掛川茶の歴史を知りたいの「江戸の「黒茶」、明治の「青茶」とは?」
「江戸の「黒茶」、明治の「青茶」とは?」の書込一覧です。
江戸の「黒茶」、明治の「青茶」とは?
【閲覧数】1,275
2010年11月22日 00:32
東山は足利将軍時代の大永年間(1521年から1527年)に開村したと古書にあるが、当時の様子はわからない。(『東山郷土誌』昭和44年 4p)

そして、お茶の始まりは・・・というと、

『小笠郡茶業史』には、

掛川市吉岡地域で徳川中世の頃から茶が製造されていたが、どれも「黒製」とある。(15p,33p)

「黒製」のお茶とは?

今ではもうご存知の方はいないかもしれない・・・

黒製の茶とは、生葉を釜で炒ってから、筵の上で搓り揉みして、風乾したお茶のこと。

「番茶式」と呼ばれ、一尺くらい伸びた茶芽を鎌で刈り取り、「押し切り?」で切断してから釜炒りしていた。(35p)

天明年間(1781-1789)には一千貫(約3736キログラム?)の産出あったとある。

安政初(1854)年になると、蒸してから揉捻し、乾燥させる茶を江戸に送るようになる。

きっかけは、川根の福太郎(放蕩息子で、実家を出されて漂浪していたらしい)という人が松林寺の和尚と茶話をしている間に宇治の製法を学び、「青製」という製法を南山地域に伝えたことだ。36p

再び、疑問。
「青製」のお茶とは?

当時の「青製」とは、蒸し挙げた茶を粗雑な框(かまち)にはめた金棒と鉄板ない形ばかりの焙炉(ほいろ)に移して、葉振りをして、もっぱら揉み切るだけで製茶した。

摘み遅れた葉は、蒸し当ててから筵(戸板などの上に乗せておく)、熱いうちに十分揉捻をして乾燥させた。

しかし、他の多くの村ではまだまだ「黒製」のお茶を製造していた。

明治になると、県内各地に茶園が開墾され、本格的な「焙炉」(ほいろ)が作られ始め、「金棒を用いる方法」(助炭=茶を揉む台の和紙を張り合わせてあるだけだった木枠の下に鉄の棒がわたるようになる)が伝わると、こぞって各地で「青製」のお茶を作り始める。

釜炒り茶をしている者も青製に似た緑茶を製造しはじめた。
輸出用に人気があるからである。

誰もが「自分流」のお茶の製法を広めようと必死に駆け回っていたそうだ。

東山では、「山の木を切るなんて!」最初は反対する人たちも多かったというが、明治維新後、山が開墾され、茶畑の面積が急激に増える。

前置きが長くなったが、永井さんのところの表彰状に「釜」「籠向」など、お茶の種類が書いてあり、それについて触れるために、これをアペリティブ(食前酒)として書いておく。

(賞状にある茶については次回へ)

書き込み数は3件です。
[ 日付順 ] [ 投稿者順 ]
Re: 江戸の「黒茶」、明治の「青茶」とは?
【返信元】 江戸の「黒茶」、明治の「青茶」とは?
2010年11月22日 23:42
「1837年に現在の島田市伊久美の坂本藤吉氏によって京都から茶師を招き、宇治煎茶製法が県内に伝わり多数の技術者が生まれました」以下のURLにはそのように紹介されてますね↓
http://www.geocities.jp/temomihozonkai/newpage7.html

ただ、『小笠郡茶業史』には、この記述はなく、掛川(旧小笠郡)地域では青製はまれで、ほとんどが黒製だったとあります。
Re: 江戸の「黒茶」、明治の「青茶」とは?
【返信元】 江戸の「黒茶」、明治の「青茶」とは?
2010年11月22日 23:18
永谷宗円がこの青茶の製法を工夫した(wikiでは、関西ではそう信じられている、としか書いてませんが)と、伝わってますが、

上記のwikiの記述の中で、八女では、大正時代、静岡から茶師を招いて製茶法を教わっているとありますが、これが永井氏だったら面白いですが(九州にも指導にいっていたと聞いてます)、資料あるかな~


Re: 江戸の「黒茶」、明治の「青茶」とは?
【返信元】 江戸の「黒茶」、明治の「青茶」とは?
2010年11月22日 00:34
?部分と、製造については、詳しい方いたら、教えてください。

地名も検証前ですので、暗しい方いらしたらぜひ助けてください。

でも、時代を再現したお茶ができたらまた面白いですね。

八女茶wikiには以下のように説明してます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E5%A5%B3%E8%8C%B6