市民記者コーナーの「【井伊家と掛川】 その六」
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【井伊家と掛川】 その六
【閲覧数】2,153
2011年09月14日 18:12
 Episode・6 掛川城の姫たち 

このシリーズ最後になりますが、関連の寺院として掛川市仁藤「日輪山・真如寺」をご紹介します。
真如寺は掛川城の東方500mほどの小高い丘の上に在りますが、ここは永禄12年(1569年)徳川家康の掛川城攻めの際に「砦」を築いた場所でもあります。



その後の天正18年(1590年)真如寺は、掛川城主となった山内一豊の叔父である「在川謙昨和尚」を駿府の長源院から招いて、開山しました。
一豊公在任中、在川和尚は彼の良き相談役として務めましたが、一豊公が土佐に転封される際に掛川の真如寺を弟子の「巨山儒鯨和尚」に託し、自から一豊に就いて土佐に渡りました。
そして土佐にも同じく「日輪山・真如寺」を建立し、山内家歴代の菩提寺としました。
現在も高知市には「真如寺」があります。

一豊が土佐に移った後、家康は江戸時代最初の掛川城主に「松平定勝」を置きました。
彼は徳川家康の父親違いの弟に当たります。
その松平定勝公の娘(次女)は一旦家康の養女として迎えた後、土佐の山内一豊公の2代目「忠義」公の正室として嫁がせています。
もう一つの話題として驚いたことに、定勝公の長女は「服部半蔵正成」の嫡男である「服部半蔵正就」に嫁がせています。
なおこの正就は大坂夏の陣以降行方が分からず、戦死したとも言われています。



この定勝公の長男「定吉」は家康とのある出来事がきっかけで若くして自刃してしまいます。
(この出来事は田宮虎彦の「鷺」という小説で紹介されています)
この松平定吉公の肖像画(重要文化財)と墓がこちら「真如寺」にあります。


(正面に三つ葉葵の御紋が見えます)

さて本題の井伊家との関わりに戻りますが、井伊谷のI氏の話によると「真如寺」に、掛川城のお姫様の墓があると云うことを伺いました。
こちらお二人についてのエピソードは伺えませんでしたが、なんと松平定吉公のすぐ横に墓石をみつけました。


(正面に井伊家の橘のご紋が彫られています)

・掛川城18代城主「井伊直好」公の娘「芳心院春了(嘉)童女」:万治2年(1660年)3月21日亡
・掛川城19代城主「井伊直武」公の娘「知法院殿妙幻禅童女」:延宝7年(1679年)7月14日亡
二人とも「童女」となっていたので幼いお姫様だったのでしょう。
しかし、もし亡くなっていなければ歴史に残る著名な方に嫁いでいたかもしれません。



ここまで6回に渡って「井伊家と掛川」の関係を取材して来ましたが、それに以外にも関連した話題を数多く知ることができました。
調査して行くうちに私自身かなりのめり込んでしまったので、レポートはなるべく判り易い表現にしましたが、それでも一般の方にとっては難解だったかもしれません。
私は何か一つ、例えば「ひこにゃん」と井伊家の関係(なんで猫なのか?)だけでも印象に残して頂ければいいかな? と思っています。



私にとっても「目からうろこ」ばかりでとても楽しかったです。
長い間ありがとうございました!


書き込み数は4件です。
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Re: 【井伊家と掛川】 その六
【返信元】 【井伊家と掛川】 その六
2011年09月17日 10:12
追記です。

松平定勝の長男「定吉公」は若くして不幸な最期を遂げますが、次男の「定行公」は次代の掛川城主(1607年~1616年)を務めたあと、伊予松山藩祖に栄転します。
NHKアナウンサーの「松平定知」氏はこの定行公のご子孫に当ります。

また三男の「定綱公」は掛川城主(1619年~1622年)を務めたあと、桑名藩祖として栄転して行きます。

もし「定吉公」が短気を起こさなければ、彼はもっと出世していただろうとも言われています。

<余談>
松平定勝公の妹「多却(たか)」は保科正直に嫁ぎますが、その四男が「北条氏勝」の養子になり「北条氏重」を名載ります。
即ち「北条氏重」は徳川家康の甥に当る方で、1648年~1657年まで掛川城主を務めます。

この方の四女は大岡忠高に嫁ぎ、その子供が大岡裁きで有名な「大岡越前守忠相(ただすけ)」です。
Re: 【井伊家と掛川】 その六
【返信元】 【井伊家と掛川】 その六
2011年09月15日 20:21
真如寺に眠る「松平定吉」について

定吉は家康の父親違いの弟「松平定勝」の長男です。

慶長8年(1603年)家康上洛の御一行が掛川に差し掛かります。
当時19歳になった定義は、父親から遠江を抜けるまでの警護を命じました。
新居の関所を抜けて海路となります。

定吉は家康の船に同船していましたが、空を見上げると一羽の鷺が飛んでいるのがみえました」。
家康が「誰かあの鷺を射落とせるものがいないか」と言ったところ、定吉が弓を取って見事に射抜いたそうです。

これには船に乗っていた全員が拍手して、彼を讃えました。
しかし家康は
「お前のような身分の者が軽はずみなことをしてはいけない、もし射損じていたら皆の笑い物になっていただろう」
「これからの世の中を動かして行く人間は、それほどのことを誇りにすべきではない」

とたしなめたそうです。

定吉公は掛川に戻るとそのことを恥じて掛川城で切腹してしまいました。
そしてその突然の出来事に城中は大騒ぎとなり、彼の側近二十数名が後を追って殉死しました。

彼らの亡骸は現下俣南に葬られて、その後「遠江塚」と呼ばれています。

定吉は当時のお習字の教師であった「真如寺」の僧侶によって引導を渡されたことで彼の墓が真如寺に在ると伝えられています。

Re: 【井伊家と掛川】 その六
【返信元】 【井伊家と掛川】 その六
2011年09月14日 23:14
楽しませていただきました。ありがとうございました。
Re: 【井伊家と掛川】 その六
【返信元】 【井伊家と掛川】 その六
2011年09月14日 20:48
ありがとうございました。
一冊の本にしたい位ですね!

掛川から、歴史がみえました。