市民記者コーナーの「「服部半蔵」の最期を探る旅」
「「服部半蔵」の最期を探る旅」の書込一覧です。
「服部半蔵」の最期を探る旅
【閲覧数】1,753
2013年06月30日 11:26

二代目服部半蔵正成といえば徳川16傑の一人、1569年の掛川城の戦いに家康のナンバー2として参戦しています。


(BS-TBS 「THEナンバー2」で掛川城の取材に訪れました)
http://www.bs-tbs.co.jp/no2/60.html

また家康の長男信康が二俣城で切腹する際の介錯を、家康から命じられた人物が服部半蔵です。
その時、服部半蔵は涙で刀が振り下ろせなかったために、検分役の天方通綱(現森町の天方城主天方通興の子)が代わりに介錯をした、という逸話が残されています。
信康の遺骸は二俣城近くの清龍寺に埋葬されますが、服部半蔵はその遺髪の一部を保管していました。


(清龍寺の信康の墓所)

やがて1590年小田原の役のあと、家康は豊臣秀吉の命令により江戸に領地替えをさせられてしまいますが、服部半蔵も側近の一人として随伴します。
その後信康の霊を弔うために剃髪、名を「西念」と改めて麹町に庵を設け、そこに信康の遺髪を埋めます。
以降は信康の冥福を祈念する生活を送りました。
文禄4年(1595年)11月14日、寺院建立を果たさないまま服部半蔵は55歳の若さでこの世を去りますが、死後間もなく家康の命により西念寺が建立されました。
掛川城の戦いから26年後のことです。


(西念寺及び服部半蔵愛用の槍)

西念寺は江戸城の「半蔵門」からほど近い位置にあり、この地に二代目服部半蔵(正成)は眠っています。


(左:服部半蔵の墓 右:松平信康の墓)

江戸城表門の百人番所には甲賀組が詰めていたそうですが、反対側の甲州街道に面した半蔵門周辺には200人もの伊賀同心の屋敷があり、もし敵が東海道から江戸城に攻め込んだ時には将軍を警護して甲府まで逃げ延びる計画だったと言われています。


(右:百人番所、左:半蔵門)

すでに二代目服部半蔵正成は、その任務を三代目服部半蔵正就に託してあったと思われます。
ちなみに三代目服部半蔵の正室は、掛川城主であり徳川家康の異父弟でもあった松平隠岐守定勝の長女(松尾姫)です。

<最後に>
BS-TBSでも解説していた通り、大活躍した「二代目半蔵正成」は三河生まれで、忍者ではありません。
一代目の半蔵保長は伊賀で修行を積んだ忍びで、三河の松平清康(家康の祖父)の頃から松平家に仕えていました。


(徳川16将の一人:服部半蔵正成)

ところが忍びは陰の存在であるが故に、手柄を立てても出世はかないません。
そこで息子の半蔵正成は武士として、松平家に仕官させました。
表の顔は「槍の半蔵」ともいわれる槍の名人でしたが、裏では「伊賀忍者の元締め」いわばCIA長官のような役割で家康のナンバー2として活躍していました。


書き込み数は1件です。
[ 日付順 ] [ 投稿者順 ]
Re: 「服部半蔵」の最期を探る旅
【返信元】 「服部半蔵」の最期を探る旅
2013年07月08日 21:39
<追記>
(伊賀八幡宮・岡崎市)
初代服部半蔵保長(正種)は岡崎城下の伊賀八幡宮近くに屋敷を与えられたと言われています。

なお江戸城大手三の門近くの「百人番所」は甲賀組、伊賀組、根来組、雑賀衆が各25名ずつ4交替で守備に就いていたという事を、「甲賀の里」案内人のWさんに補足を頂きました。