市民記者コーナーの「「愛の誓い」 岐阜城」
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「愛の誓い」 岐阜城
【閲覧数】1,213
2011年09月12日 20:44
「生涯私だけを愛して下さい!」

新郎:「一国の主になる事を二人で叶えましょう!」
新婦:「生涯私だけを愛して下さい」
これは我が城主「山内一豊」と妻「千代」との婚礼の時に交わした言葉だそうです。



岐阜は一豊がまだ信長に仕え始めたばかりの下級武士だった当時、貧乏長屋でお千代さんと祝言を挙げた地でもあります。
その地「岐阜」を訪れました。

まず最初に山内一豊の姉「通姫=北方殿」の嫁いだ「北方城址」を訪れました。
城主であった夫君「安藤太郎左衛門郷氏」が戦死すると「北方殿」は、当時の長浜城主山内一豊に呼ばれ、その後一豊が掛川~土佐と移封するたび一緒について行きます。
そして土佐で一豊の死を見取った後、74歳で死去しています。
(実際にこの間には様々なエピソードがありましたが、今回は省略します)



その後私たちは「岐阜城」を訪れました。
岐阜城は長良川を見下ろす金華山という山の頂上にある「山城」です。



元々は斉藤道三の城「稲葉山城」でしたが、最終的には美濃攻略を狙っていた「織田信長」の手に落ち、「岐阜城」と改名されました。
(この間にも様々な戦いがありますが今回は省略します)



現在の「岐阜城」は昭和31年(1956年)7月に完成しています。
ガイドの方は「復元」と言っていましたが、鉄筋コンクリート製で内部は博物館になっていますので、掛川城のような復元ではありません。



しかし圧倒されるのは、その高さです。
金華山そのものが320mもあるので下界は霞んで見え、まるで「天空の城」のようでした。



こんなところに城を造る方も凄いですが、攻める方もたいへんな事です。
逆に「こんな城は兵糧攻めすれば簡単に落ちる」と言っていた人もいましたが、私も同感です。
まともに戦ったのでは攻める側が圧倒的に不利ですからネ!

最後は斉藤道三の墓(塚)を訪ねました。
ガイドの方もあまり行った事がないほどで、何度か近所の方に場所を聞きながら辿り着きました。
こんなマニアックな旅人はあまり居ないのでしょうね?
彼は「まむしの道三」と呼ばれるほどの強面だったようですが、私は好きな武将の一人です。



最後は息子の「斉藤義龍」の裏切りにより殺されてしまう訳ですが、そこがまた彼らしい死に方だと思っています。
そして斉藤道三の娘の帰蝶(きちょう)ですが、織田信長の正室として嫁いだ後から、「濃姫」と呼ばれるようになったらしいです。
*「美濃から興し入れた高貴な姫」という意味だそうです



さて一豊公のエピソードに戻りますが、最期まで一豊はお千代さん一筋で、側室は持たなかったと言われています。
一人娘を地震で失った後は掛川で生まれた弟の康豊の子(国松)を養子に迎え、後継者として育て「土佐山内家2代目」を継承します。



生涯お千代さんとの誓いを守り抜いた一豊公、数ある戦国武将の中で「あんたは偉い!」と思った次第です。


書き込み数は2件です。
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Re: 「愛の誓い」 岐阜城
【返信元】 「愛の誓い」 岐阜城
2011年09月17日 09:48
山内一豊の弟(康豊)は一般的に良く知られていますが他に兄、姉、妹までいた事がわかりました。

そして一豊公の妻(お千代さん)は、一豊の亡くなった後「見性院」を名乗りますが、唯一この「見性院」だけは公的に確かな名前です。

<山内一豊>
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%86%85%E4%…0%E8%B1%8A

<見性院>
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%8B%E6%80%A7%E9%…%E5%AE%A4)
Re: 「愛の誓い」 岐阜城
【返信元】 「愛の誓い」 岐阜城
2011年09月16日 20:01
お千代さん

実は山内一豊の妻「千代」というのは江戸時代につけられて名前だ、とも言われています。
当時下級武士の娘として生まれた彼女は、出生地もあまり定かでありません。

江戸時代に「新井白石」が妻の鏡として造り上げた話の中に、妻の名前がないのではそれこそ「話にならない」ということでつけた名前が「千代」、ということです。
実際には「まつ」とか「おね」などの説も残っています。


黄金10枚で馬を買った話も「新井白石」による造り話しと云う説が濃厚です。
なぜなら織田信長の馬揃え=軍事パレード(1581年)で一豊が名馬を披露した事が仕官に繋がった事になっていますが、実はそれよりずっと以前に信長に仕えていました。

馬揃えの時期には既に「秀吉」家来として一緒に戦に行っていた、と云うんです。

戦国時代の出来事の殆どは江戸時代になって書きまとめられていますので、筆者の主観や希望、または偏見もあって全てが事実とは限らないようです。

要するに自分の家系は讃えるけど、敵だった家系はその逆に描かれる場合も良くあることです。

ということを諸先輩たちに伺いました。