市民記者コーナーの「「掛川さん」と武田信玄」
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「掛川さん」と武田信玄
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2014年04月12日 10:24
あるご家族(大人4名)が掛川城を訪れました。



最初「こちら掛川市では掛川のイントネーションは“カケガワ↓”か“カケガワ→”のどちらですか?」という質問を受けました。
「こちらでは“カケガワ↓”が正解です」とお答えしたところ「私たちもカケガワ↓といいます」と言われました

実は彼らは長野県小諸市に住むご一家で集落の8割が「掛川姓」という事です。
その集落の方たちが数年前には団体ツアーで掛川城を訪れたことがありますが、その当時は時間もなくて詳しい話はできませんでした。
私はその後掛川城を訪れるお客様で「掛川姓」の方と、3回(個々に3組)お話しする機会がありました。
それぞれがお知り合いという訳ではないようでしたが、それぞれご自分の“ルーツ”に興味を持って訪ねて来られました。

私は観光ガイドの先輩から「掛川に掛川姓は二軒しかないけど、長野県と群馬県にはたくさんいる」と聞かされていました。
その理由はわからなかったので小諸市役所の学芸員さんに聞いたりもしましたが、わかりませんでした。
そこで今回ご来城いただいた掛川家のご当主の方から意外な話を引き出しました。

 
(武田信玄)

元亀の時代ですので掛川城の戦いの2,3年後の頃と思います。
すでに掛川地域は徳川領になっていましたが、武田信玄は海に近い高天神城に狙いをつけていました。
しかし強固な守備の高天神城は落とすことが出来ず、武田軍は掛川宿に火を放って去って行ったという話を聞いています。
この時期に掛川領内の住民を多数連れ帰って「郷士」として小諸に住まわせたのが「掛川さん」のルーツであることを話してくれました。
郷士、即ち身分は農民ですが戦の時に駆り出される人たちです。
おそらくその後の有名な武田軍の戦いには暴れ回った人たちではないかと推測します。



さてここに1つの疑問が残ります。
戦国時代以前の掛川の地名は「懸河(かけがわ)」という漢字が一般的でした。
現在の「掛川」はおそらく山内一豊公が掛川に赴任した以降だと思われます。
それがなぜ「懸河さん」でなく「掛川さん」になったのでしょう?

元来、苗字(姓)というのは出身地や同族であることを示すため、居住していた場所に由来することが一般的だったそうです。
しかし強制移住させられた掛川さんたちは農民だったため、一般的に苗字は許されなかったのですが自分たちの故郷が懸河=掛川である事は決して忘れていませんでした。
それが明治8年「平民苗字必称義務制度」により、集落の大半の方が出身地である「掛川姓」を名乗り戸籍に登録したという訳です。

今回この方たちのお陰で今までの疑問が払しょくされました。
なお、小諸から更に群馬に移住させられた方々がいたので、群馬県は2番目に掛川姓が多いそうです。










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