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Re: 【井伊家と掛川】 その六
【返信元】 【井伊家と掛川】 その六
2011年09月17日 10:12
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追記です。
松平定勝の長男「定吉公」は若くして不幸な最期を遂げますが、次男の「定行公」は次代の掛川城主(1607年~1616年)を務めたあと、伊予松山藩祖に栄転します。 NHKアナウンサーの「松平定知」氏はこの定行公のご子孫に当ります。 また三男の「定綱公」は掛川城主(1619年~1622年)を務めたあと、桑名藩祖として栄転して行きます。 もし「定吉公」が短気を起こさなければ、彼はもっと出世していただろうとも言われています。 <余談> 松平定勝公の妹「多却(たか)」は保科正直に嫁ぎますが、その四男が「北条氏勝」の養子になり「北条氏重」を名載ります。 即ち「北条氏重」は徳川家康の甥に当る方で、1648年~1657年まで掛川城主を務めます。 この方の四女は大岡忠高に嫁ぎ、その子供が大岡裁きで有名な「大岡越前守忠相(ただすけ)」です。 |
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Re: 【井伊家と掛川】 その六
【返信元】 【井伊家と掛川】 その六
2011年09月15日 20:21
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真如寺に眠る「松平定吉」について
定吉は家康の父親違いの弟「松平定勝」の長男です。 慶長8年(1603年)家康上洛の御一行が掛川に差し掛かります。 当時19歳になった定義は、父親から遠江を抜けるまでの警護を命じました。 新居の関所を抜けて海路となります。 定吉は家康の船に同船していましたが、空を見上げると一羽の鷺が飛んでいるのがみえました」。 家康が「誰かあの鷺を射落とせるものがいないか」と言ったところ、定吉が弓を取って見事に射抜いたそうです。 これには船に乗っていた全員が拍手して、彼を讃えました。 しかし家康は 「お前のような身分の者が軽はずみなことをしてはいけない、もし射損じていたら皆の笑い物になっていただろう」 「これからの世の中を動かして行く人間は、それほどのことを誇りにすべきではない」 とたしなめたそうです。 定吉公は掛川に戻るとそのことを恥じて掛川城で切腹してしまいました。 そしてその突然の出来事に城中は大騒ぎとなり、彼の側近二十数名が後を追って殉死しました。 彼らの亡骸は現下俣南に葬られて、その後「遠江塚」と呼ばれています。 定吉は当時のお習字の教師であった「真如寺」の僧侶によって引導を渡されたことで彼の墓が真如寺に在ると伝えられています。 |
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Re: 【井伊家と掛川】 その六
【返信元】 【井伊家と掛川】 その六
2011年09月14日 23:14
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楽しませていただきました。ありがとうございました。
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Re: 【井伊家と掛川】 その六
【返信元】 【井伊家と掛川】 その六
2011年09月14日 20:48
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ありがとうございました。
一冊の本にしたい位ですね! 掛川から、歴史がみえました。 |
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