市民記者コーナーの「四つの現存御殿をめぐる旅≪その1≫」
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四つの現存御殿をめぐる旅≪その1≫
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2012年02月14日 17:49
掛川城二の丸御殿が江戸時代に建てられた建造物であることは、皆様よくご存じのことと思います。
御殿というのは一般的に藩の政務を執り行う政庁であり儀礼の場、城主の公私邸などが併設されていました。

 

現在の掛川城二の丸御殿には城主の私邸(奥御殿)以外の部分が残されています。
お城の案内をしている中で「天守閣は城主の住居じゃないのですか?」という質問が一番多いのですが、天守閣は有事の際にしか使用されることはなかったようです。
敵に攻め込まれた場合最後の砦としての重要な役目を持っていますので、戦国時代には専ら御殿は本丸にありました。



掛川に赴任して来た山内一豊公も本丸に御殿を建てましたが、そこは江戸時代に入ってから将軍上洛の際の宿としても使用されたということです。
ということは秀忠公も家光公も掛川城にお泊りになった訳です、すごいですね~!
その本丸御殿が二の丸に移ったのは、宝永4年(1707年)の地震のあとのことだったそうです。



宝永大地震の3日後には富士山が噴火して宝永山が出来たくらいです。
当時の人たちにとってそれはどんなに恐ろしい出来事だったことでしょう。
M8.6という地震は2011年3月の東日本大地震までは、最大規模の大地震だったといわれています。
現在の横須賀城の南側はそれまで海だったのが隆起してしまったくらいの異変でした。

 
(Now)          ⇒      (Before)

そこから150年後の嘉永7年(1854年)11月4日、さらにM8,4の東海大地震いわゆる安政の地震(または嘉永の地震)に見舞われ、掛川城は再び壊滅状態に陥ってしまいました。
その後天守閣は石垣を残し建物は取り壊されてしまいましたが、二の丸御殿は数年を掛けて再建されて行きました。
武家社会の終焉、そして文明開化の世を迎えると各地で封建時代の象徴であった城郭に関する建物の取り壊しが始まります。

 

ところが掛川城の二の丸御殿は学校、役場、そして消防署というように公的な建物として利用されてきました。
昭和47年まで掛川市農協の本部として使用された後、改修保存工事を経て昭和55年「国指定重要文化財」に指定されました。

<詳細はコチラ↓>
http://a-soviva.jp/shop/GRP63/SGP527/PGE1/000352.html

≪その2≫に続く
http://e-jan.kakegawa-net.jp/modules/topic/topic_vi…=&l=20

書き込み数は2件です。
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Re: 四つの現存御殿をめぐる旅≪その1≫
【返信元】 四つの現存御殿をめぐる旅≪その1≫
2012年02月16日 17:54
T-dutchさん

このCGはNHKで横須賀城の取材に来て頂いたときに作成されたものです。
この映像は2月18日(土)7:30からの「ウイークエンド中部」の中で紹介されますので、ぜひご覧ください。
おそらく7:45くらいからになりそうです。
Re: 四つの現存御殿をめぐる旅≪その1≫
【返信元】 四つの現存御殿をめぐる旅≪その1≫
2012年02月15日 11:35
宝永大地震前後の横須賀城の写真には驚きました。国道150号線はその当時は完全に海の中だったのですね。
横須賀の景色がまた違った視点から見ることができて、楽しみが増えました。