市民記者コーナーの「“忍び”と懸河(かけがわ)・①」
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“忍び”と懸河(かけがわ)・①
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2010年07月01日 14:42
時代劇では「忍者」「忍びの者」「忍び」、なる人物が頻繁に登場して来て私たちを楽しませてくれていますが、その中でも「NINJA」という呼称は今や世界語にもなっています。



実はこれらの名称は戦後になって小説家たちによって名付けられたもので、その昔は「素破(すっぱ)」「乱破(らっぱ)」「透破(とっぱ)」「伺見(うかがみ)」「軒猿(のきざる)」、「物見(ものみ)」、「間士(かんし)」、「早道の者(はやみちのもの)」などその役割によって、或いは地方によって様々な呼び名があったようです。

そして通常は一般社会に溶け込んだりして隠密活動をしていますので、庶民はその存在をほとんど知らなかったようです。
ちなみに「すっぱ」とは現代社会でも情報を先取りしたり、または他人を出し抜く事などに対して「すっぱ抜き」と云うことばで残されています。


(伊賀神社:岡崎)

忍者と言えば伊賀の「服部半蔵」が有名ですが半蔵という名前は12代(服部半蔵正義=桑名藩家老、明治19年死去)まで続いています。
初代は「服部半蔵保長(やすなが)」で家康の祖父の時代から三河の松平家に仕えていました。
2代目はその息子「服部半蔵正成(まさなり)」で、俗に言われる有名な服部半蔵はこの方の事です。
この正成は「本能寺の変」のあと伊賀越えをして京都から家康を無事に岡崎城に帰還させた功績があります。

また、家康の長男である松平信康が信長に謀反の疑いを掛けられ、二俣城で切腹させられる際の「介錯人」に正成が選ばれたのですが、涙で前が見えず刀が振り落とせなかった、というエピソードも伝えられています。
そして江戸城には現在も「半蔵門」と呼ばれている門があり、いざという時に将軍が江戸城から甲州街道に逃亡するため門を伊賀同心が守っていたと言われています。
その半蔵門のすぐ近くに「西念寺」という寺があり、そこに「服部半蔵」が眠っています。

 
(半蔵門)            (服部半蔵の墓)

さてここからが懸河(かけがわ)と忍者の関わりです。
1568年12月~翌年5月までの約6ヵ月間、今川氏真が立てこもる掛川城に家康軍が攻撃を仕掛けて来ていますが、その中の武将の一人がこの2代目半蔵正成です。
そして関ヶ原の戦いの後、すなわち江戸時代最初の掛川城主は家康の弟の松平定勝ですが、定勝の長女(松尾姫)は服部半蔵3代目(正成の嫡男)の半蔵正就(まさなり)に嫁いでいます。



また懸河在住の“忍び”の統領として服部平太夫正尚と云う名前が残されています。
それは掛川城攻防戦の頃でしょうか、平太夫が「平塚山」で“狼煙(のろし)”を上げると二、三百人の「おちょぼ」が集まってきた、という伝説がその地区に残されています。
ちなみに「平塚山」とは現在の上西郷構江地区にある小山で、「おちょぼ」とは「忍び」の事を指しているようです。

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<To be continues>
http://e-jan.kakegawa-net.jp/modules/topic/topic_vi…=&l=20

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