市民記者コーナーの「【井伊家と掛川】 その五」
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【井伊家と掛川】 その五
【閲覧数】1,492
2011年09月12日 08:11
 Episode・5 若君暗殺の悲劇 

永江院(掛川市下垂木)は延徳元年(1489年)大洞院の以翼禅師が開山した「龍穴庵」が始まりと言われています。
のちの永正15年(1518年)に「和光山永江院」と改められました。
1518年と云うと古城から現在の場所に掛川城が移ったばかりの頃ですよ!
(まだ今川氏親の時代です)



そして文禄二年(1593年)掛川城主山内一豊公が境内と伽藍を整備し、総門と龍の彫刻を寄進したということが棟札に記されていました。
山門の龍は「左甚五郎作」と云う表示がされていましたが、実際は飛騨の名匠「藤原棟教」の作と云われています。



実はこの龍が「夜な夜な門前の池に水を飲みに出るので、金網を張って出られないようにした」という逸話が残っていて、現在でも金網が張られています。



さて井伊家とこの寺院の関わりですが、墓地のほぼ最上段、歴代僧侶の墓所の隣にその墓はありました。
法名は「幻華大童子」と記され、建立者は「井伊力三太郎」となっています。
こちらの寺で伺ったところ、掛川城主の跡目争いで毒殺された「若君」の墓だそうです。



掛川城主「井伊直武」には正室との間に嫡男「直朝」と、もう一人掛川の遊女との間に「男児=弟君」がいました。
「直朝」は病弱であった事から、「弟君」との跡目争いが持ち上がり、結果的に優秀だった方の「弟君」は毒殺されてしまった、と云う事です。
貞享元年(1684年)10月19日死去と記されているので、丁度兄の「直朝」が城主の座に就いた年と一致します。



なお隣の小さな墓石は、若君を守り切れなかった側近が責任を取って割腹した、その方の墓だと云う事でした。
「サムライが責任を取る」と云う事はそういうことなんですネ!
現代では、いくつ命があっても足りないくらいです。

そして、この「直朝」はその後11年間ほど掛川城主を務めますが、途中で発狂して除封されてしまいました。
小さな掛川城ですが、こうしてみると結構「派手なお家騒動」があった事が伺えます。

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次に井伊家と関連のある寺院は「真如寺」ですが、このあと編集してご紹介します。



書き込み数は3件です。
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Re: 【井伊家と掛川】 その五
【返信元】 【井伊家と掛川】 その五
2011年09月16日 19:39
「左甚五郎」の名前がまた出てきましたが、実は彼は実在の人物ではなくて世論が造り上げた「英雄」だという説があります。

当時は顔写真があった訳ではなく、ちょっと掘り物が上手だと「左甚五郎だ」と言って金儲けした輩が横行していたようです。
ですから人情話にも面白い題材としていくつか登場しています。

日光東照宮の猫の話、鯉の掘り物比べなど数多い話が当時の庶民の憧れとして描かれていました。

「ねずみ小僧」も英雄視されていますが、実際はそうでなかったとか「宮本武蔵」の名を騙って用心棒代を稼いだ人などの話があります。
Re: 【井伊家と掛川】 その五
【返信元】 【井伊家と掛川】 その五
2011年09月13日 19:25
窓口のマドンナさん

このシリーズは、あともう一回で一旦終了する予定です。
のめり込み過ぎてしまったので、またリセットして考えます。

ありがとうございます。
Re: 【井伊家と掛川】 その五
【返信元】 【井伊家と掛川】 その五
2011年09月13日 00:16
おぉ・・

ますます、ドラマチックになってまいりました。
目が離せませんねえ~!