発端は「忍者と鉄砲」の関係でしたが、他にも忍者に関する素朴な疑問ってよくあります。
それらについて再認識して来ました。
①「伊賀流」「甲賀流」忍法の違いはあるのか?

伊賀と甲賀は地理的に隣り合っており、それらの生活環境や歴史的にも大きな相違はないため、技能、技術においても近似している。
一時期は伊賀と甲賀の区別はなく、同じ場所で修行していた時代もあったようだ。
②他に忍者の流派は全国にどのくらいあったのか?

北は青森から南は広島まで15府県に及び、それらの流派は実に41以上もある。
知名度でいうと神奈川の風魔一党、和歌山の根来衆、雑賀衆などがお馴染みである。
これらの忍者軍団は当地の領主たちにスカウトされ、暗躍していた。
③修行すれば誰でも忍者になれたのか?
忍者は体力だけでなく、呪術や五感も養わなければならないので、幼いころからの修行が必要だった。

指先だけで長時間天井の梁につかまっていれるだけの握力、それに堪えられるための体重制限(米俵一俵分=60kg以下)も必要とされた。
鍛えられた忍者の手刀は相手の脇腹に食い込ませて、ろっ骨を引き抜くほどの握力があったと言われている。
④忍者の巻物は存在したのか?

忍者の極意は口述で伝承されているため、免許皆伝の極意などは存在しない。
ただし火薬の調合や製薬の秘術については一部残っているが、ほとんどが江戸時代に書かれたものである。
⑤どんな忍び道具を使っていたのか?
甲賀忍者が出かける時の「六道具」というものが、江戸時代の書物に記されている。
それらは
・深編笠:顔を隠すため、風雨を凌ぐため、小道具の隠し場所など
・かぎ縄手:高所に登る、降りる、束縛するなど幅広く使用
・石筆(せきひつ)=蝋石:暗号などの連絡用、水にぬれても消えない
・三尺手拭=:汚水のろ過(飲料水確保)、寸法測定、覆面、包帯など万能
・附竹(つけだけ):火種保存器、懐炉としても使われた
・薬入れ:栄養剤、治療薬、武器として痺れ薬、毒薬などの保管。

(かぎ縄手)
ちなみに水上を歩くための「水蜘蛛」という履物は実用性に乏しく、忍者としての任務で使ったものではないらしい(農業用?)
他に、変装のための七つ道具(七方出:しちほうで)というものがあった。
⑥どんな武器を使っていたのか?
忍者の武器は殆ど農具や日用品に工夫をして、いざという時のために準備していた。(鎌、錐(きり)、針=吹き矢、火箸、鉄箸=手裏剣、毒薬など)
*一般の忍者が任務で刀を携行することは、まずなかったらしい。
当時、鉄製品は高価だったため、使い捨てである手裏剣はやたらと使われることはなかった。
手裏剣や吹き矢は殺傷能力自体が極めて低いので、使うときは先端に毒薬や痺れ薬を塗って使用していた。

忍者は火薬の調合に長けていたので、様々な「火器」を考案して使用していた。
ちなみに東アジアでは1380年頃から既に武器として「火器」が使われていた。
1543年に鉄砲が伝来すると、甲賀の里では「甲賀張り」(made in甲賀)と呼ばれる鉄砲も製造されるようになった。
⑦狼煙(のろし)はなぜ狼の煙と書くのか?
火薬に狼の糞を混ぜると、煙がまっすぐ高く上がって行く効果があった。
日本狼が絶滅した現代では立証することは難しい?
⑧江戸時代に建てられた忍者屋敷にも多くの仕掛けがあるのはなぜか?

平和な時代になると甲賀の集落は薬の製造で生計を立てて行くことになる。
当時の薬は非常に高価なものもあり、それらは各家の秘伝となっていた。
その製造技術を探りに来るスパイ除けとして、仕掛けが施されていた。
現在でも甲賀市には製薬会社が数多く存在している。
⑨伊賀の忍者として有名な服部半蔵は実在したのか?
有名な「服部半蔵=二代目(正成)」は、実は忍者ではない。

父親の服部半蔵=初代(保長)は伊賀で修行を積んだ忍者で、岡崎の松平清康(徳川家康の祖父)に仕えていた。
ところが忍者の身分で有るが故に、いくら功績をあげてもその名前が公になることはなかった。
そこで保長は自分の嫡男正成を武士として、松平家に仕官させた。
後に正成は「鬼の半蔵」「槍の半蔵」とも呼ばれ「徳川16将」の一人として、活躍している。
また伊賀忍者を率いる頭領としてCIA長官のような役割も果たしていた。
1569年の掛川城の戦いの際、半蔵は家康のナンバー2として忍び衆数十人を引き連れて来たと言われる。
(BS-TBS 「THE ナンバー2」、「服部半蔵VS真田幸村」、及びNHK 「BS歴史館」でも紹介)

(江戸城半蔵門)
江戸城には服部半蔵の名前から付けられたという「半蔵門」がある。
東海道から外様大名が江戸城に攻め込んだ時、徳川将軍家は甲州街道沿いの半蔵門から伊賀忍者たちに警護され、甲府まで逃亡する計画だったと言われている。
忍者の一族でこれだけ名を残した方は服部半蔵以外にはなく、父親保長の方針は正解であった。
最後に
もともと「忍者」らしき者は3000年も前に中国大陸で生まれ、その後日本に伝えられたという説もあります。
日本では聖徳太子が10人の訴えを同時に聞き分けたという伝説がありますが、10人の忍びが記録していたという説もあり、忍者の歴史は古いと言われています。

しかし忍者は常に陰の存在であったため、その存在が明らかになったのは江戸時代になって忍者の仕事が激減したため、就職活動のために書かれた「万川集海」という書物からです。

実際に忍者の存在なくして成し得なかった歴史上の出来事や事件は、無数にあります。
今後も更に「忍道」について踏み込んで探究して行きたいと思っています。
完