市民記者コーナーの「「華麗なる一族」と掛川古城」
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「華麗なる一族」と掛川古城
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2011年08月20日 20:04
「今川義忠」 という名前はあまり馴染みではないですが“桶狭間の戦い”で織田信長に敗れた「今川義元」の事は、大部分の方がご存じだと思います。
実は義忠公は義元の祖父に当たる方です。

1467年~77年に勃発した「応仁の乱」を契機として、いわゆる“戦国時代”がスタートします。
駿河の守護大名である今川義忠は、破竹の勢いで西に向けて勢力を延して行きます。
当時東遠一帯は「横地一族」の勢力下に在りましたが、居城である横地城及び勝間田城は義忠率いる今川勢の攻撃により落城してしまいます。
ところが義忠は凱旋の途中「塩買坂」(旧小笠町の山中)で横地一族の残党に待ち伏せされ、討ち死にしてしまうのです。


義忠公が殺害された頃、嫡男の氏親(義元の父)はわずか4歳でした。
その後氏親は元服を迎えた1487年に今川家の家督を継ぎ、1517年「塩買坂」の近くに義忠の菩提を弔うため昌桂寺(現・正林寺)を建立したと伝えられています。

(義忠公の墓)

私がその「今川義忠」に興味を抱いていたのは掛川城との関係です。
一般的に「最初の掛川城は今川義忠の命により、その家老である朝比奈泰煕によって築城された」と云われています。
この度その義忠公の菩提寺である正林寺を訪問して、彼の墓参を兼ねて死亡時期の検証をしてきました。
奥深い山の中なので小さなお寺だと思っていたのですが、立派な寺院でした。
そして「義忠公」の亡くなったのが文明8年(1476年)4月6日夜半と云うことが、はっきりして来ました。

(菩提寺・正林寺)

掛川古城築城の年代は歴史家諸氏の解釈により30年以上(1469年~1505年)もの開きがありますが、義忠の死亡時期に関しては大きな相違はありませんでした。
従って「義忠公の命により」と云うことであれば、初期の掛川城は1476年前後に築城されたと云う事になります。

しかしこの時期掛川一帯は原氏の支配下に在りましたので、原氏の居城「殿谷城」が今川軍によって落城した1497年、その直後の築城説も捨てきれません。
もしこの年であるとすると、掛川城の築城は義忠公の嫡男「今川氏親の命」による事になります。

これは永遠の課題かも知れないですネ。
  

書き込み数は3件です。
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Re: 「華麗なる一族」と掛川古城
【返信元】 「華麗なる一族」と掛川古城
2011年08月27日 08:30
海若庵さん

昨日歴史の関係の定例会がありましたので、一部の方に高天神城を武田軍に落とされる時の掛川城の動きを聞いていました。

実は「見て見ぬふりをしていた」とのことでした。
当時の武田軍は圧倒的な強さを誇っていたので、城を出ればそこを攻め込まれる状況だったようです。

要するに要塞の中で迎え撃つ方が絶対的に有利であって、一旦外に出れば簡単にひねりつぶされてしまうくらい実力の差があったと推測されます。

「恐るべし武田の貫録」ですネ!
Re: 「華麗なる一族」と掛川古城
【返信元】 「華麗なる一族」と掛川古城
2011年08月22日 15:16
海若庵さん

コメントありがとうございます。
私は定年になるまで全く歴史に興味がありませんでしたので、実のところ高天神城との関係については知りません。

最初武田信玄が高天神城を攻めた時も掛川城にはあまり興味がなく、城下に火を放って去って行ったと聞いています。
第二次高天神城の攻防の時には浜松の家康が動けなかった代わりに、掛川城から何らかの手助けをしても良さそうなんですが、実際の所はどうだったのでしょうね?

動けば掛川城も危なかったのでしょうか?
三方が原の陽動作戦の例もありますしネ。

また諸先輩たちに聞いてみます。
Re: 「華麗なる一族」と掛川古城
【返信元】 「華麗なる一族」と掛川古城
2011年08月21日 17:39
いやあー?! 楽しいお話をありがとうございます。
史実に基づいて歴史を紐解くお話はワクワクしてきます。
掛川城の歴史をもっと知りたいと思っていた矢先でしたので、とても興味深く読ませていただきました。
私は大東地区に居を構えていますので、高天神城の攻防の折に、掛川城はどのような役割を果たしたのでしょうか。とても興味があります。機会がありましたら、教えてください。
海若庵でした。