於大の方の足跡を訪ねて 【閲覧数】1,738
2013年06月24日 11:18
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「於大の方(おだいのかた)」は徳川家康の生母です。
彼女は戦国の真っ只中に生まれ、数奇な運命をたどった方です。 しかし歴史を紐解いてみると、そこには掛川城との意外な繋がりが見えてきました。 そこで私は彼女の足跡を辿ってみることにしました。 於大は享禄元年(1528年)、現在の愛知県東浦町役場近くの「緒川城(おがわじょう)」において水野忠政の次女として誕生しました。 彼女は14歳で、岡崎城主である松平広忠に嫁ぎます。 当時松平家は駿河の今川家の傘下にありました。 於大は天文11年(1543年)岡崎城にて男子を出産します。 その子は竹千代と名付けられますが、彼は紆余曲折を経て成長し徳川家康となりました。 ![]() (岡崎城・竹千代産湯の井戸) この直後、実父の水野忠政が亡くなると後を継いだ兄の信元は松平家と手を切り、織田方に従うこととなりました。 そこで松平広忠は今川家から圧力を受けることを恐れて於大と離縁し、実家の水野家に帰してしまいます。 竹千代がまだ3歳になったばかりの頃でした。 ![]() (椎の木屋敷跡) 刈谷の駅の近くの高台に「椎の木屋敷跡」という公園があります。 当時の水野家の居城である刈谷城の北東に辺りますが、実家に戻された於大の方はここに建てられた屋敷に2年間住んでいたと伝えられています。 周囲に椎の木が生い茂っていたため「椎の木屋敷」と呼ばれていたそうです。 ![]() (刈谷城と椎の木屋敷の位置関係) やがて於大は兄信元の勧めで阿久比(あぐい)城の城主久松俊勝に嫁ぎ、三男三女を設けました。 ![]() (阿久比城址) ![]() (久松家の菩提寺・洞雲院) 桶狭間の戦いの後、今川家から独立し織田信長と同盟を結んだ家康は、於大とその夫である俊勝を岡崎城に呼び寄せます。 そして夫俊勝の死後、於大は法名「伝通院」を名乗ります。 ![]() (伝通院肖像画) 時は江戸時代、伝通院は慶長7年(1602年)京都伏見城で病に倒れ他界しました。 75歳の生涯でした。 家康は生母の死を悼み遺体は遺言通り江戸に運んで火葬し、翌年法名に因んだ寺院「伝通院(でんつういん)」を建立しました。 ここで、これまでの話と掛川城との関連をご紹介していきます。 於大と久松俊勝との間に生まれた三男「松平定勝」は家康とは異父弟に当りますが、江戸時代最初の掛川城主として赴任してきます。 定勝の長男の定吉は掛川城で不慮の死を遂げてしまいますが、二男定行は掛川城主を経て伊予松山藩祖となり、三男定綱は掛川城主を経て桑名藩祖になります。 ![]() さて女性陣ですが、定勝の長女「松尾姫」は三代目服部半蔵正就に嫁いでいます。 二代目の服部半蔵正成は家康のナンバー2として、1569年の掛川城の戦いに参陣してきました。 次女の阿姫(くまひめ)は山内一豊の二代目忠義公の正室として、土佐山内家に嫁いでいます。 しかも一旦家康の養女として迎え入れ、徳川家から山内家へお輿入れというパフォーマンスを家康はやっています。 ![]() (徳川家光の霊廟) 次に17代掛川城主に北条氏重(うじしげ)という方がいます。 彼の母親は於大の方と久松俊勝の娘「多刧姫(たけひめ)」で、松平定勝の姉に当たります。 多刧姫は保科正直に嫁ぎ、そこで生まれた氏重はやがて北条氏勝の養子となります。 北条姓を名乗っていますが、家康からは甥に当たるサラブレッドです。 やがて彼は1648年に駿河田中城から掛川城主として赴任して来ます。 お馴染みの掛川古城址(子角山)に現在も残っている徳川家光を祀る霊廟(県指定重要文化財)ですが、掛川城主時代に北条氏重が建立したものです。 北条氏重の娘は大岡忠高(ただたか)に嫁ぎ、その息子が名奉行「大岡越前守忠相(ただすけ)」となります。 <北条出羽守氏重について> http://e-jan.kakegawa-net.jp/modules/topic/topic_vi…=&l=20 という訳で歴史上の有名人と関わりの深い掛川、その始まりが於大の方であることがよく わかって頂けたことと思います。 なお「掛川市史」によると松平定勝は掛川に赴任して来た際に、伝通院の位牌を掛川仁藤の天然寺に納めたと記されていました。 <参考資料> ・乾坤院(けんこんいん):東浦町 ![]() (水野家菩提寺:初期の頃の墓所) ・楞厳寺(りょうごんじ):刈谷市 ![]() (水野家菩提寺:本拠地を刈谷に移してからの墓所) *於大の方の肖像画が保管されている ・刈谷城址 ![]() 刈谷城は掛川城と同じ正保の城絵図が現存しています。 |
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Re: 於大の方の足跡を訪ねて
【返信元】 於大の方の足跡を訪ねて
2013年06月26日 07:41
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すーさんさん
於大の方を中心とした系図は確かにありますが、私の見たのは掛川城主くらいまででした。 ですから掛川の住人としては、もっと掛川との関係を知ってもらいたくて調べてみました。 コメントありがとうございました。 |
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Re: 於大の方の足跡を訪ねて
【返信元】 於大の方の足跡を訪ねて
2013年06月25日 16:40
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いやー興味深い戦国時代の歴史エピソードですね。「於大の方」様の名前は聞いたことが有りますが、掛川との関連までは知りませんでした。「於大の方」様をメインにした当時の人脈・家系を表したら面白いですね。(有るのかもしれませんが?)「於大の方」様が居なければ「徳川家康」は歴史に表れなかったから、NHK大河ドラマの題材に成るくらいの「戦国時代の人間模様」が描けるのではないでしょうか?有難うございました。
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