市民記者コーナーの「【時を告げる太鼓】⑥完結編」
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【時を告げる太鼓】⑥完結編
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2010年10月29日 21:29
『その六・太鼓打ち』

時を告げる役割の役人は、どの程度の身分だったのでしょう?

“時の番人”である役人は「太鼓打ち」と呼ばれ、身分は下級武士(足軽級)だったようです。
慶応2年(1866年)の一関藩には太鼓打ちが3名配置され、一人につき三人扶持(五石四斗/年)を給されていた記録が残っているそうです。
松江藩では士分でない身分の低い者がその役目を命ぜられていて、太鼓役の俸給は一人扶持~二人扶持程度だったと言われています。

私の先輩の話によると掛川藩では五石取りの足軽が、太鼓番を務めていたらしい事を漏れ聞いています。

また江戸城では西の丸に「お土圭の間」という部屋があって、和時計が置いてあったそうです。
土圭の間坊主が時刻を太鼓坊主に告げ、太鼓坊主はもう一つの時計を確認して、太鼓を打ったそうです。

ここで太鼓打ちに関するエピソードをご紹介します。
1.高遠城では藩士登城の太鼓が辰の刻(現在の午前8時)を知らせると開門し、鳴りやむと同時に城門が閉じられた。
遅刻常習者は盆暮れに太鼓打ちに付け届けをして、ゆっくり打ってもらった。

2.津山城では文化5年(1809年)の早朝本丸台所付近から出火、太鼓櫓にも火が移ったが太鼓番は下りようとしなかった。
「わが家系は代々太鼓打ちを務めて来た、たとえ家老の命令でも持ち場を離れない」と頑張っていたので、家老は太鼓打ちの直属の上司に命じて引きずり降ろされる事になった。
後日この話を耳にした城主松平斉孝は、その忠義に対して恩賞を授けた。

『時のこぼれ話』
①正午
現在、昼の12時を正午と呼び、正午を基準にして午前、午後、と呼んでいますが、この「午」とは12支の午(うま)の刻であり、これが語源となっています。

②おやつ 
昼ごはんのあと、午後2時から3時頃(昼八ツ頃)に軽食を取る習慣があったのでその時刻付近の間食の事を「おやつ」と呼ぶようになった。

③丑三つ時(うしみつどき)
丑の刻は午前2時を中心とした2時間のこと、その2時間を4等分した3分目の事を指します。
即ち午前2時~2時半までの30分くらいで陰陽道では“魔物が徘徊する頃”と恐れられていました。

④討ち入り
赤穂浪士による吉良邸討ち入りの時刻「時は元禄14年12月14日」というのは有名ですが、討ち入りの時刻は七ツ(午前4時頃)でした。
当時は明け六ツを以って日付が変わったため、当時の時刻では14日ですが、現在では午前0時が日付の境界ですので、実際は12月15日の討ち入りという事になります。

⑤半ドン
長崎出島よりオランダ語のzondag=日曜日ということばが伝わりましたが、訛って“ドンタク”と呼ばれるようになり、やがて土曜日が半日休みの習慣が広まったことから半日休みの事を“半ドン”と呼ぶようになりました。
また、明治以降主要都市では正午の時報として空砲を鳴らしていましたが、土曜日はその空砲のあとが休日となったので“半ドン”と呼んだという説もあります。

さてこの「時を告げる太鼓」シリーズも、今回が最終回となります。
当初はこんなに長くなる事は想定していませんでしたが、調べて行くうちに次第に深入りしてしまいました。

私自身は当初、昔の人たちにとって“時”と云うのは、かなりアバウトなものだったのではないかと思っていました。
しかしその時代の人々にとって時を知ることは、戦いや行動の運命を左右するほど重要な事でもあった、というがわかって来ました。

先人たちの努力に感謝して、このレポートを完結します。

 

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Re: 【時を告げる太鼓】⑥完結編
【返信元】 【時を告げる太鼓】⑥完結編
2010年10月30日 20:25
Re: 【時を告げる太鼓】⑥完結編
【返信元】 【時を告げる太鼓】⑥完結編
2010年10月30日 15:08
知らないことが沢山あり勉強になりました。
ただ、もっと早くにこのページを見ていればよかったです。
1~5までの内容がわからないのが残念です。
次(その他)を期待して待っています。