Episode・4 井伊谷を訪ねて このたび念願の井伊谷(いいのや)を訪問する機会を得ました。
*井伊谷=(現浜松市北区引佐町:井伊家発祥の地)

以前から時々連絡を取り合っていた井伊谷会のIさんが「是非!」と云うことで、ご案内して頂きました。

最初に井伊家の歴史の全てがあると云われる龍潭寺を見学することにしました。
なお「龍潭寺」は彦根市にもあります。
井伊直政が慶長5年(1600年)佐和山城主(後は彦根城)となる時に井伊谷から分寺しました。

まず約1,000年前井伊家の始祖「井伊共保」誕生の場所に案内して頂きました。
井伊家は藤原氏の流れをくむ由緒正しい家柄ですが、なんと井伊家誕生の地は寺から少し離れた場所にある「井戸から」との伝説があります。
(教育委員会は認めてないそうで、この井戸の近くで共保を見つけた事になっています)
こちらには「井伊直弼公」も訪れていて歌碑が残されています。
「わきいずる岩井の水のそこ清み、くもりなき世の影ぞ見えつつ」嘉永4年(1850年)6月5日 このあとの世の流れを予測しているかのような歌です。

*嘉永7年=安政元年11月に安政の東海地震(M8.4)が発生して掛川では天守閣、御殿の倒壊を含めた大被害がありました。
龍潭寺内には井伊家を初めとして織田信長、徳川家康ゆかりの寺宝が数多くありますが、鴬張り廊下を行くと西の梁に飾られた「左甚五郎作」の龍の彫り物が目につきます。

「左甚五郎」と聞いた途端、私ぐらいの年齢だとすぐそちらの方を向いてしまいます。
なにせ当時の彫り物師の「カリスマ」でしたからね!
霊廟の中には歴代城主の位牌、そして外の「井伊家歴代の墓地」には井伊家24代「井伊直政公」を含む22代の墓があります。
なお井伊直政のあとの歴代彦根城主の墓所は彦根市の龍潭寺に在るそうです。
歴代城主の墓の一つに「井伊直虎」と云う方のお墓がありますが、実はこの方は女性なんです。
桶狭間の戦いで父「直盛」が戦死した後、男子不在の井伊家の当主となって取り仕切っていたと言われています。
「なめられたらいかん」と云うことで勇ましい名前にしたようです。
*当初彼女には従兄に当たる「井伊直親」を婿養子に迎える話が出来ていたらしい、また幼い「井伊直政」の養母としても知られている。

そして龍潭寺は本来もっと広大な敷地だったのですが、明治初めの「廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)」によって、北側の半分ほどが「井伊谷宮」という神社になってしまったそうです。
井伊谷宮の宮司さんを紹介して頂いて説明を聞きましたが、この方は「賀茂真淵」のご子孫に当たる方でした。

さて本題の「井伊直親の墓」ですが、帰り際にやっと連れて行って頂きました。
それは龍潭寺からかなり離れた川の辺に一基だけ「ぽつん」と建っていました。
「十九首に埋められた筈では?」と思わず質問してみたのですが、「主君の亡骸だけはこっそり取り返しに行き、都田川のほとりで火葬しこの地にあった大藤寺に埋葬された」と云う答えが返って来ました。
この墓の横にも「直親は19人の従者と共に駿府に向かったところ・・・」と記されているので、掛川の「十九首の首塚」はおそらく従者(側近)たちだけの墓だ、と察することができました。

当日は、ほんの2時間くらいのつもりが井伊谷会会長Iさんの御親切に甘えて、丸一日に渡って井伊谷を案内して頂きました。
Iさんには、可睡斎に眠っている掛川城主「井伊直好」とその父「直勝=直政の嫡男」の墓参に行った事を話すと、掛川や袋井のお寺には他にも井伊家の墓があると言われました。
次はIさんに紹介された掛川市内の寺院を訪問してみます。