてモニュメント「玄」に向き合い、静かな気持ちになる。それが掛川駅についたときの、おきまりの儀式だ。北口の広場には、光に満ちた風が欅や小楢や樫の梢を吹き渡り、その風の声を聞いているうちにいつか肩の凝りがほぐれ、ほっとした気分にひたることになる。
おなじみの森の木々を、これほど多様にこれほどたくさん植えて「日本の故郷の森」を演出した人々の中心に榛村純一前市長がいる。日本一といってもいい駅前風景を創った思想に、私は敬意をはらう。そこには榛村さんの、未来の文化を見つめた「文化力」がある。文化の深さを感じさせる政治こそ、ほんものなのだと思う。
倉真の山奥にある一軒家を借りてもう二十年近い。東京と掛川を往復しながら暮らす私は、掛川に来ると東京的な「こせこせギア」を「ゆったりギア」に入れ替えるのを常としている。樹木群のある駅前広場が、私にとって貴重なギアチェンジの場所なのだ。二十一世紀のこれからは、地球市民がみな故郷の木々の命を大切にし、「森の思想」を深めるということのほかに、未来はない。巨大都市のビル群にはもはや未来はない。
掛川のような、緑濃きエコロジカルな小都市こそが、近未来図の中核になるだろう。掛川駅前の風景はそのことを教えてくれる。
平成20年3月 掛川市発行
『新幹線掛川駅開業20周年記念誌』より
辰濃 和男(たつの かずお)東京商科大学(現一橋大学)を卒業後、朝日新聞社入社。
ニューヨーク特派員、社会部次長、編集委員、論説委員、編集局顧問を歴任。
1975年から88年まで「天声人語」を担当。93年退社後、掛川市の山奥の家を借り、しばし来訪。
『文章の書き方』『四国遍路』『「私流」を創る』『文章のみがき方』「ぼんやりの時間』など著書多数。
文責:いいじゃん掛川編集局/河住雅子