市民記者コーナーの「【井伊家と掛川】 その二」
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【井伊家と掛川】 その二
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2011年09月06日 17:49
Episode・2 掛川城主の陰謀 

「井伊家」:井伊谷=旧細江町、は駿河守護「今川」の遠江侵攻に屈してその支配下に置かれてしまいます。

松平家も三河(岡崎)の領主でしたが松平広忠(家康の父)が家臣に暗殺されると「今川」に下る道を選択せざるを得ませんでした。
その忠誠の証として、嫡男の「竹千代=家康」は8歳にして今川家の人質とされた事は、広く知られています。



さて織田/今川の決戦となる桶狭間での「実質的な戦い」は、永禄3年(1560年)5月19日昼頃に始まった、と伝えられます。
織田軍わずか2,000の兵力で今川義元率いる25,000の今川軍に挑み、まさかの逆転劇で信長の勝利となりました。


(義元の墓)

当時今川軍に従軍していた井伊直盛(直政の祖父)はこの戦いの最中に戦死したため、その後養子(井伊直満の子)である直親が家督を継承します。
徳川四天王のトップと噂された有名な「井伊直政」は、この井伊直親の嫡男に当たります。

松平元康(家康)もこの戦いの頃は既に19歳の若者に成長し、今川の武将の一人として織田軍と戦っていました。
しかし桶狭間で義元が討たれると元康は家臣たちが待つ岡崎城に戻り、松平家を再興させるべく今川家から離反します。


(岡崎城)

家臣が次々と今川家から離散して行く中で、「井伊直親に松平家から誘いの手が伸びた」という噂が流れ、それを井伊家家老「小野但馬守」が密かに駿府城に出向いて、今川氏真に讒言(ざんげん:告げ口)したと云う事です。
*「今川氏真」:義元の嫡男で今川家当主、後に武田に追われ駿府から掛川城に逃げ込んで来る

それを知った直親は身の潔白を訴えようと、井伊谷城を出発し駿府城に向かいました。


(井伊谷)

多勢だと逆に謀反と勘違いされることを恐れ、わずか20名足らずの家来を引き連れて掛川を通過しようとした時です。

当時の掛川城主「朝比奈泰朝」(今川方の重臣)は、総勢200人の軍勢で直親を待ち伏せ、掛川領内に入ったところで皆殺しにしてしまいました。
永禄5年(1562年)3月2日、直親27歳、無念の死でした。

さてこの首を埋めた場所が掛川のどの辺りであったか、というのが問題なのです。
この件について井伊家側の考え方を取材しましたので、その意見を交えて続きを次回ご紹介します。




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Re: 【井伊家と掛川】 その二
【返信元】 【井伊家と掛川】 その二
2014年02月07日 20:28
ゲストさん

こちらのコーナーにお立ち寄り頂いてありがとうございます。
江戸時代には万治2年(1659年)井伊家から掛川城主として井伊直好を迎えています。
掛川城主としての井伊家は4代続きますが、その後越後の与板に転封されます。
井伊家についてはいろいろありました。

その越後から井伊家の家臣の方が掛川城を訪れたり、浜松の井伊谷からも関係の方たちが来られたおかげで、私も本当に勉強になりました。

こんな仕事をやっているからこそ情報が得られます。
感謝しないといけませんね!
Re: 【井伊家と掛川】 その二
【返信元】 【井伊家と掛川】 その二
2014年02月05日 21:47
私も父の実家が掛川で、家系図を作成していく中で、井伊家のことに行きつきました。血のつながりがあるわけではないのですが、この歴史なくては、語れないです。この記事を読んでとても納得しました。

掛川の歴史を調べている中で、この記事を読む前に、掛川城付近で、階段から落ち、足を捻挫したことがありましたが、今思えば、歴史をちゃんと調べなさいというメッセージだったように思います。

最後まできっちりと読みます。

大池の池辺神社の名前などが、セメントで塗りつぶされていたので、そこにも、いろいろと鎮守の神様のことであるのかな、、、と思いました。自分に縁のある街のルーツが知れて、本当にうれしいです。
貴重な取材をありがとうございます。
Re: 【井伊家と掛川】 その二
【返信元】 【井伊家と掛川】 その二
2011年09月08日 07:50
窓口のマドンナさん

マドンナさんに励まされて(おだてられて?)結局あと4回ほど続けるほどの取材をしてしまいました。

また近日中にアップします。
よろしくね!
Re: 【井伊家と掛川】 その二
【返信元】 【井伊家と掛川】 その二
2011年09月06日 23:02
biglemonさん

ありがとうございます。
ますます、面白くなってきました。
興味津々!

さぁ!次回をお願い致します。