市民記者コーナーの「【井伊家と掛川】 その三」
「【井伊家と掛川】 その三」の書込一覧です。
新着返信
返信がありません
QRコード
【井伊家と掛川】 その三
【閲覧数】827
2011年09月08日 21:03
 Episode・3 掛川首塚伝説の謎 

前号の結論として、「井伊直親=井伊直政の父」を初めとする19の首は「掛川の十九首町」に埋められた、と云う話からスタートさせて頂きます。


今から4年ほど前、私がまだ歴史に少し興味を持ち始めた頃の事です。
掛川城に10人ほどのグループが訪れました。
「我が主君たちの亡骸が葬られている場所があると聞いて訪ねて来た」と云うことでした。
渡された名刺には「井伊谷会」○○と記されていましたが、よくわかりません。
お話を聞くと「井伊直政」初めとする井伊家の発祥地だと云う説明でしたが、私はその当時「井伊直政」という武将すら知りませんでした。

当惑した私はガイドの師匠であるO先輩を呼んで、お相手をして頂きました。
そこで、わが先輩は「十九首の首塚」の場所を教えていました。
私は「あれは平将門の首塚と聞いていますが・・・?」と反論したところ、「公式にはそう呼ばれているが、井伊家の首塚という説もある」と言われました。


その当時私は「十九首の首塚」とは
「関東で打ち取られた平将門以下十数人は「首実検=検屍」のため平安京に送られることになったが、長旅で腐敗してしまう恐れがあったため勅使が京都から出発、首を持った使者が関東からそれぞれ出発した。」
「ちょうど落ち合ったところが中間地点の掛川で、そこで検視をして埋めた場所が現在の十九首町だ」
と、尤もらしい伝説を教えられて信じていました。

しかし井伊谷の方々の話を伺ってからは、十九首(平将門)の首塚伝説について、疑問を抱くようになって行きました。
なぜなら、考えれば考えるほど「理屈」が通らなくなってしまうのです。
「殆ど関東一円で活躍した(暴れまわった)将門の顔を、遠く離れた京都の役人が果たして判断出来たのか?」
「双方から出発して落ち合う云々の計画を打ち合わせする時間を考えたら、持って行った方が早いのでは?」と云う事です。
更に「京でさらし首にされたと云う話」も残っていますし、将門の首塚と言われている場所は全国に数か所あります。


その後「掛川史誌」などで確認したところ、朝比奈泰朝が井伊直親一党を掛川領内で待ち伏せして惨殺してしまった事件が記されていました。
井伊家の史料にもこれと全く同じ内容の記述が残っているので、この史実については間違いなさそうです。

しかし市の関係者にも確認したところ「直親の暗殺は確かだと思うが、そこに埋めたと云う証拠(記録)は残されていない」ということでした。
当然「平将門の首」にしても伝説が残っているだけで、確たる記録はありません。

私はその後ずっと「井伊直親以下19名の首塚」の可能性を信じていたのですが、実は「井伊直親」の墓が他にも存在していたのです。

もう一方の墓の謎について、井伊谷で取材して来ましたので次回ご紹介します。


返信書き込みはありません。