『晴れ男の南九州めぐり』その②
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2010年06月26日 21:15
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さて熊本城ですが、詳しく歴史の説明をしているとかなり長くなってしまうので、ここでは少しだけ述べさせて頂きます。
加藤清正も関ヶ原の合戦の前は秀吉に仕え、その後家康に就いたいわゆる外様大名ですので、掛川城の山内一豊公とは同じ立場の武将なんです。 天正16年(1588年)加藤清正は肥後北半国19万5千石の領主として古城(隈本城)に入ります。 そのあと関ヶ原の恩賞で清正は肥後南半国を併せ54万石の領主となります。 新城の現熊本城は慶長6年(1601年)築城に着手、1607年の新城落成を以って「隈本」を「熊本」に改称しています。 清正死後、2代目忠広の時に不祥事があり、加藤家から細川家に代わりました。 内閣総理大臣を務めた細川護煕氏は細川家18代目のご当主です。 現在の天守閣初め主要な建物は明治10年(1877年)、西南戦争3日前に火事で焼失してしまいました。 現在の天守は昭和35年(1960年)に再建された物で鉄筋コンクリート製です。 また本丸御殿は平成になってから復元された建物です。 熊本城は別名「銀杏城」と呼ばれ天守の脇に大きな銀杏の木が聳え立っています。 この木が天守閣の高さより高くなると不吉なことが起こると言われているそうです。 その1つが西南戦争3日前の原因不明の失火、他にもう一回不吉なことがあったそうですので、現在は上の方の枝を落としているようです。 ところで一昨年は熊本城の入館者数が日本一だった、と云うことを聞いていたので覚悟して入ったのですが意外や意外、がらがらに空いていました。 しかし当然掛川城とは規模が違いますのでコンクリートとは云え、風格が漂っていました。 天守の内部は博物館になっていて資料とともに歴代の武将の遺品が展示されていました。 天守の途中に他の城の写真が掲示されていましたがその中に掛川城の写真を見つけ、妙にうれしくなり、親しみが増して来ました。 掛川城もぜひそうして欲しいと思います。 . 最近復元されたというご自慢の本丸御殿はあまりにもピカピカ過ぎて、質素な掛川城二の丸御殿に慣れているせいか自分としてはあまり好きになれませんでした。 天守の入り口や広場には足軽や殿様の衣装をつけた方たちが待機していて、気軽に写真撮影に応じているので外人さんも大喜びでした。 この殿さまに扮した方は英語で自分が誰であって(誰に扮していて)、母親の名前はガラシャと言って・・・云々を説明していました。 これには驚きました、さすが観光名所だけありますね! この方たちの中で足軽姿の門番役の若い方は失業対策で雇われていますが、他はボランティアだそうです。 さてこのあと我々を乗せたバスは熊本県から宮崎県の観光名所「青島」まで約300kmを一気に進んで行きます。 静岡県内の観光バスは最近ほとんどガイドさんが観光案内をしませんが、こちらのガイドさんは何時間も休まずにずっと案内をし続けています。 歴史にもたいへん詳しくて実は熊本城の中は彼女が案内してくれたんですよ! 運転手さんもとても愛想が良くて、観光地や休憩でバスを降りるたびにバスから降りて添乗員さん、ガイドさん、運転手さんが一列に並んで「お疲れさまでした」と挨拶してくれるんです、毎回ですよ! ちなみにこのバス会社は鹿児島の「南国交通」です。 熊本県では目立たなかったのですが宮崎に入ると口蹄疫予防のための消毒マットが高速道路の料金所出入り口、サービスエリア入口などあらゆる場所に設置されていました。 東国原知事の等身大の看板よりもずっとたくさん見かけました。 ガイドさんの話によると発生地域の住民はその区域から外に出られないので買い物にも行くことができず、ノイローゼになってしまった人もいるとか、本当に深刻な問題です。 また静岡ではあまり見かけなくなったトンビが異常に多いのに気がつきました。 . やっとのことで南国「青島」に到着しました、一昔前までは「青島」と言えば新婚旅行のメッカでした。 パーム椰子やソテツが自生していてトロピカルムードを漂わせてくれていましたが、こちらも観光客はあまり多くはありません、やはり口蹄疫の影響なのでしょうね! 今夜の宿泊はこの青島の近くにある「青島パームビーチホテル」読売巨人軍の一軍が宿泊するホテルでした。 2軍はもう少し先のワンランク下のホテルだそうです。 夕食はバイキングでしたが「宮崎牛は如何ですか?」と言われたので焼肉にして頂きました。 おいしかったけど、高かったですよ! 一人前で4切れくらいしかありませんでした。 そしてこのゆったりしたホテルで九州最初の夜を満喫しました。 . |
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