市民記者コーナーの「リアルに「安政の地震」の爪痕が残る場所」
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リアルに「安政の地震」の爪痕が残る場所
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2011年08月09日 19:58
第17代掛川城主「北条出羽守氏重」 の墓所が近くに在ると言う事を探り当て、訪ねてみました。

北条氏重公は1648年から10年間、掛川城主となられた方です。(享年63歳)

このお方の母君は徳川家康の妹(多却)で高遠城の保科正直に嫁ぎ、その四男として生まれていますので、氏重は家康から見ると「甥」に当たる高貴な家柄の方なのです。
彼はその後「北条氏勝」の養子となって北条姓を名乗る事になります。

この方には5人の娘がいました。
その四女が「大岡忠高」に嫁ぎ、その息子は名奉行「大岡越前守忠相(ただすけ)」になります。
“大岡裁き”で有名な「大岡越前守」の外祖父に当たる方が、氏重公なのです。


(県指定重要文化財)

そのような方が掛川城主を務めている時に「掛川古城址=子角山」に三代将軍「家光公」の霊廟を建立し、それが現存している事でも知られています。

この方の墓所は各和の「永源寺」のすぐ南側にある袋井市の寺院「上嶽寺」です。
さぞかし立派なお墓だと思いきや、訪ねてみると夏草に覆われた古いお墓でした。
そして墓石は全て倒壊していました。
説明によると、「1854年の安政の大地震(M8.4)で壊れたまま」との事です。



中央が氏重公、右側が正妻、左側がナンバー2(近臣・河野作十郎)のお墓です。
かなり大きなお墓だったと思いますが、墓石は全て150数年前の東海地震で崩壊したままです。
150年以上も昔に発生した地震の規模を目の当たりにして、唖然としてしまいました。



そして私は当初「徳川ゆかりの方なのに、なぜ今まで修復する人がいなかったのか?」と立腹しましたが、線香を手向けてみると「これでいいんだ」と云う声が聞こえてくるようでした。

安政の地震を伝える重要な証拠を残してくれていることに感謝して、その場を後にしました。

書き込み数は2件です。
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2014年05月23日 22:44
大岡忠高に嫁いだ「北条出羽守氏重」の娘の名は「妙(たえ)」、だったそうです。
また保科家(氏重の実家)の菩提寺は長野県の高遠城のすぐ近く「建福寺」にあります。


実は北条氏重公の母親は江戸時代最初の掛川城主「松平定勝公」の妹です。
何だかんだで掛川とのつながりが深いです。

こちらのお寺(建福寺)には武田勝頼の母(お諏訪様)の墓もありました。
Re: リアルに「安政の地震」の爪痕が残る場所
【返信元】 リアルに「安政の地震」の爪痕が残る場所
2011年09月20日 20:57
氏重公は5人の子供が全て女子でした。
当時養子を迎える為には、当主(父親)が50歳未満であることが条件とされていました。
ところが氏重公が掛川城主に赴任して来た時は既に52歳を超えていました。

そこで彼は幕府に対して「家光公」のお霊廟を建立することによって、その法度を免じてもらおうとしたのです。

そしてその企みは着々と進行して行ったのですが、折しも江戸市中が未曾有の大火に見舞われてしまい、幕府からその約束反故にされてしまいます。
従って彼の死後は改易となりますが、その後氏重の義兄・北条重広の家系が旗本となりお家は継続して行きます。