掛川茶の歴史を知りたいの「東山は「浜松茶」だった?」
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東山は「浜松茶」だった?
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2010年11月23日 21:11
明治100年を記念して地元の有志の皆さんが編纂した「東山郷土史」をはじめ、小笠郡茶業史など、関係書籍をお借りしてきたので、そこから東山の歴史を今回はお話させていただく。


(東山茶業組合のブログに東山の歴史のお話がまとめられています。今回は、その中に書かれていないところからピックアップもしますので、以下のブログと合わせてみると面白さ倍増と思います)
http://fukamushi.hamazo.tv/c540407.html

東山は江戸時代の始めより「東山村」として自治区となっていた。7p
明治の廃藩置県で、東山は「浜松県」に属していた。9p

(おお!数年間、「浜松県民」だったんですね!・・・ということは、「静岡茶」ではなく「浜松茶」だったということか、、、)

それが、明治9年に「静岡県」となる。
市町村制が発布されると、「東山日坂村」(組合自治区)となるが、

「日坂とは、人情風俗、利害が異なる」
「日坂村選出の議員が多く、多数決でいつも東山に損になる決議をする」p10
「役場の位置が一方に偏って不便」

など理由に、34年、日坂より独立して「東山村」となるのである。

(なんだかこの理由書を見ると、素直で面白いですネ)

<境界事件>11p
お隣の倉見村とも粟が岳の境界でもめた。

なかなか両方の村で納得いく結論が出ず、長い間の交渉の末、ようやく三か所の石に書く文字を刻し、土塚を築いて落ち着いた。

(その土塚、今でもあるのでしょうか、先人の苦労の跡ですよね、見たいです)

もちろん、他の境界を接する村との紛議も十数年間なかなか解決できずにいた。
東山の土地を侵食して開墾してきた者もあり、長老たちに何とか解決しようと調査していたようだ。

最終的には県知事に相談すると、新たに一線を設けて境界線とする旨の返事が返されてきた。これは東山の不利になると、知事を被告として訴え、県参事会の決済に解決を任せた。

これらはすべて先人が、道も不便なところを鞋(わらじ)履きで、腰弁当を持って何度も通い、涙ぐましい苦労の上の、やっとの解決であったという。

彼らの苦労を永久に忘れることなきよう、と「東山郷土誌」の編者は言う。

現代は、幹線道路も開通し、「近代的文化的生活のできる理想郷」と評されているが、昔は山の中の小さな村であった。(それが理想郷の条件でもあろう)

明治初期まで、はなはだ道路が悪く人馬の交通が少なかった。

日用品は金谷まで山道を一里半歩いて売り買いに行き、医者もいなかっため、病人が出た場合は、近所の人を頼んで籠で病人を医者のもとへ届けたという。

明治16年には、東山人口411人。
その中で書類が読める者 33名。
(幕末から維新前後の全国平均の識字率は8割程度と言われているので低め)

なぜ、これをとりあげたかというと、以下の書類の謎解きがしたいからだ。


明治45年の県茶業組合総合会議所への提出書類が、なぜか永井さん宅に数枚まとめてある。

「なぜ、組合員の提出すべき書類群が家にあるのか不思議」

永井さんも話されていたが、最初は代筆されていたのかと思われた。
しかし、筆跡がそれぞれ違うので、書いたのはそれぞれが書いたものを集めたようだ。

永井さんがまとめて書類を提出する役割だったのかと思われる。
しかし、提出せずに保存されていたのは、明治45年は大正に年号が変わった年なので、書き直して、書き直す前のものが残っていたのかとも推測されるが、わからない。

45年以降、機械を購入しても書類を県の組合会議所に提出する必要がなくなったからなのか?もう少し調べてみたい。

(次回へ続く)

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Re: 東山は「浜松茶」だった?
【返信元】 東山は「浜松茶」だった?
2010年11月23日 21:13
東山に電気がはじめて通った日、

はじめて電話が開通した時、

水道が完備されたとき、

そして、水がピタッと止まった時、

はじめて郵便ポストができた時、

すべて面白いので、つきません。

ああ、期限までにまとまるでしょうか、、、

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