市民記者コーナーの「茶道と掛川・その壱」
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茶道と掛川・その壱
【閲覧数】2,611
2011年08月21日 19:21
茶道の流派では「裏千家」「表千家」などが一般的に良く知られています。
しかし「宗偏流」という名前はあまりお馴染みではないと思います。

千利休の孫である千宗旦の没後、表千家、裏千家などの流派に分かれました。
宗偏流は宗旦の愛弟子である山田宗偏が始祖で、山田宗引は宗偏の甥に当たる方です。
宗偏は吉田(豊橋)の小笠原家に茶道師範として仕えていました。

宗偏の後を継いだ山田宗引は、正徳元年(1711年)掛川城主となった小笠原長煕(ながかつ)に従って掛川に移り住みました。
その時「宗偏」の二男「宗屋」も既に掛川にいて「宗引」が亡くなると実質的には「宗屋」が宗偏流を取り仕切っていました。



「宗引」は掛川で享保9年(1724年)3月29日、57歳の生涯を終え山田家の菩提寺である掛川市西町の「円満寺」に埋葬されました。

(西町・円満寺)

忠臣蔵で有名な「吉良上野介」は宗偏の弟子の一人でもありました。
山田宗偏は赤穂浪士の討ち入りの直前、吉良上野介の在宅日を別の弟子である脇屋新兵衛に教えたと云うエピソードが残っています。

「脇屋新兵衛」とは四十七士の一人「大高源五」の仮の名前です。
いわゆる「忍び」として潜入していたのですネ。

もしこの日12月14日を逃せば吉良上野介は永遠に江戸を離れる事になり、この事件は別の展開になっていたかもしれません。

お詫び:「宋偏流」=「宋徧流」をそのまま「いいじゃん」のページに掲載してしまうと、ご覧のように「文字化け」してしまいます。

本来の「行にんべん」では受付けないのです。
従って「にんべん」で投稿しています。

書き込み数は6件です。
[ 日付順 ] [ 投稿者順 ]
Re: 茶道と掛川・その壱
【返信元】 茶道と掛川・その壱
2011年10月22日 00:00
 biglemonさん、こんばんは。


 ご安心ください、私が見た限り、記述に誤りは見当たりませんでしたよ。
 あくまで、興味を持たれた方に向けての追加情報提供です。

 ところで、永江院さんは、宗へん流から破門されております。(笑)

 徧の「へん」の字は第二水準までのJISに有りませんので。固有名詞では、良くあることです。
 漢字文字コード統一については、旧来機器等との互換性を持たせねばならぬため、容易に解決できない問題です。
Re: 茶道と掛川・その壱
【返信元】 茶道と掛川・その壱
2011年10月21日 22:14
今頃読ませていただきましたが、

赤穂浪士のあの有名な茶会が「宋偏流」という名前だとは知りませんでした。

そして、その流派が掛川にも関係していくのですね。

とても面白かったです。

そして「行にんべん」だと文字化けするというのも、面白いです。
Re: 茶道と掛川・その壱
【返信元】 茶道と掛川・その壱
2011年10月21日 20:30
ちゆきさん

いつもありがとうございます。
自分としては市民記者として取材を中心にレポートしていますので、配布されている事も知りませんでしたし、内容が一致しているかどうかも確認はしていません。

当然本を読んでそのまま転載するのは簡単ですが、それはまずいと思います。
ちゆきさんがご存知の事とは違う場合もありますが、その点はご容赦ください。

もち大きな違いがある場合はまた「こっそり」お知らせください。
よろしくお願いします。
Re: 茶道と掛川・その壱
【返信元】 茶道と掛川・その壱
2011年10月21日 17:25
 こんばんは。

 山田宗引・宗屋については、市内の各小中学校に数十冊ずつ配布されている「この人に学びたい ―掛川の偉人ものがたり―」にも載せてあります。市立図書館にもあります。
 良かったらご覧ください。
Re: 茶道と掛川・その壱
【返信元】 茶道と掛川・その壱
2011年08月22日 10:48
サギソウさん

「永江院」の茶室は外側から見た事ありますが、宋偏流と云うことは知りませんでした。

宋偏流という流派も掛川では一般的ですが、他県から来た観光客は殆ど知らないですネ!
Re: 茶道と掛川・その壱
【返信元】 茶道と掛川・その壱
2011年08月22日 09:16
山田宗編のことは、以前私も別の資料で読んだことがあり
知っていました。
現在は、毎年3月の最終日曜日に円満寺の本堂において
茶会が開かれています。
永江院にもこの宗編流の茶室があるように聞いていますが
ご存知ですか。